ようこそ残飯食堂へ

黒宮海夢

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ようこそ残飯食堂へ

十 金城の残飯

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「は……?それじゃあ、ここに出てきた残飯は全てここにい人達が残した残飯だっていうのか?」

俺は、急に馬鹿げたお伽話が始まったことに、またイライラして片方の足を貧乏ゆすりさせた。村沢はメイドの方をじっと見た。すると、メイドの娘は口を小さく開いた。
「金城様の残飯はとても素晴らしい残飯でした。金城様には昔、とても愛していた奥様と子供がいました。奥様の名前は由紀子、そして娘の名前は愛美」
メイドは、どこか分からないところに視線を向けて語った。


 金城たかしは27歳で、若手エリートエンジニアだった。会社では部下や上司からも信頼は厚く、愛しい子供も授かり順風満帆だった。しかし、子供が5歳になる頃、金城は忙しさの渦潮に溺れるようになっていった。
会社で任された大量の書類を自宅に持ち込み、家族とろくに話さず部屋に閉じ籠り、深夜までパソコンを叩いては、扉を開いて遊びをねだる愛娘を睨みつけ「出てけ!」と怒号を浴びせた。
忙しさのあまり、ろくにご飯を食べずどんどん痩せた彼を妻は心配したが、彼は栄養ゼリーを絞るだけで一言も口を聞かなかった。
 蒸し暑い8月、金城が0時に部屋に帰ってパソコンを開くと、一時間もしないうちに妻が扉をそろりと開けて顔を覗かせた。
「あなた、ご飯はどうするの?」
「今集中してるんだ。後にしてくれよ」
「最近ちゃんと食べてないじゃない」
「はあ、大事な仕事なんだ。頼むから一人にしてくれ」
 しかし、その日の由紀子は宗の言葉を無視して部屋に入ってきた。彼女の存在が見えてないかのように、宗はキーボードを叩いていた。由紀子は机の隅にそっと、カレーライスを置いて部屋から出て行った。




 宗は四時になってやっとパソコンを閉じると、冷め切ったカレーには気づかず、シャツのままベッドに倒れ込んで死んだように眠りこけた。耳をつんざくアラーム音で、重たい瞼を開いた。ずれた眼鏡を直し、頭の横のスマホに手を伸ばす。朝の8時だった。彼はあくびをして起き上がると伸びをした。ベッドから立ち上がり、机に向かおうとしてふと視界の端にカレーライスが映った。妻が作った手作りのカレーライス。宗は皿を引き寄せ、スプーンで一口食べた。カレーはいつもより甘く、冷え切っていて不味かった。それに、もうすぐ会社に行かなければならない時間だ。宗は皿を乱雑に掴んで、キッチンのゴミ箱のペダルを足で踏んで開いた蓋の中に残りのカレーを捨てた。宗は急いで会社に出かけた。


 「それが彼の残飯?」
俺はまだ、作り話なのではないかと疑っていた。
「それだけじゃありません」
彼女は続けた。

 会社の昼頃、彼はオフィスで仕事をしていた。スマホのヴァイヴが何回も震えて、苛立ちながら宗はスマホを開いた。電話の通知が十件、メッセージが9件、全て妻からのものだった。嫌な予感が背筋を震わせた。彼は、妻に電話をかける。コール音が長く感じて、早くしろと叫び出しそうだった。三回目のコールで由紀子が出た。
「由紀子!どうした?」
「あ、あなた……」
消え入りそうな声だった。
「愛美が、愛美がぁ」
心臓が鈍器で殴られたように、ドクンとした。震える声で由紀子は話した。愛美が事故にあって死んだことを。



✳︎


 命を喰らい、命は作られ、そしてまた命は絶える。俺は、昔ブログで書いた記事の一文を思い出していた。二十二の頃に一人でフランスに旅をしに行った時初めて、星のついた高級レストランで牛ヒレ肉を食べ、ひどく感動した時に書いた。 俺は皿の料理を全て平らげた。ソースも一滴も残さぬように。職人の生き様が喉を通して伝わり、気を抜けば涙が零れそうだった。

 金城も同じように泣いていた。妻が作った料理を捨ててしまったからというのか。それとも同時に、悲惨な思い出を思い出したからなのか。

「それで、彼は自殺を……お気の毒に」
俺は浅い同情の言葉を吐いた。
「ええ、彼は無念だったはずです。最後まで食べる事が出来ませんでした。最愛の娘の、愛情のこもったカレーライスを」
 「え……娘の?」
「はい。由紀子さんが彼に持っていったカレーは、愛美ちゃんが初めて作ったカレーライスです」

 金城宗はその後、ろくに仕事もせずに落ちぶれて、自棄酒をし、社員たちからの信頼も失い、妻からは去られた。彼はもうとっくに全部の気力を失って、落ちていく一方だった。新しい仕事は闇金の金貸し屋で、毎日のように暴力を振るった。彼は生きる目的を失った。新しいボロアパートに引っ越すことになり、彼は例の部屋を片付けることになった。机の上のあるものに気がついた。それは、細長い青のラッピングがなされた箱だった。手にとって中身を開けてみると、入っていたのは銀縁色の眼鏡だった。彼は愛美が死ぬ前日の、妻由紀子の顔を思い出した。いや、ろくに見ていなかったから想像した。カレーライスを部屋に運んできた彼女はどんな顔をしていただろう。このプレゼントは由紀子が選んだものに違いない。金城は眼鏡をかけた。よく見える部屋の中には、もうあの笑顔はない。妻と子供の笑顔はもうどこにも。


「ごめん、ごめん……愛美、由紀子。ごめんなあ」
しんと静まる部屋で、顔をくしゃりと歪め、いつまでも涙がとまらなかった。

「これを聞いてどう思いますか?」
メイドは問いかけた。俺も、隣の相手も何も答えなかった。
「私は、最低のクソ野郎だと思いました。どうして、愛情を込めて作ってくれる人がいるのに、感謝もせずにそれを平気で捨てることが出来たのか」
「そんな言い方しなくても」俺はか細く言った。
「あいつにしたってそうです!そう、あの客は働かずにずっと部屋にこもってアニメやパソコンをして、病弱な母親の手料理を、まずい飯と怒鳴ったんです!私が喉から手を伸ばすほど欲しかった愛情を……馬鹿、なんて愚か?母親は息子に怒鳴られる中、病気で血を吐いて死んだんです。彼は慌てたようですけど、母親は助からなかった」
言い切って、娘はハアハアと息を乱した。それから。
「でも彼は、食べ切った。人生の残飯を。彼はもう、死んだ母親の思い出と共に生きていけることでしょう」
「それを、何で君が知っているんだい?」
隣の男が尋ねた。視線を向けると、顔に汗が滲んでいた。
「ふふふふふふ」
彼女は俯き肩を震わせて笑っている。
「さて、お二人はいかがいたしましょう?メニューはお決まりになりましたか?」
顔を上げた顔はさっきの、何も描かれてないかのような顔に戻っていた。

この話が本当なら、余計に頼むのが恐ろしいと俺は怖気づいた。だが、もう一人の客は違った。
「私の、私の残飯を……」
怯えながら注文した。
「はい、かしこまりました。村沢様の料理、“さいごのオムライス“を受けたわまりました」
村沢はガタガタと大きく震えている。顔は真っ青だった。メイドが向こうに消えると村沢はこっちをじっと見つめてきた。
「アンタ……、進藤浩一だろう」
俺の体は瞬時に跳ねた。
「は、はい?一体何を」
「あの、有名な料理評論家気取りの」
生唾を飲み込む。目の前の男は、根念のこもった目で俺を見る。
「逃げるな、逃げるな。あの時のことはもう恨んじゃいない。だがね、一つ提案がある」
「……提案?」
「取り替えっこをしよう。私は君の、君は私の残飯を食べる。どうだ?」
彼は、皮の向けた墓のような色の唇を舐めた。
「でもそれはルール的にアウトでは?」
「そこに書いてないだろう、そんなルール。この店は出された料理を残さず食べ切りご馳走さまというだけだ」
彼はカウンターの上を指差した。黒いボードに、手描きでこの店のルールが書かれていた。今まで気づかなかった。

1 .この店では出された料理を食べきらなくては退店することができない。
2.料理を食べ切ったら必ずご馳走様と言うこと。
3.厨房は店の料理人以外は立ち入り禁止。


「しかし」
「試してみる価値があるとは思わないか?」
「はあ……でもどんな料理か見てからがいい」
「なるほど。まあ仕方ない。君の意見も飲み込もう」

などと会話をしているうちに、メイドは手際良く料理を村沢の前に運んできた。クローシュがパカリと開かれる。俺は唾を飲み込んだ。白い湯気がのぼって、デミグラスソースは形のいい黄身色の上に輝いていた。美味しそうなオムライスだった。今まで出てきた料理よりも断トツで。しかもどう見ても残飯ではない。俺の胃袋は唸った。
「どうだい進藤さん。交換する気になったかい」
俺は一つの違和感を覚えたが、空腹には敵わなかった。
「交換しましょうか」
彼が皿を俺の方へずらそうと押した。メイドは「待ってください。そちらは村沢様の残飯です」と口を挟んだ。
「そんなルール書いてないだろう」
俺は強い口調で跳ね除けた。
「進藤様、本当によろしいのですか?」
メイドの娘は、圧のある片目で俺を見据えた。その迫力に、思わず皿を持つ手を止めた。
「どうしたんだ進藤さん」
「いや……とりあえず、俺の注文を頼んでから決めたい」
彼は気が弱そうな顔だったのが、急に俺を睨みつけてチッと舌打ちをした。一体何なんだこのおっさんは。
「料理を注文させてくれ」
「はい、かしこまりました。それでは進藤様の残飯‘’友達シチュー‘’をご用意いたします」
「友達シチュー」
まさか、と俺は喉を引くつかせた。
「なんでそのことをっ」
椅子から飛び上がって問い詰めた。しかしもうすでに彼女の姿はなかった。こめかみに冷えた汗がつううと伝った。そんなはずがない、彼女がを知ってるはずがないんだ。


俺は冷静を装って椅子に座り直す。頭の中がぐるぐるとして気持ち悪い。あっという間に彼女は料理を運んできて、俺の前にそれを差し出した。俺は頭を抱えて目を逸らし、前後に体を大きく揺らした。頼む、やめてくれ。見たくない。どうして俺がこんな目に?
 シチューの匂いがして、銀の蓋が開かれたことが分かった。出来るなら一生こうしていたかった。村沢が、逃げるように椅子の足をぎいいと後ろに引いた。
「召し上がらないのですか?進藤様」
「あ、ああ……いや」
急激に喉の水分が失われていく。いや、だが村沢と交換すればいいんだ。怖がることなど何もない。俺はゆっくり顔を上げた。やっぱり、俺の前にあったのは醜悪な料理だった。どろりとした給食の金属皿の中には、生きた毛虫、みみず、死んだゴキブリが浮かんでいる。ああ、俺は吐き気を催した。酸っぱい唾を飲み込んで、血の気の引いた顔を隣に向ける。
「村沢さん、交換してくれるよね?」
村沢は、青ざめながら顔を背けようとした。
「ああ。構わない」
「へっ?」
聞き間違いかと思って、声がひっくり返る。
「交換しよう」
おかしい、何かがおかしい。俺はそう思ったが、このまま忌まわしいこの地獄のシチューを回避出来るならもう何でもよかった。
 俺たちは互いに残飯をトレードした。オムライスは少し冷めてしまっていたが、ふわふわで見るからに食欲をそそる。ほっと息を吐いて、横に並べてある銀のスプーンを手にした。
「進藤様、そちらはあなたの料理ではございませんよ」
俺は頭の中で、うるさいと答えた。メイドの言葉を無視し、オムライスに顔を近づけて犬のようにがっついた。
うまい……!うまい……!俺は心の底から感じた。卵の甘い食感が舌を溶かす。きのこの歯応えが、食欲を促す。手も口も止まらず、ご飯をかき込んでいると俺は、豪華なレストランに自分がいることに気がついた。さっきいた場所とは全く違う。高級な洋食レストランの白い丸テーブルに座っていた。
客は俺一人で、店内はただ静かだ。一人のシェフが近づいてきた。ニコニコと愛想よく笑っているその顔は、村沢だった。俺の前に銀のクローシュが置かれた。蓋が開かれると、さっきのオムライスが出てきた。俺は不安そうに、シェフの顔を覗いた。「どうぞ、進藤様。ごゆっくり」
傍に置いてある、一枚の小さな紙に、‘’招待状 進藤友春様‘’と書いて置いてあった。中を開いてみると、



 最初で最後のオムライス

とだけ記されていた。



俺はこんな記憶はない。この店で前回食べた料理は白魚のムニエルだった。確かに食べた。そしてその後俺は、俺は……。

 
スプーンを手に取った俺はまた、瞬時に色々な映像が頭の中を駆け巡っていった。厨房で料理を作る村沢、俺に白魚のムニエルを出している村沢、閑散とした厨房でうずくまっている村沢、客のいないレストランをぼんやりと眺める村沢。廃れた狭いアパートで一人ぼっちの部屋で、背中を丸めながら薬を飲んでいる村沢。畳に散らばった鬱病との診断書……。
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