16 / 18
臭気と香気
しおりを挟む
セットの崩れた髪と不精ヒゲ、着崩れたシャツとシワまみれのスーツのパンツ。そんな姿の幸二を前に、紗江子は身動きが取れなくなった。
「随分と遅かったな、仕事で泊まり込みになったのか?」
「……」
笑顔で投げかけられた言葉に、返事ができない。
「まあ、部屋も散らかってるし、忙しかったんだな」
「……」
「でも、このくらいなら許容範囲だから大丈夫だよ」
幸二は当然のように喋り続けるが、まったく状況が理解できない。
「……どうしたんだ、ずっと黙り込んで?」
「……なんで、ここにいるの?」
ようやく絞り出した声で問い返すと、幸二は笑顔を歪ませた。
「なぜって、婚約者の家にいくのに、いちいち連絡が必要か?」
一方的に破棄したくせに、何を今更。そんな言葉を必死に堪えた。今下手に刺激したら何が起こるか分からないし、そんな言い争いをしたいわけではない。
「そうじゃなくて、なんで部屋に入れたの?」
「え、だって鍵は開いてただろ」
「……え?」
「とぼけなくてもいいよ。合い鍵を持ってない俺がいつ来てもいいように、開けておいてくれたんだろ?」
そんなはずはない。
金曜の夜、泊まりの荷物を持ってここを出たとき、たしかに鍵をかけたはずだった。
「ははは。紗栄子のそういう一途なところ、やっぱり可愛いね」
歪んだ笑顔を浮かべたまま、幸二は近づいてくる。
逃げないと。そう思ったときにはすでに、歪んだ笑顔が目の前にあった。
アルコールと皮脂と汗が混じった臭いが、嫌でも漂ってくる。
「少し自分勝手なところも、今では可愛いと思うよ」
そんな言葉とともに、汗ばんだ手が頬に触れた。嫌な感触と臭気に、吐き気が込み上げる。一刻も早くこの距離から逃げ出したい。少し前までは、なんとも思わなかったのに。
「紗江子、愛してる」
近づいてくる顔に、全身が粟立つ。
そして――
「……っ、やめて!」
――とっさに頬を張っていた。
「……紗江子?」
幸二は頬をさすりながら、呆然とした表情を浮かべている。それが無性に、癇に障った。
「……今更なんなの!? 一方的に婚約を破棄したのは、そっちじゃない!」
怒鳴りつけられて、幸二は目を見開いた。今まで喧嘩をしても、紗江子の方から折れて、声を荒らげることはなかった。
「後輩にちょっと親切にされたからって勘違いして調子に乗って……、現実を突き付けられたら、被害者面して『可哀想なボクを慰めて』? ふざけるのも大概にして! 自分勝手なのはどっちよ!?」
「う……」
反論をしようとした幸二だったが、言葉がうまくまとまらない。ただ、視点の定まらない目をして、小さなうめき声を出すだけだった。
「私にはもう、幸二なんかと違って、優しい恋人がいるの! 二度と顔を見せないで……」
「なんだとっ!?」
「きゃぁっ!?」
突然、紗栄子は肩を掴まれ、扉に強く押しつけられた。
「俺という婚約者がいながら、他の男に手を出されたのか!? この――!!」
猥雑な罵り言葉とともに、手に力が込められる。肩に指が食い込む痛みに、うっすらと涙が浮かんできた。
「久しぶりだから優しくしてやろうと思ったけど……、少し痛い目を見せないといけないみたいだな」
口元を歪ませた笑みが間近に迫り、指がさらに肩に食い込んでいく。
誰か助けて。
そう祈りながら、目を閉じると――
「紗江子さん! 大丈夫ですか!?」
――扉の外から、誠の声が響いてきた。
「……ん?」
幸二は眉をひそめて、ほんの少し手の力を緩める。
その一瞬の隙を紗栄子は見逃さなかった。
「っ放して!!」
「うぐっ!?」
渾身の力を込めて、膝で蹴り上げる。すると、当たりどころが悪かったのか、幸二は肩から手を離し、うめき声をあげてうずくまった。
そんな様子に目もくれずに、扉を開け放ち外へ飛び出す。その先には、焦った表情の誠が立っていた。
「紗江子さん!?」
「神谷さん!」
なりふり構わず、紗栄子は誠に抱きついた。身体が温かな腕と、リンゴに似た香りに包まれる。
「……無事で、本当によかった」
優しい声とともに抱き返され、骨張った手が頭をなでた。その途端、今まで堪えていた震えが、全身を襲った。
「怖かった、です……」
「もう、大丈夫ですよ」
誠は宥めるような口調でそう言うと、抱き寄せる腕に力を込める。
それから、誠は紗江子を抱きしめ、頭をなで続けた。
身体の震えが落ち着いてくると、紗栄子は再び誠にキツく抱きついた。
「ドアを開けたら、幸二が部屋の中にいたんです……。それで、ちょっと言い合いになって、それからドアに叩きつけられて……」
状況を説明するうちに、再び身体が微かに震え出した。誠はそれを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとなでた。
「そうでしたか……、それなら戻ってきて正解でしたね」
「すみません……、神谷さんはちゃんと忠告してくれてたのに……」
「紗栄子さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはすべて、あの男です。なので……」
誠はそこで言葉を止めると、玄関の扉に顔を向けた。
「……キッチリと落とし前をつけさせないと、いけないですね」
そう言い放つ顔に、身の毛もよだつほど冷たい笑みが浮かぶ。
しかし、心地よい香りのする胸に顔を埋める紗江子に、誠の表情を知るすべはなかった。
「随分と遅かったな、仕事で泊まり込みになったのか?」
「……」
笑顔で投げかけられた言葉に、返事ができない。
「まあ、部屋も散らかってるし、忙しかったんだな」
「……」
「でも、このくらいなら許容範囲だから大丈夫だよ」
幸二は当然のように喋り続けるが、まったく状況が理解できない。
「……どうしたんだ、ずっと黙り込んで?」
「……なんで、ここにいるの?」
ようやく絞り出した声で問い返すと、幸二は笑顔を歪ませた。
「なぜって、婚約者の家にいくのに、いちいち連絡が必要か?」
一方的に破棄したくせに、何を今更。そんな言葉を必死に堪えた。今下手に刺激したら何が起こるか分からないし、そんな言い争いをしたいわけではない。
「そうじゃなくて、なんで部屋に入れたの?」
「え、だって鍵は開いてただろ」
「……え?」
「とぼけなくてもいいよ。合い鍵を持ってない俺がいつ来てもいいように、開けておいてくれたんだろ?」
そんなはずはない。
金曜の夜、泊まりの荷物を持ってここを出たとき、たしかに鍵をかけたはずだった。
「ははは。紗栄子のそういう一途なところ、やっぱり可愛いね」
歪んだ笑顔を浮かべたまま、幸二は近づいてくる。
逃げないと。そう思ったときにはすでに、歪んだ笑顔が目の前にあった。
アルコールと皮脂と汗が混じった臭いが、嫌でも漂ってくる。
「少し自分勝手なところも、今では可愛いと思うよ」
そんな言葉とともに、汗ばんだ手が頬に触れた。嫌な感触と臭気に、吐き気が込み上げる。一刻も早くこの距離から逃げ出したい。少し前までは、なんとも思わなかったのに。
「紗江子、愛してる」
近づいてくる顔に、全身が粟立つ。
そして――
「……っ、やめて!」
――とっさに頬を張っていた。
「……紗江子?」
幸二は頬をさすりながら、呆然とした表情を浮かべている。それが無性に、癇に障った。
「……今更なんなの!? 一方的に婚約を破棄したのは、そっちじゃない!」
怒鳴りつけられて、幸二は目を見開いた。今まで喧嘩をしても、紗江子の方から折れて、声を荒らげることはなかった。
「後輩にちょっと親切にされたからって勘違いして調子に乗って……、現実を突き付けられたら、被害者面して『可哀想なボクを慰めて』? ふざけるのも大概にして! 自分勝手なのはどっちよ!?」
「う……」
反論をしようとした幸二だったが、言葉がうまくまとまらない。ただ、視点の定まらない目をして、小さなうめき声を出すだけだった。
「私にはもう、幸二なんかと違って、優しい恋人がいるの! 二度と顔を見せないで……」
「なんだとっ!?」
「きゃぁっ!?」
突然、紗栄子は肩を掴まれ、扉に強く押しつけられた。
「俺という婚約者がいながら、他の男に手を出されたのか!? この――!!」
猥雑な罵り言葉とともに、手に力が込められる。肩に指が食い込む痛みに、うっすらと涙が浮かんできた。
「久しぶりだから優しくしてやろうと思ったけど……、少し痛い目を見せないといけないみたいだな」
口元を歪ませた笑みが間近に迫り、指がさらに肩に食い込んでいく。
誰か助けて。
そう祈りながら、目を閉じると――
「紗江子さん! 大丈夫ですか!?」
――扉の外から、誠の声が響いてきた。
「……ん?」
幸二は眉をひそめて、ほんの少し手の力を緩める。
その一瞬の隙を紗栄子は見逃さなかった。
「っ放して!!」
「うぐっ!?」
渾身の力を込めて、膝で蹴り上げる。すると、当たりどころが悪かったのか、幸二は肩から手を離し、うめき声をあげてうずくまった。
そんな様子に目もくれずに、扉を開け放ち外へ飛び出す。その先には、焦った表情の誠が立っていた。
「紗江子さん!?」
「神谷さん!」
なりふり構わず、紗栄子は誠に抱きついた。身体が温かな腕と、リンゴに似た香りに包まれる。
「……無事で、本当によかった」
優しい声とともに抱き返され、骨張った手が頭をなでた。その途端、今まで堪えていた震えが、全身を襲った。
「怖かった、です……」
「もう、大丈夫ですよ」
誠は宥めるような口調でそう言うと、抱き寄せる腕に力を込める。
それから、誠は紗江子を抱きしめ、頭をなで続けた。
身体の震えが落ち着いてくると、紗栄子は再び誠にキツく抱きついた。
「ドアを開けたら、幸二が部屋の中にいたんです……。それで、ちょっと言い合いになって、それからドアに叩きつけられて……」
状況を説明するうちに、再び身体が微かに震え出した。誠はそれを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとなでた。
「そうでしたか……、それなら戻ってきて正解でしたね」
「すみません……、神谷さんはちゃんと忠告してくれてたのに……」
「紗栄子さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはすべて、あの男です。なので……」
誠はそこで言葉を止めると、玄関の扉に顔を向けた。
「……キッチリと落とし前をつけさせないと、いけないですね」
そう言い放つ顔に、身の毛もよだつほど冷たい笑みが浮かぶ。
しかし、心地よい香りのする胸に顔を埋める紗江子に、誠の表情を知るすべはなかった。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説
妹に一度殺された。明日結婚するはずの死に戻り公爵令嬢は、もう二度と死にたくない。
たかたちひろ【令嬢節約ごはん23日発売】
恋愛
婚約者アルフレッドとの結婚を明日に控えた、公爵令嬢のバレッタ。
しかしその夜、無惨にも殺害されてしまう。
それを指示したのは、妹であるエライザであった。
姉が幸せになることを憎んだのだ。
容姿が整っていることから皆や父に気に入られてきた妹と、
顔が醜いことから蔑まされてきた自分。
やっとそのしがらみから逃れられる、そう思った矢先の突然の死だった。
しかし、バレッタは甦る。死に戻りにより、殺される数時間前へと時間を遡ったのだ。
幸せな結婚式を迎えるため、己のこれまでを精算するため、バレッタは妹、協力者である父を捕まえ処罰するべく動き出す。
もう二度と死なない。
そう、心に決めて。
貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした
ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。
彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。
しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。
悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。
その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
ほらやっぱり、結局貴方は彼女を好きになるんでしょう?
望月 或
恋愛
ベラトリクス侯爵家のセイフィーラと、ライオロック王国の第一王子であるユークリットは婚約者同士だ。二人は周りが羨むほどの相思相愛な仲で、通っている学園で日々仲睦まじく過ごしていた。
ある日、セイフィーラは落馬をし、その衝撃で《前世》の記憶を取り戻す。ここはゲームの中の世界で、自分は“悪役令嬢”だということを。
転入生のヒロインにユークリットが一目惚れをしてしまい、セイフィーラは二人の仲に嫉妬してヒロインを虐め、最後は『婚約破棄』をされ修道院に送られる運命であることを――
そのことをユークリットに告げると、「絶対にその彼女に目移りなんてしない。俺がこの世で愛しているのは君だけなんだ」と真剣に言ってくれたのだが……。
その日の朝礼後、ゲームの展開通り、ヒロインのリルカが転入してくる。
――そして、セイフィーラは見てしまった。
目を見開き、頬を紅潮させながらリルカを見つめているユークリットの顔を――
※作者独自の世界設定です。ゆるめなので、突っ込みは心の中でお手柔らかに願います……。
※たまに第三者視点が入ります。(タイトルに記載)
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
あなたなんて大嫌い
みおな
恋愛
私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。
そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。
そうですか。
私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。
私はあなたのお財布ではありません。
あなたなんて大嫌い。
【完結】義母が斡旋した相手と婚約破棄することになりまして。~申し訳ありませんが、私は王子と結婚します~
西東友一
恋愛
義母と義理の姉妹と暮らしていた私。
義母も義姉も義妹も私をイジメてきて、雑用ばかりさせてきましたが、
結婚できる歳になったら、売り払われるように商人と結婚させられそうになったのですが・・・・・・
申し訳ありませんが、王子と結婚します。
※※
別の作品だと会話が多いのですが、今回は地の文を増やして一人の少女が心の中で感じたことを書くスタイルにしてみました。
ダイジェストっぽくなったような気もしますが、それも含めてコメントいただけるとありがたいです。
この作品だけ読むだけでも、嬉しいですが、他の作品を読んだり、お気に入りしていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる