鯨井イルカ

文字の大きさ
上 下
4 / 7

モビールのような物の下で

しおりを挟む
 目の前には、廊下が続いていた。
 上を向けば、灰色の天井。
 下を向けば、灰色の床。
 左を向けば、灰色の壁。
 右を向けば、灰色の窓。
 ともかく、すべてがぼんやりとした灰色だった。
 一見すると異様な光景にも思える。
 しかし、この風景に違和感は覚えなかった。
 この廊下は、学校の廊下だとすぐに気づけたからだ。
 小中高のどの学校かは思い出せない。
 少なくとも、大学ではない気がする。
 もっと幼い頃、この灰色の廊下に、休むことなく毎日通っていた記憶がある。

 不意に、私は懐かしさが込み上がるのを感じた。

 思えば、学校では楽しいことばかりだった。
 勉強も、友人達との生活も、部活動も。
 だからこそ、小中高すべての学校で、皆勤賞を取ることができたのだろう。
 

 ただ、一つだけ、後悔していることもある。
 思い出す度に、胸の中心が冷え、胃が痛み出す。
 とはいえ、思い出したところで、今更どうしようもないことではある。
 しかし、決して忘れ去ることはできない。


 苦々しい思いを振り切るように、私はまたしばらく足を進めた。
 すると、灰色の風景に変化が生じた。
 少し先の壁に、黒い室名札と灰色の引き戸が見える。
 私は歩みを早めて、その引き戸へと近づいた。

 引き戸には、縦長のガラス窓がついていた。
 私は中の様子が気になり、窓を覗き込んだ。
 しかし、中の様子は全く見えない。
 磨りガラスだとしても、もう少し見えると思うのだが。

 私は諦めきれず、ガラス戸の前で目をこらした。
 しかし、中の様子は依然として見えない。
 思わず、口から深いため息がこぼれた。
 
 別に、中の様子が見られなくても、なんら問題はないはずだ。
 それでも、私はこの教室の内部を確かめなくてはならない。
 どういったわけか、そんな使命感が心に浮かんだ。

 それから、私は引き戸の取っ手に手をかけた。
 すると、引き戸はガラガラと音を立て開いた。

 教室に入るとすぐに、上下式の黒板と教卓が目に入った。
 更に見渡すと、水場のついた机と、木製の角椅子が並んでいるのが見える。
 壁際には、実験用具のような物が入った棚が設置されている。
 どうやら、ここは理科室のようだ。
 しかし、理科室にしては少し様子がおかしい。


 天井からモビールのような物が、無数に吊されている。
 まるで、机を取り囲むかのように。


 モビールの多くは白い色をしていた。
 しかし、中には灰と黒と茶を混ぜ合わせたような色の物もあった。
 白い色をした物は、乾燥しているように見えた。
 それ以外の色の物は、湿気ているように見えた。
 また、濁った水をポタポタと滴らせている物も見える。

 一見すると、それらは流木で作ったモビールのようにも見えた。
 しかし、流木にしては、同じ形の物が多くありすぎる気がする。
 どれもU字に曲がっていて、四角い突起がついている。
 
 眺めているうちに、私はモビールの正体が何なのか、気になった。
 だから、近くの机まで足を進めた。
 
 それから、私は白く乾燥したモビールに手を伸ばし、目をこらした。
 

 そして、酷く後悔した。


 吊されていた物は、流木などではなかった。
 何故、こんな物でモビールを作ったのか、理解に苦しむ。
 いや、ひょっとしたらこれはモビールなどではなかったのかもしれない。


 天井から吊されていたのは、下顎の骨だった。


 私は慌てて手を振り払った。
 そして、改めて教室の中を見渡した。

 教室中に吊されていたのは、同じく下顎の骨のようだった。
 その多くは、目の前の物と同じように白骨化している。
 しかし、中には肉がこびりついている物もある。
 また、腐敗した血肉をボタボタと滴らせている物もある。

 あまりの光景に、私は思わず目を瞑った。
 
 目を開ければ、きっとこの光景は消え去っているはず。
 
 そう願いながら、私は重い目蓋を再び開いた。

 すると、願い通り吊された下顎達は消え去っていた。
 その代わり、こちらに背を向ける制服姿の学生達が目に入った。
 学生達は姿勢を正して席についている。
 そして、同じくこちらに背を向けた教師の話に耳を傾けているようだ。
 
 どうやら、まだ少しおかしな場所にいるようだ。
 しかし、先ほどまでいた場所よりは遙かにマシだ。
 私は安堵すると同時に、ため息をしながら全身を伸ばした。
 すると、勢い余って机を蹴飛ばしてしまった。
 静まり返った教室の中に、机の足が床をする音が響く。
 その途端、教室中の人間が、私の方に振り返った。

 そして、私は考えを改めることになった。
 これならば、先ほどまでいた場所の方が、遥かにマシだ。


 こちらに顔を向けた生徒達にも、教師にも、下顎がついていなかったのだから。


 上唇や頬の裾から微かに歯を覗かせ、薄桃色の咽頭をむき出しにしている。


 気色の悪い光景に、吐き気が込み上がるのを感じた。
 慌てて口を覆ったが、何故か違和感を覚える。

 薬指と小指に感じるはずの、下顎の感触がない。

 私は嫌な予感を抱きながら、恐る恐る薬指を動かした。
 すると、本来感じるはずのない、異様に硬い感触があった。



 そこで、目が覚めた。
 外が曇りなのか、部屋の中は少し薄暗かった。
 それでも、部屋には朝の光が差し込んでいた。
 
 軽く残る吐き気を堪えながら、私は口元に触れてみた。
 すると、掌にも指先にも違和感はなかった。
 当たり前だが、先ほどまでの出来事は夢だったようだ。
 安堵すると同時に、ため息が口から漏れた。

 まだ少し吐き気は残っているが、さっさ起きて身支度をしてしまおう。

 今日も、身支度をし、家を出て、満員電車に揺られ、勤め先に到着した。
 執務室に入り、軽く頭を下げながら挨拶をする。
 概ね滞りなく挨拶を済ませて、自分の席についた。

 それから、何事もなく業務をこなし、昼の休憩になった。
 私は、何気なく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 すると、一件のメッセージを受信していた。
 送り主は、中学時代の旧友だった。
 内容は、同窓会の出欠確認。

 私は、欠席する、とだけ返信した。
 そして、スマートフォンをポケットに戻した。
 今までも、同窓会の連絡は何度も受けていた。
 しかし、初回を除いてすべて断ってきた。
 幹事を担当している旧友には、悪いことをしているとは思う。
 それでも、この頃の友人と一堂に会するのはあまり気が進まない。
 学生時代の中で、ただ一つ後悔していることを思い出してしまうから。
 
 中学一年の初秋に、同級生が一人、自宅で首を吊って亡くなった。

 彼とはそこまで親しくしていたわけではないが、険悪な仲だったわけでもない。
 クラスの中でも、いじめが発生しているようには見えなかった。
 それに、生徒会にも参加し、教師達からの評判も良かった。

 しかし、生徒会長を務めていた上級生に、目の敵にされているという噂があった。
 いや、それは噂ではなく、真実だったのだろう。

 私も実際に、彼が上級生に詰問されているところを目撃したことがある。
 そのときの彼がしていた、憤り、悲しみ、卑屈さが入り交じった表情は、今でも忘れられない。
 
 彼の死から数日経った後、学校ではいじめに関しての緊急アンケートが配られた。
 そのアンケートは、無記名での提出は不可、というものだった。
 きっと、教師も噂を耳にしていたため、不都合な回答を受け取りたくなかったからだろう。
 それでも、私は彼についての噂と、実際に私が見た光景を書き記して提出した。
 その結果、私はアンケートの提出後、すぐに教師から呼び出された。
 
 教師曰く、こうだった。
 
 噂の内容は教師も耳にしていた。
 
 彼に対しての上級生の態度は、厳しすぎる気もしていた。

 しかし、自殺の理由を記した遺書や日記は見つかっていない。

 それに、上級生も今回の件を気に病んでいる。

 ちなみに、上級生は偏差値の高い私立高校に、推薦で合格できる可能性が高い。

 私以外に噂を提出した生徒はいない。

 そんな言葉を教師は繰り返した。
 私が、アンケートを書き直す、と言うまで延々と。

 結局、私は白紙のアンケートに氏名を記載した。
 その後、彼の自殺の理由は不明ということになった。

 私はしばらくの間、見て見ぬふりをした同級生達に嫌悪感を抱いてしまった。
 しかし、同級生達の気持ちも分かっていた。
 厄介ごとに巻き込まれたくなかったのだろう。
 教師からの評価が高い相手を糾弾しても、労力に対して利益は少ない。

 冬が来る頃には、私も彼の死は不幸な事故として扱うようになった。
 他の大勢と同じように。

 それでも、彼の自殺をなかったことにして笑い合うことには、違和感を抱いている。
 あれから二十年近く経った今でも。
しおりを挟む

処理中です...