上 下
52 / 66
第二章

新しい脚本

しおりを挟む
 指の先を軽く切って、水を張った水盤に浸ける。じわりと滲んだ血を馴染ませるように指で混ぜて、水面を覗き込んだ。ヴィクトリアの紫色の瞳が、波紋に揺れて形を変える。


「お嬢様」


 消毒された布を持って待っていたリアムが、焦れたように呼ぶ。水面から指を引き抜くと、すぐさま布で包み込まれた。


「この程度の傷でいつも大袈裟ね」

「術式ペンと違って、治癒の魔法も痛み止めの魔法もかかっていないのですよ。万が一、跡に残ったらどうするのですか」

「だからって、その治癒魔法はやり過ぎではない……?」


 リアムが用意している治癒魔法のスクロールを見て、ヴィクトリアはなんとも言えない顔をする。爪の長さほどしかない切り傷を治すだけなのに、びっしりと細かい字で術式が刻み込まれていた。

 傷の治療をするリアムは置いておいて、空いている左手で紙片を持ち上げる。血文字で刻まれているのは、タディリス王国第二王子の名前だ。

 その紙を水盤に浮かべると、映り込んでいたヴィクトリアの顔が別の人物のものに変わった。

 向こうには見えないだろうが、ヴィクトリアは膝を折って一礼する。


「お時間をいただきありがとうございます、ジェラルド殿下」

『アイラ領は我らの国において重要な場所だ。守るための策ならばいくらでも手を貸すとも』


 にこりともしないジェラルドは、縁の太い眼鏡を押し上げて手元に目を落としたようだった。


『前回の連絡で聞いた、レスター・クリーズの脚本の変更点。基本はこれで構わないよ。ギルバートとの類似点はすべて消えているからね。ヴィクトリア嬢たちはそのままのようだけど、これはいいんだね?』

「わたくしとリアムについてはこれで問題ありませんわ」


 王家から止められていたというレスターの脚本。父アルフレッドに改めて尋ねたところ、やはりギルバートの失態をそのまま設定に盛り込んでいたことが問題だったようだ。

 とはいえ、レスターもそれで完成としていた訳ではない。改定案を提出し、そこにエルベールの動きとこちらの目的も添えると、王宮はすぐに動いてくれた。

 水鏡を用いた連絡魔法は、双方の時間を合わせることや、そもそも使用する魔力量が多いことなど、制約の多い手段だ。それでも、手紙でのやりとりと比べれば遙かに利点が多い。緊急時の手段である水鏡を使う許可までもらえたのはありがたかった。


『あとは帝国のフォルジュ家がどう出るかだね。国民の意見を動かすのは悪くない手だと思うが、フォルジュ家当主が気にしなければ終わりだ。まだフォルジュ侯爵は何も言ってきていないんだろう?』

「はい、不気味なことに。さすがに父の手紙はもう届いているとは思うのですが」

『エルベール・フォルジュがどこまで独断で動いているかにもよるかな。ヴィクトリア嬢はどう思う?』

「当主は黙認状態なのではないかと考えていますわ。エルベールはあくまでも“自分の目的”として話をしていましたし、手紙には当主の魔法印もありませんでした。ですが、フォルジュ家の噂がすべて真実なら、次男を連れ帰るのは当主にとって喜ばしいことでしょう」

『成功すればそれでよし、失敗すれば責任は息子に。合理的だね。自分の保身だけを考えればの話だが』


 水鏡の向こうで、ジェラルドは薄く笑った。読み間違えようがないほどに、軽蔑の色しか浮かんでいなかった。いっそ清々しい。

 家の存続を考えるのならば、一人しかいない息子を切り捨てるのは愚行だ。息子に愛情がないのか、家そのものに頓着していないのか。


『ところで、君のところの従者とエルベール・フォルジュ、そんなに似ているんだ? フォルジュ家の嫡男は外交に出てこないから、見たことなくて』

「顔の造りは似ていると思いますわ。髪型と表情が違うので、間違えることはありませんが」

『へぇ。愛しの従者くんと同じ顔には惹かれなかったんだね?』


 ジェラルドの茶化すような言葉に、ヴィクトリアも微笑んだ。


「殿下、国への忠誠を試されたいのなら、自死でもお命じになられては? 喜んで首を捧げますわよ」

『……悪かったよ。怖い顔で映り込んでる従者くんを下げてくれ』

「わたくしの愛と忠誠を疑うからいけないのですわ。国を裏切るつもりなど毛頭ございませんし、リアム以外の男も願い下げです。いくら似ていても、あの男はリアムではありません。選ぶ理由が一つもございませんわ」

『ヴィクトリア嬢、いや、アイラ公爵家の忠誠は知っているとも。からかってすまなかった。……もう時間だね』


 ふとジェラルドが視線を横に流した。ヴィクトリアもリアムが差し出す時計を確認し、頷く。


「ジェラルド殿下、本日はありがとうございました」

『この策がうまくいくことを期待しているよ。それでは』


 ジェラルドの側から魔法が切られたのを確認し、ヴィクトリアも水盤に浮かべていた紙片を掬い上げる。そうして、ようやく肩の力を抜いた。


「ジェラルド殿下と話すのは緊張するわ。何を言わされるか分からないもの」


 あの第二王子は軽い調子でこちらを試してくるから油断ができない。迂闊なことを言えばあっさり弱みを握られる。

 軽く息をついて、ヴィクトリアは背筋を伸ばした。


「さて、レスター卿に報告しましょう。これで劇団にも動いてもらえるわね」

「すぐに使いを出します」


 王宮とのやりとりの間に、レスターは作品を書き上げていた。仕事の間に朗読を聞いてもらえるように、政治的な策略などはすべて消して短い物語にしたと言っていた。小国の姫と騎士を主人公にした恋愛の物語だ。悪役は悪い隣国の王子様。姫と結婚するはずだった王子は、しかし我が儘放題で悪事の限りを尽くし、最後には騎士との決闘で倒される。

 アイラ領の者ならば、主人公の二人がヴィクトリアとリアムであることは分かるだろう。悪い隣国というのも、帝国を連想する者が多いはずだ。

 この物語が広まった頃を見計らって二人の婚約を発表できるように、アルフレッドが整えてくれている。既に根回しは済んでいるから、どこからも文句は出ない。


「エルベールは一体どんな顔をするかしらね」


 ヴィクトリア好みの美しい顔だといい。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。

つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。 彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。 なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか? それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。 恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。 その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。 更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。 婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。 生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。 婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。 後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。 「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

領主の妻になりました

青波鳩子
恋愛
「私が君を愛することは無い」 司祭しかいない小さな教会で、夫になったばかりのクライブにフォスティーヌはそう告げられた。 =============================================== オルティス王の側室を母に持つ第三王子クライブと、バーネット侯爵家フォスティーヌは婚約していた。 挙式を半年後に控えたある日、王宮にて事件が勃発した。 クライブの異母兄である王太子ジェイラスが、国王陛下とクライブの実母である側室を暗殺。 新たに王の座に就いたジェイラスは、異母弟である第二王子マーヴィンを公金横領の疑いで捕縛、第三王子クライブにオールブライト辺境領を治める沙汰を下した。 マーヴィンの婚約者だったブリジットは共犯の疑いがあったが確たる証拠が見つからない。 ブリジットが王都にいてはマーヴィンの子飼いと接触、画策の恐れから、ジェイラスはクライブにオールブライト領でブリジットの隔離監視を命じる。 捜査中に大怪我を負い、生涯歩けなくなったブリジットをクライブは密かに想っていた。 長兄からの「ブリジットの隔離監視」を都合よく解釈したクライブは、オールブライト辺境伯の館のうち豪華な別邸でブリジットを囲った。 新王である長兄の命令に逆らえずフォスティーヌと結婚したクライブは、本邸にフォスティーヌを置き、自分はブリジットと別邸で暮らした。 フォスティーヌに「別邸には近づくことを許可しない」と告げて。 フォスティーヌは「お飾りの領主の妻」としてオールブライトで生きていく。 ブリジットの大きな嘘をクライブが知り、そこからクライブとフォスティーヌの関係性が変わり始める。 ======================================== *荒唐無稽の世界観の中、ふんわりと書いていますのでふんわりとお読みください *約10万字で最終話を含めて全29話です *他のサイトでも公開します *10月16日より、1日2話ずつ、7時と19時にアップします *誤字、脱字、衍字、誤用、素早く脳内変換してお読みいただけるとありがたいです

処理中です...