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第一章
「耽美令嬢」の矜持
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ヴィクトリアはユージェニーに招待され、王都のデラリア伯爵邸に来ていた。
「少しでもヴィクトリア様の気が晴れれば」という友人の気遣いを、ヴィクトリアはありがたく受け取った。
美しいものを好むヴィクトリアのために、一番日当たりが良い庭の四阿が用意されていた。色とりどりの花々が、初夏の庭を彩っている。
リアムがギルバートの従者になってから、既に二週間が過ぎていた。
植物園の事業は、父のアルフレッドが国王に直談判したことで再度動き始めている。ギルバートに知られればややこしいことになるだろうから、内密に。
同じくリアムの件も国王に伝えたらしいが、やはり血の契約を結んでいることが引っかかり、現時点ではどうにもならないらしい。「かなり言葉を濁しながら、謝られた」と父が言っていたから、ヴィクトリアはそれ以上何も言えなかった。
国王が非を認めたのなら、ギルバートの行いが王族として相応しくないと、けれどリアムを取り戻すことは難しいと、そういうことだ。
代償無く血の契約を解消するには、双方の同意が必要だ。ギルバートは同意などしないだろう。外部から契約を取り除く方法もなくはないが、それにはスクロールに刻まれた術式を分析しなければならない。スクロールはギルバートが持っているだろうから、やはり難しいだろう。
術式さえ分かれば、ヴィクトリアが解けるのに。ギルバートは王族が伝統的に使用する形式を使わなかったらしく、術式の詳細が分からない。独自の契約を結んでいるとすれば、リアムにどんな理不尽な条件が課せられているか。
何もできないこの身がもどかしい。
「……ヴィクトリア様、お茶はお口に会いませんか?」
穏やかに尋ねられて、慌てて顔を上げた。
「いいえ、ユージェニー。とても美味しいわ」
「良かった。ほら、ご覧ください。我が家のコックにお願いして、ケーキに薔薇を咲かせてもらったのです」
ユージェニーの言う通り、手元にあるケーキには桃色のクリームで花びらを作ってあった。見た目にも可愛らしく、実にヴィクトリアの好みだ。何度か遊びに来ているため、味が申し分ないことも知っている。
ユージェニーが心配してくれているのを、ヴィクトリアは十分理解している。その心遣いがありがたい。
けれど、二週間が経った今、未だに立ち直れない自分に不甲斐なさを感じてもいた。少なくとも、ユージェニーがずっと心配してくれるくらいに顔に出ているのは良くない。貴族令嬢として、ちゃんと表情を取り繕わなければ。
そう思うけれど、沈む心を掬い上げることは難しい。
「ありがとう、本当に……。ユージェニーがいなければ、きっとわたくしは学園にも通えていないわ」
「私はヴィクトリア様の友なのですから、当然ですわ」
にっこりと笑うユージェニーは、随分とさっぱりとしている。
「それに、デリックの件では私の方が泣きついたのですし。あの時はヴィクトリア様のお陰で、すぐに吹っ切れましたから」
「ええ……。わたくしが思うよりも早かったわ。あなたが元気なのは良いことだけれど」
「デリックがとんでもないクズだったからですわ。まさか、あんなにも自分のことしか考えていない男だったなんて……。私自身の見る目のなさにもがっかりしました」
ユージェニーとデリックの会話はヴィクトリアも聞いていた。貧しい領地を自ら発展させようと努力することもなく、他人にすべてを委ねようとする姿勢は、吐き気がするほど醜かった。
ただ、その時デリックが言った、「ポーラは不遇な状況にある人を助けたいと言ってくれた」という言葉。あれをもっと深く考えていたら、リアムを奪われる前に手が打てたかもしれない、と思ってしまう。
「……駄目ね、わたくしは。ユージェニーはこんなにも強く美しく立っているのに、今のわたくしは……、美しいとはとても言えないわ」
過ぎたことをうじうじと悩むくらいなら、解決のための手段を早く考えるべきだ。そう思うのに、どうしても胸が重い。
それに、ヴィクトリアにできることは数少ない。何かを考え、提案することはできても、それを実行するのはリアムか父の部下だった。金は出せるがヴィクトリアが稼いだものではない。父、ひいてはアイラ公爵家のものだ。そして、リアムがいない今となっては外出にすら制限がかかり、自分で証拠を集めることさえままならない。
すっかり意気消沈しているヴィクトリアに、ユージェニーは口を開いた。
「ですが、ヴィクトリア様。あなたにしかできないことは、たくさんおありでしょう?」
「そうかしら? これまでのすべては、アイラの名があってのもの。お父様と、我が先祖たちと、何より働いてくれている領民がいるからだわ」
「その名を背負って立つこと。私には到底無理ですわ。ヴィクトリア様は当然のようにおっしゃいますが、それができない貴族はたくさんいます。心意気があっても、重みに耐えかねて潰れてしまったり、そもそも貴族としての心構えがない者だって」
そこでユージェニーは一瞬だけ顔をしかめた。元婚約者を思ったのだろう。
「ヴィクトリア様は間違いなく、唯一のお方ですわ。自信をお持ちになって」
「……でも、」
ヴィクトリアが目を伏せると、豊かなまつげが深い影を作る。
「従者がいないというだけで、こんなにも心が弱ってしまうのよ。自信なんて……。わたくしは自分を見誤っていたわ。もっと立派にやれていると思っていた」
そして、ふっと目を瞬かせる。
「もしギルバート殿下とこのまま結婚したら、リアムはアイラ公爵家に戻って来るわ。……もうあの方と結婚などする気はないし、アイラのためにはならないと分かっているのに、そんなことまで考えてしまうの」
自嘲気味に笑ったヴィクトリアに、ユージェニーは「そうですわね……」と首を傾げた。
「ヴィクトリア様に足りないのは、自覚だと思いますわ」
「自覚? 貴族としての、かしら」
「まさか! ヴィクトリア様に貴族としての自覚がないなら、この国は平民ばかりになってしまいますわよ」
ユージェニーはおかしそうにころころと笑って、珍しく慈しむような目をした。
「だってヴィクトリア様、リアム卿のことがお好きなのでしょう?」
「え……」
「『言葉の意味が分からないわ』ってお顔、二回目になりましたわね」
当然だろう。本気で意味が分からない。
「リアムはわたくしの従者なのだから、好きなのは当たり前でなくて……?」
「異性として意識していらっしゃるのでしょう、と聞くべきでした? 前から思っていましたわ。ヴィクトリア様ったら、リアム卿だけは特別扱いなのですもの」
「だから、それは従者だからで」
「美しいものは広め、自慢したがるヴィクトリア様が、リアム卿のことだけには独占欲を見せますの。私を愛でる時と、リアム卿を愛でる時と。お顔がまったく違うのに気づいてらっしゃいます?」
ユージェニーがあまりに突拍子もないことを言い出すから、ヴィクトリアは上手く言葉を返せなかった。
恋など、ヴィクトリアは知らない。貴族として生きる上で、必要のないものだからだ。貴族階級は享受する特権の代わりに、民の生活を担う義務がある。令嬢にとって結婚とはその最たるものだ。そこに、個人の感情など存在してはいけない。義務の達成には邪魔なだけだ。
政略結婚の相手と愛を育むことができれば、それが一番綺麗な形に収まるのだろう。ヴィクトリアの両親がそうだ。ヴィクトリアを産んだ後、子供が望めなくなってしまった母を、父はそれでも愛している。男児の後継がいないことは、貴族社会では欠点として噂されてしまうのに。
そういう事情もあって、ヴィクトリアは令嬢としての教養だけでなく、後継者教育も受けて来た。その一環としてスラム街を視察しに行き、リアムを拾ったのだ。
ヴィクトリアが未来の女公爵として問題なく育てば、男の子を生めなかった母の名誉も回復する。
そして、王家からの打診でギルバートと婚約を結ぶことになり、家格の差から将来のアイラ公爵はギルバートに決まった。ヴィクトリア自身が公爵を名乗れずとも、学んだ知識は無駄にならない。いずれは彼を支えて、領地を、この国を、盛り立てていくのだと思っていたのだが。
だからこそ、恋などというものは、ヴィクトリアから最も遠かった。恋に溺れて義務を忘れるなど、それこそヴィクトリアが嫌う『醜さ』だ。今のギルバートたちのように。
「……恋など、わたくしには必要ないわ」
「うふふ、ヴィクトリア様の想いは、恋なんて枠に収まる程度なんですの?」
「どういうことよ」
むくれてみせても、ユージェニーは微笑んだまま。けれどその目に、どこか悲しげな光がある。
「お二人の傍にいる時間は短いですけれど、それでも分かりますわ。相手のどんな不幸も、在り方も、受け入れて認めることができる。お二人の間には愛があります。少なくとも、私にはそう見えますわ」
頭の中に混乱を残したまま、ヴィクトリアはユージェニーに言われたことを考えた。
リアムを拾ったのは、彼が本当に美しかったから。スラムで倒れていた彼を助けたいと思ったのも本当だし、お陰で領地経営について学びを得るきっかけにもなった。
そこには、ヴィクトリアの勝手な押し付けしかなかったはず。
「でも……。わたくしは、ただ、リアムが美しくて。その全部が、愛しいと思ったから」
言い訳のように口にした言葉が、まるでユージェニーの言う『愛』を肯定するようで。
動揺するヴィクトリアの背を、ユージェニーがゆっくりと撫でた。
「ヴィクトリア様ほど愛情深いお方を、私はほかに知りませんわ。ギルバート殿下は馬鹿です。あんな女よりも、ヴィクトリア様の方がよっぽど素敵なのに」
「そんな、の……。でも、でも。酷いわ、ユージェニー。わたくしにこんなこと、自覚させるだなんて。だって」
宝石のような紫の瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「リアムはもういないわ。いないのよ……」
以前と立場が逆になる。ユージェニーの胸に抱かれて、ヴィクトリアは声も立てずに泣いた。
「はい。はい、ごめんなさい。でも、ヴィクトリア様自身が気付かなければ、前に進めませんわ。ずっと立ち上がらないままなんて、ヴィクトリア様の美しさではありませんもの」
その通りだ。自分が落ち込んでいる理由も分からず、ただ閉じこもっているだけなど、ヴィクトリアは許せない。
それをユージェニーはよく分かっている。だからこうして、ヴィクトリアを引っ張り上げようとしてくれている。
リアムはもういない。取り返す手段も思いつかない。いくらヴィクトリアが彼を想っても、もうどうにもならない。
そう、けりを付けてしまわなければ。ヴィクトリアは何もできないまま、ただ負けることになる。
それは、美しくない。
(……リアム。わたくしは、あなたを)
鼻の奥がツンと鈍く痛む。喉の奥に、熱い塊がある。それらをぐっと飲み下して、ヴィクトリアは顔を上げた。
「ユージェニー。わたくしの部屋に、リアムとの契約スクロールを入れた宝石箱があるの。契約が上書きされたから、スクロールは燃えてなくなっているでしょうけれど。……怖くて、まだ確認できていないの。……開けるとき、傍についていてくれるかしら」
「もちろんですわ、ヴィクトリア様」
少しずつでも、前に進まなければならない。たとえ自分自身が千々に切り裂かれようとも、美しく立たねばならない。ヴィクトリアは何よりも美しさを最上とする、「耽美令嬢」なのだから。
「少しでもヴィクトリア様の気が晴れれば」という友人の気遣いを、ヴィクトリアはありがたく受け取った。
美しいものを好むヴィクトリアのために、一番日当たりが良い庭の四阿が用意されていた。色とりどりの花々が、初夏の庭を彩っている。
リアムがギルバートの従者になってから、既に二週間が過ぎていた。
植物園の事業は、父のアルフレッドが国王に直談判したことで再度動き始めている。ギルバートに知られればややこしいことになるだろうから、内密に。
同じくリアムの件も国王に伝えたらしいが、やはり血の契約を結んでいることが引っかかり、現時点ではどうにもならないらしい。「かなり言葉を濁しながら、謝られた」と父が言っていたから、ヴィクトリアはそれ以上何も言えなかった。
国王が非を認めたのなら、ギルバートの行いが王族として相応しくないと、けれどリアムを取り戻すことは難しいと、そういうことだ。
代償無く血の契約を解消するには、双方の同意が必要だ。ギルバートは同意などしないだろう。外部から契約を取り除く方法もなくはないが、それにはスクロールに刻まれた術式を分析しなければならない。スクロールはギルバートが持っているだろうから、やはり難しいだろう。
術式さえ分かれば、ヴィクトリアが解けるのに。ギルバートは王族が伝統的に使用する形式を使わなかったらしく、術式の詳細が分からない。独自の契約を結んでいるとすれば、リアムにどんな理不尽な条件が課せられているか。
何もできないこの身がもどかしい。
「……ヴィクトリア様、お茶はお口に会いませんか?」
穏やかに尋ねられて、慌てて顔を上げた。
「いいえ、ユージェニー。とても美味しいわ」
「良かった。ほら、ご覧ください。我が家のコックにお願いして、ケーキに薔薇を咲かせてもらったのです」
ユージェニーの言う通り、手元にあるケーキには桃色のクリームで花びらを作ってあった。見た目にも可愛らしく、実にヴィクトリアの好みだ。何度か遊びに来ているため、味が申し分ないことも知っている。
ユージェニーが心配してくれているのを、ヴィクトリアは十分理解している。その心遣いがありがたい。
けれど、二週間が経った今、未だに立ち直れない自分に不甲斐なさを感じてもいた。少なくとも、ユージェニーがずっと心配してくれるくらいに顔に出ているのは良くない。貴族令嬢として、ちゃんと表情を取り繕わなければ。
そう思うけれど、沈む心を掬い上げることは難しい。
「ありがとう、本当に……。ユージェニーがいなければ、きっとわたくしは学園にも通えていないわ」
「私はヴィクトリア様の友なのですから、当然ですわ」
にっこりと笑うユージェニーは、随分とさっぱりとしている。
「それに、デリックの件では私の方が泣きついたのですし。あの時はヴィクトリア様のお陰で、すぐに吹っ切れましたから」
「ええ……。わたくしが思うよりも早かったわ。あなたが元気なのは良いことだけれど」
「デリックがとんでもないクズだったからですわ。まさか、あんなにも自分のことしか考えていない男だったなんて……。私自身の見る目のなさにもがっかりしました」
ユージェニーとデリックの会話はヴィクトリアも聞いていた。貧しい領地を自ら発展させようと努力することもなく、他人にすべてを委ねようとする姿勢は、吐き気がするほど醜かった。
ただ、その時デリックが言った、「ポーラは不遇な状況にある人を助けたいと言ってくれた」という言葉。あれをもっと深く考えていたら、リアムを奪われる前に手が打てたかもしれない、と思ってしまう。
「……駄目ね、わたくしは。ユージェニーはこんなにも強く美しく立っているのに、今のわたくしは……、美しいとはとても言えないわ」
過ぎたことをうじうじと悩むくらいなら、解決のための手段を早く考えるべきだ。そう思うのに、どうしても胸が重い。
それに、ヴィクトリアにできることは数少ない。何かを考え、提案することはできても、それを実行するのはリアムか父の部下だった。金は出せるがヴィクトリアが稼いだものではない。父、ひいてはアイラ公爵家のものだ。そして、リアムがいない今となっては外出にすら制限がかかり、自分で証拠を集めることさえままならない。
すっかり意気消沈しているヴィクトリアに、ユージェニーは口を開いた。
「ですが、ヴィクトリア様。あなたにしかできないことは、たくさんおありでしょう?」
「そうかしら? これまでのすべては、アイラの名があってのもの。お父様と、我が先祖たちと、何より働いてくれている領民がいるからだわ」
「その名を背負って立つこと。私には到底無理ですわ。ヴィクトリア様は当然のようにおっしゃいますが、それができない貴族はたくさんいます。心意気があっても、重みに耐えかねて潰れてしまったり、そもそも貴族としての心構えがない者だって」
そこでユージェニーは一瞬だけ顔をしかめた。元婚約者を思ったのだろう。
「ヴィクトリア様は間違いなく、唯一のお方ですわ。自信をお持ちになって」
「……でも、」
ヴィクトリアが目を伏せると、豊かなまつげが深い影を作る。
「従者がいないというだけで、こんなにも心が弱ってしまうのよ。自信なんて……。わたくしは自分を見誤っていたわ。もっと立派にやれていると思っていた」
そして、ふっと目を瞬かせる。
「もしギルバート殿下とこのまま結婚したら、リアムはアイラ公爵家に戻って来るわ。……もうあの方と結婚などする気はないし、アイラのためにはならないと分かっているのに、そんなことまで考えてしまうの」
自嘲気味に笑ったヴィクトリアに、ユージェニーは「そうですわね……」と首を傾げた。
「ヴィクトリア様に足りないのは、自覚だと思いますわ」
「自覚? 貴族としての、かしら」
「まさか! ヴィクトリア様に貴族としての自覚がないなら、この国は平民ばかりになってしまいますわよ」
ユージェニーはおかしそうにころころと笑って、珍しく慈しむような目をした。
「だってヴィクトリア様、リアム卿のことがお好きなのでしょう?」
「え……」
「『言葉の意味が分からないわ』ってお顔、二回目になりましたわね」
当然だろう。本気で意味が分からない。
「リアムはわたくしの従者なのだから、好きなのは当たり前でなくて……?」
「異性として意識していらっしゃるのでしょう、と聞くべきでした? 前から思っていましたわ。ヴィクトリア様ったら、リアム卿だけは特別扱いなのですもの」
「だから、それは従者だからで」
「美しいものは広め、自慢したがるヴィクトリア様が、リアム卿のことだけには独占欲を見せますの。私を愛でる時と、リアム卿を愛でる時と。お顔がまったく違うのに気づいてらっしゃいます?」
ユージェニーがあまりに突拍子もないことを言い出すから、ヴィクトリアは上手く言葉を返せなかった。
恋など、ヴィクトリアは知らない。貴族として生きる上で、必要のないものだからだ。貴族階級は享受する特権の代わりに、民の生活を担う義務がある。令嬢にとって結婚とはその最たるものだ。そこに、個人の感情など存在してはいけない。義務の達成には邪魔なだけだ。
政略結婚の相手と愛を育むことができれば、それが一番綺麗な形に収まるのだろう。ヴィクトリアの両親がそうだ。ヴィクトリアを産んだ後、子供が望めなくなってしまった母を、父はそれでも愛している。男児の後継がいないことは、貴族社会では欠点として噂されてしまうのに。
そういう事情もあって、ヴィクトリアは令嬢としての教養だけでなく、後継者教育も受けて来た。その一環としてスラム街を視察しに行き、リアムを拾ったのだ。
ヴィクトリアが未来の女公爵として問題なく育てば、男の子を生めなかった母の名誉も回復する。
そして、王家からの打診でギルバートと婚約を結ぶことになり、家格の差から将来のアイラ公爵はギルバートに決まった。ヴィクトリア自身が公爵を名乗れずとも、学んだ知識は無駄にならない。いずれは彼を支えて、領地を、この国を、盛り立てていくのだと思っていたのだが。
だからこそ、恋などというものは、ヴィクトリアから最も遠かった。恋に溺れて義務を忘れるなど、それこそヴィクトリアが嫌う『醜さ』だ。今のギルバートたちのように。
「……恋など、わたくしには必要ないわ」
「うふふ、ヴィクトリア様の想いは、恋なんて枠に収まる程度なんですの?」
「どういうことよ」
むくれてみせても、ユージェニーは微笑んだまま。けれどその目に、どこか悲しげな光がある。
「お二人の傍にいる時間は短いですけれど、それでも分かりますわ。相手のどんな不幸も、在り方も、受け入れて認めることができる。お二人の間には愛があります。少なくとも、私にはそう見えますわ」
頭の中に混乱を残したまま、ヴィクトリアはユージェニーに言われたことを考えた。
リアムを拾ったのは、彼が本当に美しかったから。スラムで倒れていた彼を助けたいと思ったのも本当だし、お陰で領地経営について学びを得るきっかけにもなった。
そこには、ヴィクトリアの勝手な押し付けしかなかったはず。
「でも……。わたくしは、ただ、リアムが美しくて。その全部が、愛しいと思ったから」
言い訳のように口にした言葉が、まるでユージェニーの言う『愛』を肯定するようで。
動揺するヴィクトリアの背を、ユージェニーがゆっくりと撫でた。
「ヴィクトリア様ほど愛情深いお方を、私はほかに知りませんわ。ギルバート殿下は馬鹿です。あんな女よりも、ヴィクトリア様の方がよっぽど素敵なのに」
「そんな、の……。でも、でも。酷いわ、ユージェニー。わたくしにこんなこと、自覚させるだなんて。だって」
宝石のような紫の瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「リアムはもういないわ。いないのよ……」
以前と立場が逆になる。ユージェニーの胸に抱かれて、ヴィクトリアは声も立てずに泣いた。
「はい。はい、ごめんなさい。でも、ヴィクトリア様自身が気付かなければ、前に進めませんわ。ずっと立ち上がらないままなんて、ヴィクトリア様の美しさではありませんもの」
その通りだ。自分が落ち込んでいる理由も分からず、ただ閉じこもっているだけなど、ヴィクトリアは許せない。
それをユージェニーはよく分かっている。だからこうして、ヴィクトリアを引っ張り上げようとしてくれている。
リアムはもういない。取り返す手段も思いつかない。いくらヴィクトリアが彼を想っても、もうどうにもならない。
そう、けりを付けてしまわなければ。ヴィクトリアは何もできないまま、ただ負けることになる。
それは、美しくない。
(……リアム。わたくしは、あなたを)
鼻の奥がツンと鈍く痛む。喉の奥に、熱い塊がある。それらをぐっと飲み下して、ヴィクトリアは顔を上げた。
「ユージェニー。わたくしの部屋に、リアムとの契約スクロールを入れた宝石箱があるの。契約が上書きされたから、スクロールは燃えてなくなっているでしょうけれど。……怖くて、まだ確認できていないの。……開けるとき、傍についていてくれるかしら」
「もちろんですわ、ヴィクトリア様」
少しずつでも、前に進まなければならない。たとえ自分自身が千々に切り裂かれようとも、美しく立たねばならない。ヴィクトリアは何よりも美しさを最上とする、「耽美令嬢」なのだから。
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