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朝食と運命と呼んだわけ

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 紗江子が目覚めると、寝室は朝陽に包まれていた。
 誠の姿は見当たらないが、少し苦さの混じったリンゴのような香りが、かすかに漂っている。眠りに落ちるまで、すぐ近くで嗅いでいた香りだ。

 昨夜はさんざん深い口づけを交わしたあと、寝室に移動して身体を重ねた。
 広いベッドの上で甘い言葉をささやかれながら、快感に何度も身体を震わせた。
 幸二とするときは、痛いだけだったのに。そんな比較をする余裕さえないほどの快楽を与えられ、いつしか気を失うように眠っていた。

 紗江子は頭を抱えると、深いため息を吐いた。

 いくらやけになっていたからといって、知り合ったばかりの男性と身体を重ねるなんて。そんな自己嫌悪が、ふつふつと湧き上がってくる。

 気づかれないうちにこの部屋を抜け出して、全て忘れて、何もなかったことにしたい。そんな思いとは裏腹に、寝室のドアがノックされた。

 まだ寝ていることにすれば、抜け出す機会を見つけられるかもしれない――

「おはようございます」
 
 ――という期待を裏切るように、静かにドアが開いた。
 顔を出したのは、白いゆったりとしたシャツに、黒いズボンをはいた誠だった。

「……おはよう、ございます」

 返事をすると、穏やかな笑みが返ってきた。
 
「昨日は、眠れましたか?」

「……おかげさまで、ぐっすり」

「それならよかった」

 誠は足を進めベッドに腰掛けると、紗江子の顔を覗き込んだ。それから、額にそっと唇を落とした。

「朝食の準備ができたので、目が覚めたらいらしてください」

「ありがとう、ございます」

「いえいえ。それでは、お待ちしています」

 そう言うと、誠は軽やかな足取りで寝室を出ていった。口から再び、深いため息がこぼれる。気は進まないが、いつまでも横になっているわけにもいかない。

 紗江子はゆっくりと起き上がり、寝室をあとにした。

 廊下を抜けドアを開けると、リビングはトーストとベーコンの香りに包まれていた。

「さあ、どうぞこちらへ」

 うながされるまま、ダイニングテーブルに足を進めた。席につくと、トースト、ベーコンエッグ、サラダを前にして、誠が苦笑を浮かべる。

「簡単なものばかりで、申し訳ないです」

 その言葉に、紗江子は慌てて首を横に振った。

「いえ、そんなことないです! とても、美味しそうですよ!」

「そう言っていただけるなら、なによりです。では、召し上がってください」

「はい、いただきます」

 そうして、二人は朝食を始めた。

 水気がしっかりと切られたサラダも、黄身がキレイなほどよい焼き加減のベーコンエッグも、とても美味だ。それでも、紗江子はあまり食が進まない。

「……お口に、合いませんでしたか?」

 不安げに問いかける誠に、またしても慌てて首を横に振る。

「いえ! そうじゃないんです! ただちょっと、気まずいというか……」

「気まずい?」

「はい……、昨夜は見苦しいところを見せてしまったのに、朝食までご馳走になってしまって……」

「なんだ、そんな心配をしていたんですね」

 誠は、安心したように微笑んだ。

「見苦しいだなんてとんでもない、とても可愛らしかったですよ」

 その甘い言葉に、昨夜の出来事が鮮明に蘇り、頬と耳が熱くなっていくのを感じる。どんな言葉を返せばいいかと悩んでいるうちに、誠の笑みは深くなった。

「それに、朝食のことも気にしないでください。これくらい当然です。貴女は運命の人なんですから」

 それは、昨夜も聞いた言葉だった。しかし、紗江子には、全く心当たりがない。

「あの、運命の人というのは……?」

「貴女と俺は前に一度、会ったことがあるんですよ」

「え、一度会ってる?」

 こんなイケメン、忘れることなんてないはずなのにと、必死に記憶を掘り起こした。それでも、一向に思い出すことができない。そんな様子を見て、誠は苦笑を浮かべて頬を掻いた。

「紗江子さんはこちらに気づいていなかったと思いますが……、二年くらい前にもうちの店に来ていましたよね?」

「二年くらい前……、あ!」

 その言葉通り二年前にも一度、百貨店に入った誠が勤めるブランドに立ち寄ったことがある。ボーナスが予想より高かったため、奮発して何か買ってみたくなったからだ。

「思い出していただけましたか?」

「……はい」

「ふふふ。そのとき、俺もちょうど香水の売れ行き調査で、その店舗を訪れていたんですよ」

「そう、だったんですね」

「はい。そこでテスターの香水ビンを手に取る、貴女を見かけたんです」

 たしかに香水コーナーで、気になるビンを見つけて手に取った記憶がある。それは、ピンク色をしたしずく型で、小さな花びらを模したガラス製のフタがついていた。

「フタを開けた貴女は、とても幸せそうな表情をしていました。一目で、気に入ってくれたと分かるくらいに。残念ながら、買ってはもらえませんでしたが」

 そうだ、フタを開けたとき、イチゴとモモを混ぜたようないい香りがして、すごく気に入ったんだ。
 それでも、一緒にいた幸二に「お前にこんな可愛い香水なんて、絶対似合わない」と言われて、買うのをやめたんだった。

 そんなことを思い出していると、誠はまたしても苦笑を浮かべた。

「あの香水はね、俺がはじめて作った香水なんですよ。まあ、レビュアーの方々からは、酷評されましたがね」

「え、酷評?」

「はい。『出来損ないのキャンディー』だの、『安っぽい少女趣味』だの、辛辣な評価ばかりでしたね」

「そんな……、酷い……」

「あははは。たしかに、最初の作品の評価としては厳しすぎたので、当時は調香師を辞めようかと真剣に悩みましたね。それでも……」 

「!?」

 不意に、骨張った細い指先に手の甲をなでられた。

「……貴女のような美しい人の、心の琴線に触れることができた。それが分かったおかげで、もう少し頑張ってみようという気になったんです」

 それが、運命の人と呼ばれた理由か。そう思っていると、手の甲がそっとにぎられた。

「高評価の香水が作れるようになるまで調香師を続けられたのも、貴女のおかげです。だから、もう一度会いたいとずっと思っていたのですが……、まさか俺の作った香水をつけて泣きそうな顔で走っているところを見つけるとは思いませんでした。しかも、香水を捨てるところまで見てしまい、気が動転してしまって……」

「……だからって、女子トイレにまでついてくるのは、どうかと思いますよ」

「あははは、その点については、反省してます」

 誠は苦笑を浮かべながらそう言うと、紗江子の手を持ち上げた。

「でも、放っておけなかったんですよ。貴女を悲しんだままに、させておきたくないって」

「それは、どうも……」
 
「もしも、貴女さえよければ、このまま……」

「あ、あの! このままお話していると、せっかく作っていただいた朝食が、冷めてしまうんで……」

 真剣な眼差しと声にたえられず、視線と話題を反らした。
 誠のに嫌悪感があるわけではないが、もう少し考える時間が欲しい。

「……そうですね。話の続きは、朝食が終わってからにしましょう」

 誠は苦笑を浮かべながらも、うなずいて手を離し、フォークを持ち直した。
 紗江子も軽くため息を吐いてフォークを持ち直し、サラダへと伸ばした。
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