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第二章
ヴィクトリアと母
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初めてリアムがカモミールティーを淹れてくれたのは、確かヴィクトリアが十三歳の時。そう、ギルバートとの婚約が決まった時だった。顔合わせの前の日、眠れずにいたヴィクトリアに何も言わず用意してくれた。
リアムはあの時既に、ヴィクトリアのことを想ってくれていたのだろうか。
リアムが置いていったお茶を飲みながら、静かに視線を落とす。紙の散らばった机の上を見ながら、言われたことを考えた。
ヴィクトリアの目的、矜持。見失う訳がない。忘れるはずがない。けれど忠実な彼は、見失うなというのだ。
大切なものを守るため、失わないために戦おうとしている。ヴィクトリアにとって大切なものはたくさんあって、どれかを取りこぼすなんてことは絶対にしたくない。
それが、間違っているのだろうか。
ため息をつくと、吐息がカップにかかって波紋を広げた。
(わたくしは、何をしているのかしら)
自己嫌悪に陥りかけた時、部屋にノックの音が響いた。
「ヴィクトリア? 今いいかしら」
「お母様? はい、大丈夫です」
部屋はリアムが綺麗にしてくれていた。机の上だけを慌てて片付け、母を迎え入れる。セルマはにっこりと笑って、ヴィクトリアの手元を覗き込んだ。
「あなたは本当に頭がいいわね。お母様にはこんなの無理よ」
「そんなことありません。わたくしの魔法の才はお母様譲りですもの」
「あら、ありがとう。でもあなたの努力の方が大きいわよ」
セルマは悪戯っぽく目を光らせて、ヴィクトリアを立たせた。机から離れて、二人並んでベッドに腰かける。
「少しお母様とお話ししましょう。お父様には内緒よ?」
「え、ですが……」
父に内緒、ということは、ヴィクトリアの手助けをしに来たということだ。だが、今回の問題はヴィクトリアが自分で解決しなければいけないのだ。それなのに。
躊躇うヴィクトリアに、セルマはきっぱりと言い切った。
「いいのよ。お父様ったら、乙女心が分かっていないのだもの」
乙女心。それは父だけでなく、ヴィクトリアにもよく分からないものだ。
首を傾げれば、セルマはヴィクトリアの手をぎゅっと握り締めた。
「あなたはアイラ家の立派な後継ぎだけど、女の子らしいことをあまり経験してこなかったでしょう。だから、少しくらい助言をしても罰は当たらないと思うの。初めてのことに戸惑って対応できないのは当たり前だわ」
少し考えて、母の言いたいことに気付いたヴィクトリアは真っ赤になった。
「それ、あの、リアムのこと?」
「そうよ。ヴィクトリアにとっては初恋ね」
うきうきと返事をするセルマ。耐え切れずに両手で顔を覆った。耳まで熱い気がする。
「うふふ。可愛いわねえ。でもヴィクトリア、これから少し厳しいことも言うわ。ちゃんと聞いてくれる?」
「……はい」
大事な話だ、と気づいてヴィクトリアは居住まいを正した。ただ恋愛の話をしに来たわけではない。
「いい子ね。あのね、ヴィクトリア。リアムとの婚約は、あなたにとって最善の選択だと思っているわ。あの子は完璧な従者に成長してくれたし、あなたのことを心から愛してくれている。立場も問題ないように整えてある。何も憂いが無いからこそ、あなたは素直に喜んでいたでしょう」
結婚する相手を自由に選べないこと。それは貴族にとってごく当然のことで、少し前までのヴィクトリアもそうだった。結果的に婚約者がリアムに変わったが、それだって元婚約者がやらかさなければありえない未来だった。その騒動が無ければ、リアムへの想いに気付くことさえ無かった。
ヴィクトリアはきっと、恋を知らずに人生を終えただろう。
「人を愛するというのは、とても尊いことよ。でもそれだけじゃ駄目なの。ヴィクトリア、あなたはちゃんとリアムのことを見ているかしら? もちろん、あなたたちがちゃんとお互いを想い合ってるのは知っているわ。でもヴィクトリア、今のあなたは少し、浮かれすぎてはいない? 前まで見えていたものが、分からなくなっていない?」
「前まで、見えていたもの……」
「恋は盲目って、本当のことよ。お母様にも覚えがあるわ。普通なら、ゆっくりと気づかなくてはいけないことなのだけど。あなたは普通が許されない立場だから」
セルマの言葉には、ひたすらに労りが込められていた。
「誰かを愛することは、その誰かを理解することよ。あなたたちは距離が近すぎて、前まではそれができていたのに、少しずれてしまっている」
「わたくし、そんなつもりは……」
「それが恋だもの。そんなつもりがなくったって、浮かれて、どうしようもなくそわそわしてしまうのよ。あなたの場合は、あの馬鹿王子のせいで必死にリアムを守ろうとしてしまったのもあるけど」
「馬鹿王子って」
思わず笑ってしまったヴィクトリアを、母も優しく微笑んで抱きしめてくれた。
「ヴィクトリアなら大丈夫。落ち着いて、ちゃんとリアムと向かい合ってご覧なさい。そうしたらきっと、心も晴れるわ」
そうすれば、リアムに言われたこともちゃんと理解できるだろうか。この状況を突破するきっかけが見えるだろうか。
母の腕の中で、ヴィクトリアはこくんと頷いた。
「分かりました。ありがとう、お母様」
「ええ。それじゃあ、お父様に見つかる前に戻らなくちゃ」
無理はしちゃだめよ、とヴィクトリアの額にキスを落として、セルマはこそこそと部屋を出て行った。その子供のような後ろ姿に、ヴィクトリアはまた笑い声を上げてしまった。
リアムはあの時既に、ヴィクトリアのことを想ってくれていたのだろうか。
リアムが置いていったお茶を飲みながら、静かに視線を落とす。紙の散らばった机の上を見ながら、言われたことを考えた。
ヴィクトリアの目的、矜持。見失う訳がない。忘れるはずがない。けれど忠実な彼は、見失うなというのだ。
大切なものを守るため、失わないために戦おうとしている。ヴィクトリアにとって大切なものはたくさんあって、どれかを取りこぼすなんてことは絶対にしたくない。
それが、間違っているのだろうか。
ため息をつくと、吐息がカップにかかって波紋を広げた。
(わたくしは、何をしているのかしら)
自己嫌悪に陥りかけた時、部屋にノックの音が響いた。
「ヴィクトリア? 今いいかしら」
「お母様? はい、大丈夫です」
部屋はリアムが綺麗にしてくれていた。机の上だけを慌てて片付け、母を迎え入れる。セルマはにっこりと笑って、ヴィクトリアの手元を覗き込んだ。
「あなたは本当に頭がいいわね。お母様にはこんなの無理よ」
「そんなことありません。わたくしの魔法の才はお母様譲りですもの」
「あら、ありがとう。でもあなたの努力の方が大きいわよ」
セルマは悪戯っぽく目を光らせて、ヴィクトリアを立たせた。机から離れて、二人並んでベッドに腰かける。
「少しお母様とお話ししましょう。お父様には内緒よ?」
「え、ですが……」
父に内緒、ということは、ヴィクトリアの手助けをしに来たということだ。だが、今回の問題はヴィクトリアが自分で解決しなければいけないのだ。それなのに。
躊躇うヴィクトリアに、セルマはきっぱりと言い切った。
「いいのよ。お父様ったら、乙女心が分かっていないのだもの」
乙女心。それは父だけでなく、ヴィクトリアにもよく分からないものだ。
首を傾げれば、セルマはヴィクトリアの手をぎゅっと握り締めた。
「あなたはアイラ家の立派な後継ぎだけど、女の子らしいことをあまり経験してこなかったでしょう。だから、少しくらい助言をしても罰は当たらないと思うの。初めてのことに戸惑って対応できないのは当たり前だわ」
少し考えて、母の言いたいことに気付いたヴィクトリアは真っ赤になった。
「それ、あの、リアムのこと?」
「そうよ。ヴィクトリアにとっては初恋ね」
うきうきと返事をするセルマ。耐え切れずに両手で顔を覆った。耳まで熱い気がする。
「うふふ。可愛いわねえ。でもヴィクトリア、これから少し厳しいことも言うわ。ちゃんと聞いてくれる?」
「……はい」
大事な話だ、と気づいてヴィクトリアは居住まいを正した。ただ恋愛の話をしに来たわけではない。
「いい子ね。あのね、ヴィクトリア。リアムとの婚約は、あなたにとって最善の選択だと思っているわ。あの子は完璧な従者に成長してくれたし、あなたのことを心から愛してくれている。立場も問題ないように整えてある。何も憂いが無いからこそ、あなたは素直に喜んでいたでしょう」
結婚する相手を自由に選べないこと。それは貴族にとってごく当然のことで、少し前までのヴィクトリアもそうだった。結果的に婚約者がリアムに変わったが、それだって元婚約者がやらかさなければありえない未来だった。その騒動が無ければ、リアムへの想いに気付くことさえ無かった。
ヴィクトリアはきっと、恋を知らずに人生を終えただろう。
「人を愛するというのは、とても尊いことよ。でもそれだけじゃ駄目なの。ヴィクトリア、あなたはちゃんとリアムのことを見ているかしら? もちろん、あなたたちがちゃんとお互いを想い合ってるのは知っているわ。でもヴィクトリア、今のあなたは少し、浮かれすぎてはいない? 前まで見えていたものが、分からなくなっていない?」
「前まで、見えていたもの……」
「恋は盲目って、本当のことよ。お母様にも覚えがあるわ。普通なら、ゆっくりと気づかなくてはいけないことなのだけど。あなたは普通が許されない立場だから」
セルマの言葉には、ひたすらに労りが込められていた。
「誰かを愛することは、その誰かを理解することよ。あなたたちは距離が近すぎて、前まではそれができていたのに、少しずれてしまっている」
「わたくし、そんなつもりは……」
「それが恋だもの。そんなつもりがなくったって、浮かれて、どうしようもなくそわそわしてしまうのよ。あなたの場合は、あの馬鹿王子のせいで必死にリアムを守ろうとしてしまったのもあるけど」
「馬鹿王子って」
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「ヴィクトリアなら大丈夫。落ち着いて、ちゃんとリアムと向かい合ってご覧なさい。そうしたらきっと、心も晴れるわ」
そうすれば、リアムに言われたこともちゃんと理解できるだろうか。この状況を突破するきっかけが見えるだろうか。
母の腕の中で、ヴィクトリアはこくんと頷いた。
「分かりました。ありがとう、お母様」
「ええ。それじゃあ、お父様に見つかる前に戻らなくちゃ」
無理はしちゃだめよ、とヴィクトリアの額にキスを落として、セルマはこそこそと部屋を出て行った。その子供のような後ろ姿に、ヴィクトリアはまた笑い声を上げてしまった。
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