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最終章 食と愛
十二 貪欲
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狂気的な好奇心はアドレナリンのせいなのか。なんだか笑いが溢れてきた。鍵はフォークなんかあじゃない。この目玉をくり抜けってことだくそ。
グロテスクな解決策が見つかったのに、やけに俺の頭の中は楽観的だった。さっき飲んだ、小瓶の液体のせいかもしれない。俺は「ははははは」と狂ったように笑いが止まらなかった。痛みや惨事を想像するより先に、神経が動いて目玉を刺した。プチトマトよりも弾力のある感触だったしーーどちらかといえばマンゴスチンに近いーー痛みを全く感じなかった。目玉を引き抜く時は若干の力と勢いは必要だった。それでも俺は躊躇なく体の一部をくり抜いた。頬に暖かな涙が伝った。俺は生まれて初めて自分の目玉を目の前で見た。おかしな感覚だ。どんな味がするのだろう?
唇を開いて小さく突き出した舌に、目玉を近づけてみる。表面の、黒目を舐めてみるとしょっぱい味がした。
俺は、目玉の鍵を皿の中に入れた。ガチャと鍵が開く音がして、ドアノブをひねり中へ入ることが出来た。
部屋は十分に明るかった。不思議の国のアリスに登場するキャラクターの像たち、トゥイードルダム、トゥイードルディ、白うさぎ、ハンプティダンプティらが持つ燭台のおかげだった。壁と床と天井が真っ赤だったから、頭が痛くなった。ぐつぐつ、じゅうじゅう音が鳴っている。ここは厨房のようだった。机の上には
しかしシェフの姿はどこにも見当たらない。思い切り息を吸い込んでみると、カシスやリンゴ、ステーキやおでん、青椒肉絲にシチューといった様々な匂いがした。まるで世界中の料理がここに存在しているみたいだ。ただ、ここには皿に乗った完成した料理はない。
「お腹がすいた。食べたい。何か……」
胃袋が急激に刺激され、俺の足は彷徨った。目についた鍋の中の料理を手に掴んで口にかき込んだ。ふつふつと泡が沸いているのにやっぱり熱さを感じない。ゴツンと爪先に何かが当たって、下を向いた。そこには全裸の金城の遺体があった。しかも彼の腹は捌かれて空洞になっている。
「ああ、金城さん……そんな」
俺は目を奪われながらも食べることは止めなかった。むしろ、新鮮な肉を見ているうちにどんどん食欲が沸いてきて、口内に涎が溢れてくる。
その獲物を眺めていたのは俺だけじゃなかった。小さな白い毛むくじゃらの生き物は、フォーマルな洋装に身を包み、涎を垂らしながら、金城をじいっと赤い目で見下ろしている。しかも両手にはフォークとナイフを持ちながら。獣はこっちに気づくと鼻をひくりと震わせて言った。
「なんてお行儀の悪い」
ついに幻覚を見たか、といってもこれだけおかしな事が続いていると、どれが現実なのかもよく分からない。兎にも角にも、獣はぴょんと跳ねるように走り去っていった。追いかけなければ。俺はそう思って、後を追った。
金色の両開きの扉があった。鍵はかかっていなかったが、とても重たい。あの小さな生き物は中に入ったのだろうか?
視界は相変わらず赤かったが、天井にぶら下がる真鍮のシャンデリアのおかげか今までの部屋の中で一番豪華な部屋だった。長方形の白い布のテーブルと八席の椅子に、それぞれ皿が置いてある。そして何より、テーブルの真ん中に大きな赤錆色の箱があった。俺にはそれが棺桶のように見えた。なぜなら、その中には人間が眠っていたからだ。黒い薔薇と赤い薔薇が敷き詰められていて、白いシルクのシーツを体にかぶって目を閉じている女は、さっきの給仕だった。
紳士の格好をした真っ白な生き物は俺と反対側の椅子に腰掛けていた。けれど客は他に来なかった。
「教えてくれ。これは現実なのか夢なのか」
俺は誰かに言った。けど誰に?
彼女は目を開いた。その顔色は真っ赤な部屋には不釣り合いな青白さだった。唯一唇だけは赤い薔薇と同じ色をしていた。
「あなたは今、誰と喋ってらっしゃるのですか」
「分からない。そこにいる兎は何者なんだ。それに君も……」
「兎?ここには兎なんていません。ですが、あなたもここまで来ると思いました。私と一緒ですね」
「君は一体誰なんだ。それに金城さんは何故あんな姿に」
「私はアリス。小鳥遊亞李子。あの男はせっかくの食材を粗末にしたので……。それに比べてあなたはやってきた。私と似て醜く強欲な方」
亞李子は言葉の合間合間に、震える息を吐き出している。
「大丈夫か……?」
「ああやっぱり、私のことは覚えてないのですね。まあ、後で思い出すでしょうけど」
「俺は自分でもなんでここに居るか分からないんだ」
「私も全てなど知りません。ですが、この食堂自体が不思議な引力を持っているのですよ。それにあなたはベルゼブブのように匂いに魅入られた。残飯にたかるハエそのもの。あなたは独自の哲学を、現代の悪魔の箱に書き記すことで人を傷つけていった。そしてあなたは何も満たされないまま、また次なる美食を追い求めた」
彼女のシーツの上には一匹のハエが止まった。お腹がすいた。
「あなたはまだ、空腹が満たされずにいるのでしょう」
俺の心情をずばりと言い当てられても、今更驚きはしなかった。
「だけどもう少しだけお話に付き合ってください。ところであなたはカニバリズムをどうお思いですか?」
その単語の響きは、背筋をぞくりと蠢かした。
「人間を食うことは倫理に反する。いけないことだ」
「そう、ですね。あなたは人生に一度くらいは食べてみたいと思ったことはありませんか?」
「そんなバカな……」
「ここには私とあなたしかいません。ああ、白うさぎは放っておいてください。私は進藤様……進藤さん、あなたの本当の欲望を聞きたいのです」
「やめろ。狂ってる。頭がおかしい。俺はここから出ていく」
「金城さんの死体を見てどう思いました?涎が出てきませんでしたか?肉の繊維を噛み締め、滴る汁を味わいたいと思いませんでしたか ?」
「違う、あれはきっと薬のせいだ」
「進藤さん、お変わりないですね。プライドが高くて、本当は私と同じ卑しい精神の持ち主のくせに、自分の哲学に反することには強く拒否反応を示して」
彼女はいきなりヒュウっと気道の狭い呼吸をした。だから俺は問いかけを喉の奥にしまった。「エビ……フライ」かぼそく聞こえたような
気がした。
「最後に、秘密と真実をお教えします」
亞李子は明らかに苦しそうで、死にかけの声を絞り出している。
「それより病院に行かないか」
彼女は俺の言葉には反応しなかった。
「人間が人間を食べるとどうなるか」
「またその話か。そもそも食べる前に食材を見つけることが難しいんじゃないか?どこかで手術前の肉を食べさせてくれるレストランはあったけどな」
「あなたの目玉、おいしかったなぁ……。痛み、感情、人生が全細胞、脳に流れ込んできた」
俺は口が半開きになった。まさかさっきの鍵をこの女は食べて……変態だ。ただ恐れや気持ち悪さを感じない俺の頭もどうにかしてしまったようだ。
「俺を食べたら、俺の記憶が分かったかのような口ぶりだ」
「うん。そうだよ。カニバリズムは古くから行われ、隠蔽もされてきた歴史……でも、もうこれ以上は言えない……ヒューヒュー……これ以上が知りたいのなら最後に料理を……ヒューヒュー……料理名は‘‘私‘‘」
「は……?一体何を言ってるんだ……それより病院に」
その時、亞李子が見つめてくる黒い瞳から、何かが理解できた。お着物のように静かだった白うさぎ、いや黒いスーツを着た老紳士は彼女の体の上のシーツを優しく取り払った。美しく蠢く赤やピンクのテラテラとした光が、真っ白な幼さの残る肌の空洞を飾っていた。吐き気よりも、さっきとよく似た唾液が口いっぱいに広がる。俺は口を押さえた。獣じみた獰猛な食欲が全身を駆け巡る。食いたい食いたい食いたい。
「どうぞ召し上がれ」
俺は目の前の見事な料理に、我慢ならずフォークとナイフを両手に取って新鮮な臓物を一口大に切り刻んだ。そして皿の上に移した。彼女は口から血を吐き出したが、その目は輝きに満ち微笑んでいる。俺は異様な光景を眺めながらも肉を口に運んだ。
命の味がする。酸っぱく、苦く、柔らかく、温かい命。そしてさっき亞李子が言っていた言葉が一瞬で理解出来た。こんな美味しいものを食べたら、人間は人間しか食わなくなるだろう。美味しいだけじゃない。これは味覚を超越した素晴らしい体験だ。俺は彼女の人生ごと味わっている。思わず涙が溢れた。彼女の愛や、悲しみが音楽のように脳や細胞を潤す。
小鳥遊亞李子、四歳の頃に俺と亞李子の母と一緒にピクニックの出かけた。それが彼女の一番美味しい記憶だった。俺はもう一口、彼女の肉を掬って食べた。
✳︎
細いつり眉と真っ赤な濃い口紅は、叔母の顔を印象付ける化粧で俺にとっては緊張感と威圧感を覚える化粧だった。小鳥遊紗夜魅は真っ白な肌によく映える黒い長いワンピースを身につけて、表情の乏しい人だった。
よく晴れた春の午後、日向はぽかぽかと地上に降り注ぎにモンシロチョウが花壇の花の蜜を吸いにきていた。俺は亞李子と叔母さんが手を繋いで青芝を歩く姿を見ても、関係を聞き出そうとは思わなかった。興味がなかったのもあるし、いくら叔母さんに誘われたといえ女二人で男一人のお出かけには若干の恥ずかしさもあった。亞李子の心は、違かった。母親と出かけるのがよっぽど嬉しかったんだろう。俺に対しては少し緊張してしきりに肩をこわばらせていた。
携帯を買ってもらうのは今度のテストが終わってからだったから、俺は空を眺めたり、虫や木々を眺めて暇を潰した。
「この子のことは内緒よ」
叔母は珍しく人のいい笑顔を浮かべて、人差し指を口元におきながらシイッと音を鳴らした。それから俺の手の中に何かを握らせてから強引に短パンのポケットに仕舞い込ませた。あとで確認すると、それは五千円札だった。俺はここに来て初めて気持ちが昂ったし、来て良かったと思った。
敷物の上に三人座り、叔母さんは尋ねた。
「好きな食べ物はなあに?」
亞李子は答えた。「エビフライ!」
その瞬間、叔母さんは「あんたに聞いてない」と冷たい声で突き放した。俺は嫌な空気から逃げたい思いで「俺も、エビフライ」と言った。エビフライは一番嫌いな食べ物だった。なぜ嫌いなのかは、過去のトラウマが起因していると思うけど、とにかくあの造形や口に含んだ時の油の感じが嫌だった。
「それならよかった。今日のお弁当にエビフライを入れたの」
叔母は大きな真四角の、鶴の絵が描いてあるお弁当箱を風呂敷から出して、蓋を開けると豪華なおかずが敷き詰められていた。もちろん大嫌いなエビフライも厚かましく居座っている。箸を宙に彷徨わせて俺は、綺麗なだし巻き卵を挟んで食べた。叔母の料理は、俺の母親とは違ってとても美味しく、舌が踊り出しそうだった。
「エビフライは食べないの?」
と、黒い眉の間に皺が帯びたので、俺は渋々食べるべきか謝るか悩んだ。すると、自分の手より大きな箸を持って、亜李子はエビフライを摘んだ。叔母は面白くなさそうに睨みつけていいたものの、俺はよくやったと心の中で褒めたたえた。しかし、亞李子は摘んだエビフライを俺の口元に差し出した。
「お兄ちゃんにあげる」
亞李子はあの時、死ぬほど空腹で、滅多に食べることのできない大好物のエビフライを俺にくれた。
俺はそれを思い切り振り払った。エビフライは青い芝生の上を飛んで、地面に落ちた。亞李子は悲しそうな顔をしていた。
エビフライが嫌いだったからじゃない。俺は内心亞李子のことを汚い、気持ち悪い子供だと感じていたからだ。髪は洗ってなくボサボサで、ふけだらけで、痩せこけていた。俺は想像力に欠ける人間だった。いや今も……。
叔母は俺ではなく、亞李子を叱った。箸を取り上げ「もう食べなくていい」と怒鳴った。ああもしも今この場にいるなら、あのエビフライを取りに行って無理矢理にでも自分の口に押し込んで、亞李子にありがとうと言ってやるのに。
「亞李子。亞李子?」
俺は現実にいる、亞李子の様子を食い入るように見た。自分を料理として振る舞った亞李子は、すでに息をしていなかった。俺はせめて、最後に亞李子が振舞ってくれた料理を完食しようと心に決めた。亞李子がそう望んでいるのが、分かったからだ。俺自身もそうしたかった。
グロテスクな解決策が見つかったのに、やけに俺の頭の中は楽観的だった。さっき飲んだ、小瓶の液体のせいかもしれない。俺は「ははははは」と狂ったように笑いが止まらなかった。痛みや惨事を想像するより先に、神経が動いて目玉を刺した。プチトマトよりも弾力のある感触だったしーーどちらかといえばマンゴスチンに近いーー痛みを全く感じなかった。目玉を引き抜く時は若干の力と勢いは必要だった。それでも俺は躊躇なく体の一部をくり抜いた。頬に暖かな涙が伝った。俺は生まれて初めて自分の目玉を目の前で見た。おかしな感覚だ。どんな味がするのだろう?
唇を開いて小さく突き出した舌に、目玉を近づけてみる。表面の、黒目を舐めてみるとしょっぱい味がした。
俺は、目玉の鍵を皿の中に入れた。ガチャと鍵が開く音がして、ドアノブをひねり中へ入ることが出来た。
部屋は十分に明るかった。不思議の国のアリスに登場するキャラクターの像たち、トゥイードルダム、トゥイードルディ、白うさぎ、ハンプティダンプティらが持つ燭台のおかげだった。壁と床と天井が真っ赤だったから、頭が痛くなった。ぐつぐつ、じゅうじゅう音が鳴っている。ここは厨房のようだった。机の上には
しかしシェフの姿はどこにも見当たらない。思い切り息を吸い込んでみると、カシスやリンゴ、ステーキやおでん、青椒肉絲にシチューといった様々な匂いがした。まるで世界中の料理がここに存在しているみたいだ。ただ、ここには皿に乗った完成した料理はない。
「お腹がすいた。食べたい。何か……」
胃袋が急激に刺激され、俺の足は彷徨った。目についた鍋の中の料理を手に掴んで口にかき込んだ。ふつふつと泡が沸いているのにやっぱり熱さを感じない。ゴツンと爪先に何かが当たって、下を向いた。そこには全裸の金城の遺体があった。しかも彼の腹は捌かれて空洞になっている。
「ああ、金城さん……そんな」
俺は目を奪われながらも食べることは止めなかった。むしろ、新鮮な肉を見ているうちにどんどん食欲が沸いてきて、口内に涎が溢れてくる。
その獲物を眺めていたのは俺だけじゃなかった。小さな白い毛むくじゃらの生き物は、フォーマルな洋装に身を包み、涎を垂らしながら、金城をじいっと赤い目で見下ろしている。しかも両手にはフォークとナイフを持ちながら。獣はこっちに気づくと鼻をひくりと震わせて言った。
「なんてお行儀の悪い」
ついに幻覚を見たか、といってもこれだけおかしな事が続いていると、どれが現実なのかもよく分からない。兎にも角にも、獣はぴょんと跳ねるように走り去っていった。追いかけなければ。俺はそう思って、後を追った。
金色の両開きの扉があった。鍵はかかっていなかったが、とても重たい。あの小さな生き物は中に入ったのだろうか?
視界は相変わらず赤かったが、天井にぶら下がる真鍮のシャンデリアのおかげか今までの部屋の中で一番豪華な部屋だった。長方形の白い布のテーブルと八席の椅子に、それぞれ皿が置いてある。そして何より、テーブルの真ん中に大きな赤錆色の箱があった。俺にはそれが棺桶のように見えた。なぜなら、その中には人間が眠っていたからだ。黒い薔薇と赤い薔薇が敷き詰められていて、白いシルクのシーツを体にかぶって目を閉じている女は、さっきの給仕だった。
紳士の格好をした真っ白な生き物は俺と反対側の椅子に腰掛けていた。けれど客は他に来なかった。
「教えてくれ。これは現実なのか夢なのか」
俺は誰かに言った。けど誰に?
彼女は目を開いた。その顔色は真っ赤な部屋には不釣り合いな青白さだった。唯一唇だけは赤い薔薇と同じ色をしていた。
「あなたは今、誰と喋ってらっしゃるのですか」
「分からない。そこにいる兎は何者なんだ。それに君も……」
「兎?ここには兎なんていません。ですが、あなたもここまで来ると思いました。私と一緒ですね」
「君は一体誰なんだ。それに金城さんは何故あんな姿に」
「私はアリス。小鳥遊亞李子。あの男はせっかくの食材を粗末にしたので……。それに比べてあなたはやってきた。私と似て醜く強欲な方」
亞李子は言葉の合間合間に、震える息を吐き出している。
「大丈夫か……?」
「ああやっぱり、私のことは覚えてないのですね。まあ、後で思い出すでしょうけど」
「俺は自分でもなんでここに居るか分からないんだ」
「私も全てなど知りません。ですが、この食堂自体が不思議な引力を持っているのですよ。それにあなたはベルゼブブのように匂いに魅入られた。残飯にたかるハエそのもの。あなたは独自の哲学を、現代の悪魔の箱に書き記すことで人を傷つけていった。そしてあなたは何も満たされないまま、また次なる美食を追い求めた」
彼女のシーツの上には一匹のハエが止まった。お腹がすいた。
「あなたはまだ、空腹が満たされずにいるのでしょう」
俺の心情をずばりと言い当てられても、今更驚きはしなかった。
「だけどもう少しだけお話に付き合ってください。ところであなたはカニバリズムをどうお思いですか?」
その単語の響きは、背筋をぞくりと蠢かした。
「人間を食うことは倫理に反する。いけないことだ」
「そう、ですね。あなたは人生に一度くらいは食べてみたいと思ったことはありませんか?」
「そんなバカな……」
「ここには私とあなたしかいません。ああ、白うさぎは放っておいてください。私は進藤様……進藤さん、あなたの本当の欲望を聞きたいのです」
「やめろ。狂ってる。頭がおかしい。俺はここから出ていく」
「金城さんの死体を見てどう思いました?涎が出てきませんでしたか?肉の繊維を噛み締め、滴る汁を味わいたいと思いませんでしたか ?」
「違う、あれはきっと薬のせいだ」
「進藤さん、お変わりないですね。プライドが高くて、本当は私と同じ卑しい精神の持ち主のくせに、自分の哲学に反することには強く拒否反応を示して」
彼女はいきなりヒュウっと気道の狭い呼吸をした。だから俺は問いかけを喉の奥にしまった。「エビ……フライ」かぼそく聞こえたような
気がした。
「最後に、秘密と真実をお教えします」
亞李子は明らかに苦しそうで、死にかけの声を絞り出している。
「それより病院に行かないか」
彼女は俺の言葉には反応しなかった。
「人間が人間を食べるとどうなるか」
「またその話か。そもそも食べる前に食材を見つけることが難しいんじゃないか?どこかで手術前の肉を食べさせてくれるレストランはあったけどな」
「あなたの目玉、おいしかったなぁ……。痛み、感情、人生が全細胞、脳に流れ込んできた」
俺は口が半開きになった。まさかさっきの鍵をこの女は食べて……変態だ。ただ恐れや気持ち悪さを感じない俺の頭もどうにかしてしまったようだ。
「俺を食べたら、俺の記憶が分かったかのような口ぶりだ」
「うん。そうだよ。カニバリズムは古くから行われ、隠蔽もされてきた歴史……でも、もうこれ以上は言えない……ヒューヒュー……これ以上が知りたいのなら最後に料理を……ヒューヒュー……料理名は‘‘私‘‘」
「は……?一体何を言ってるんだ……それより病院に」
その時、亞李子が見つめてくる黒い瞳から、何かが理解できた。お着物のように静かだった白うさぎ、いや黒いスーツを着た老紳士は彼女の体の上のシーツを優しく取り払った。美しく蠢く赤やピンクのテラテラとした光が、真っ白な幼さの残る肌の空洞を飾っていた。吐き気よりも、さっきとよく似た唾液が口いっぱいに広がる。俺は口を押さえた。獣じみた獰猛な食欲が全身を駆け巡る。食いたい食いたい食いたい。
「どうぞ召し上がれ」
俺は目の前の見事な料理に、我慢ならずフォークとナイフを両手に取って新鮮な臓物を一口大に切り刻んだ。そして皿の上に移した。彼女は口から血を吐き出したが、その目は輝きに満ち微笑んでいる。俺は異様な光景を眺めながらも肉を口に運んだ。
命の味がする。酸っぱく、苦く、柔らかく、温かい命。そしてさっき亞李子が言っていた言葉が一瞬で理解出来た。こんな美味しいものを食べたら、人間は人間しか食わなくなるだろう。美味しいだけじゃない。これは味覚を超越した素晴らしい体験だ。俺は彼女の人生ごと味わっている。思わず涙が溢れた。彼女の愛や、悲しみが音楽のように脳や細胞を潤す。
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よく晴れた春の午後、日向はぽかぽかと地上に降り注ぎにモンシロチョウが花壇の花の蜜を吸いにきていた。俺は亞李子と叔母さんが手を繋いで青芝を歩く姿を見ても、関係を聞き出そうとは思わなかった。興味がなかったのもあるし、いくら叔母さんに誘われたといえ女二人で男一人のお出かけには若干の恥ずかしさもあった。亞李子の心は、違かった。母親と出かけるのがよっぽど嬉しかったんだろう。俺に対しては少し緊張してしきりに肩をこわばらせていた。
携帯を買ってもらうのは今度のテストが終わってからだったから、俺は空を眺めたり、虫や木々を眺めて暇を潰した。
「この子のことは内緒よ」
叔母は珍しく人のいい笑顔を浮かべて、人差し指を口元におきながらシイッと音を鳴らした。それから俺の手の中に何かを握らせてから強引に短パンのポケットに仕舞い込ませた。あとで確認すると、それは五千円札だった。俺はここに来て初めて気持ちが昂ったし、来て良かったと思った。
敷物の上に三人座り、叔母さんは尋ねた。
「好きな食べ物はなあに?」
亞李子は答えた。「エビフライ!」
その瞬間、叔母さんは「あんたに聞いてない」と冷たい声で突き放した。俺は嫌な空気から逃げたい思いで「俺も、エビフライ」と言った。エビフライは一番嫌いな食べ物だった。なぜ嫌いなのかは、過去のトラウマが起因していると思うけど、とにかくあの造形や口に含んだ時の油の感じが嫌だった。
「それならよかった。今日のお弁当にエビフライを入れたの」
叔母は大きな真四角の、鶴の絵が描いてあるお弁当箱を風呂敷から出して、蓋を開けると豪華なおかずが敷き詰められていた。もちろん大嫌いなエビフライも厚かましく居座っている。箸を宙に彷徨わせて俺は、綺麗なだし巻き卵を挟んで食べた。叔母の料理は、俺の母親とは違ってとても美味しく、舌が踊り出しそうだった。
「エビフライは食べないの?」
と、黒い眉の間に皺が帯びたので、俺は渋々食べるべきか謝るか悩んだ。すると、自分の手より大きな箸を持って、亜李子はエビフライを摘んだ。叔母は面白くなさそうに睨みつけていいたものの、俺はよくやったと心の中で褒めたたえた。しかし、亞李子は摘んだエビフライを俺の口元に差し出した。
「お兄ちゃんにあげる」
亞李子はあの時、死ぬほど空腹で、滅多に食べることのできない大好物のエビフライを俺にくれた。
俺はそれを思い切り振り払った。エビフライは青い芝生の上を飛んで、地面に落ちた。亞李子は悲しそうな顔をしていた。
エビフライが嫌いだったからじゃない。俺は内心亞李子のことを汚い、気持ち悪い子供だと感じていたからだ。髪は洗ってなくボサボサで、ふけだらけで、痩せこけていた。俺は想像力に欠ける人間だった。いや今も……。
叔母は俺ではなく、亞李子を叱った。箸を取り上げ「もう食べなくていい」と怒鳴った。ああもしも今この場にいるなら、あのエビフライを取りに行って無理矢理にでも自分の口に押し込んで、亞李子にありがとうと言ってやるのに。
「亞李子。亞李子?」
俺は現実にいる、亞李子の様子を食い入るように見た。自分を料理として振る舞った亞李子は、すでに息をしていなかった。俺はせめて、最後に亞李子が振舞ってくれた料理を完食しようと心に決めた。亞李子がそう望んでいるのが、分かったからだ。俺自身もそうしたかった。
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