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第一章
奪われた従者
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ヴィクトリアはユージェニーが持ってきた報告書を読んで、ため息をついた。ポーラが声をかけている男子生徒が、予想以上に多かったからだ。
幸いにして、絡まれてもちゃんと拒絶している令息の方が多い。けれど、彼女に応じて取り巻きに成り下がっている連中もいる。その多くが、下位貴族の次男や三男たちだ。
後継者になれず、家門によっては引き継げる爵位もなく、成人すれば職を得なければいけない立場の令息たち。中にはどこかの家に婿入りする者もいるが、そういう婚約が決まっている者は幸運な方だろう。
だが、ポーラに侍《はべ》っている令息たちは、婚約者を蔑ろにし始めている。デリックだけではないのだ。そのせいで、学園内で婚約者同士が言い争っているのを度々見かけるようになった。
ユージェニーたちのようにすぐさま婚約破棄、というのは今のところ聞かないが、それも時間の問題だろう。
ヴィクトリアのもとに上がって来る情報は、ポーラが着々と失態を演じていることを示す物ばかりだ。しかし、本当に欲しいギルバートの情報はほとんどない。ポーラが問題を起こすと現れて、その場を表面上だけとりなして去っていく。ある意味一番厄介だ。核心的な問題はそのまま置いて、第三王子という威光でポーラを庇うが、本人は自らの傷を晒さない。
最近はヴィクトリアと会話することも避けているようだ。あまりにも証拠が集まらなければ、ヴィクトリア本人が問題発言を引き出してやろうと思っていたのに。
なまじ頭が良いだけに、ポーラと違って人目を気にしている。彼らの身内だけがいる時ならばいろいろと聞けるだろうが、ヴィクトリアでは潜入など不可能だ。
膠着状態。けれどしがらみのないポーラは自由に動き回っている。
「本当に目障りですわね、あの女」
「殿下もそれを分かっているのでしょう。彼女が動けば動くだけ、こちらの調査は手間が増える」
二階テラスにユージェニーを招き、報告がてら小さなお茶会を開いていた。
報告書を仕舞うと、リアムが紅茶を淹れ直してくれる。完璧な給仕を褒めると、リアムの鬱々とした表情が綻んだ。
「まったく、あの女はまるで厄の塊ですわね。近頃は明るい話題を聞きませんわ」
「そうね。学園の空気も張りつめているし」
ため息をついたユージェニーに同意する。けれど、この騒動が終われば少しは過ごしやすくなるはずだ。できれば、学園の前期が終わる前には片を付けたい。夏の長期休みを挟めば、ヴィクトリアでも事態の広がりが予想できなくなりそうだ。
それに、学園の前期は貴族の社交シーズンとも重なっている。それが終われば領主たちは領地に帰ってしまう。ヴィクトリアの父もそうだ。すぐに報告と相談ができる今の環境はありがたい。
疲れを見せる二人を気遣ってか、リアムが口を開いた。
「良い報せもございますよ、お嬢様」
「あら、何かしら?」
「旦那様より、植物園の件でお許しが出ました。何度か視察に行ったあのスラムの土地を買い上げるそうです。また、そこに至るまでの道路も整備なさるとか」
それは確かに良い報せだ。
「それは良かったわ! 楽しみが増えたわね」
ヴィクトリアは弾んだ声を出す。ユージェニーも興味津々、といった様子で身を乗り出した。
「植物園というのは、アイラ公爵領にあるのと同じものですの? 確か、ヴィクトリア様が幼少の頃に作らせたと聞いておりますわ」
「ええ。王都でも楽しめればと思って。本当に見事なのよ。せっかく王都に作るのだからティールームも用意して、他の方々にも開けた場所にしようと考えているの」
「素敵ですわ! 令嬢の間では、アイラ公爵領の植物園は憧れの存在なのです」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
植物園の規模や、ティールームの内装や提供する飲食物など、今から考えることはたくさんある。
そのためにも、ギルバートとの婚約を早く解消しなければ。
そんな話をしていた時だった。
「こんなところにいたのかい、ヴィクトリア」
二階テラスに、突然ギルバートがやって来た。隣にはポーラ、後ろには幾人かの令息を従えている。
リアムがヴィクトリアを守るように前に出るが、相手は腐っても第三王子。何も言えないリアムの代わりに、ヴィクトリアは冷たい声を返した。
「令嬢がいる場所に、許可も得ずに入ってくるだなんて。いくらギルバート殿下とはいえ、あまりにも不躾ですわ」
「それは悪かったね」
まったく悪いとは思っていない顔で、ギルバートは言う。
ヴィクトリアを避けていた様子だったのに、向こうから来るとは思わなかった。これはまずい流れだ、とヴィクトリアは内心身構えた。
ポーラが何故か、リアムを見て目を潤ませている。
「君に大切な話があるんだ」
「リアム君、もう大丈夫。あたしたちが助けてあげるからね!」
訳が分からない。リアムの横顔を見上げると、心底不快そうな顔をしていた。
ともかく、ここでヴィクトリアが答えなければ話は進まない。
「殿下。お話とは何でしょう? リアムのことならば、家の外に助けを求めるような事情はございませんが?」
「君にとってはそうだろうね」
明らかな嘲笑を向けられて、さすがのヴィクトリアも眉をひそめた。
「ポーラから聞いたよ。君たちは血の契約を交わしていると」
血の契約。主従関係を強力に結びつける、魔法契約だ。
どこでそれを、と思ったが、教室でユージェニーにその話をしていた。同じ場所にポーラもいたから、多分そこから流れたのだろう。
血の契約自体は古く、悪い歴史も多いことから、今となっては使っている貴族は少ない。だが、王族は未だに近しい臣下と血の契約を交わしているし、法律に反しているわけでもない。
だからヴィクトリアも、特に気にしていなかった。珍しいが、悪いことはしていない。契約内容だって父と確認し、問題ないように整えている。心情的に何度か解消しようとしたこともあるが、リアムの方から却下されている。
「それが何か?」
堂々と認めると、ギルバートは沈痛に目を伏せた。
「悪びれもしない、か……。優しいポーラが胸を痛めていてね。魔法で無理やりリアムの心を縛り付けるのは可哀想だと。ヴィクトリア、君にそういう人としての心は無いのかい?」
「無理やりだなんて。憶測で人を批難するだなんて、酷いことをなさるのね」
悪いことをしていないのだから、悪びれないのは当然だろう。だが、ギルバートが連れてきた面々はこちらを睨んでくる。
ポーラが心外だ、とでも言うように口に手を当てた。
「そんなこと……」
「君にポーラをとやかく言う資格はない」
ギルバートは険しい口調でそう言い切った。まさか、自分の婚約者がまだヴィクトリアであることを忘れているのだろうか。
付き合いきれない、と判断して、ヴィクトリアは椅子から立ち上がった。
「用がそれだけなら、わたくし、失礼いたしますわ。先生に質問したいことがございますの」
本当はそんなもの無いけれど、王子の前を辞する建前は作らなければ。
だがギルバートはそれを許さなかった。
「いいや、話はここからだ」
「ギル君に聞きました。血の契約は、後から結んだ契約に上書きされるんだって」
ヴィクトリアは小さく息を呑んだ。猛烈に嫌な予感がする。
ポーラの言うとおりだ。いくつかの例外はあるが、基本的に血の契約は一人につき一つだけ。もしヴィクトリアかリアムのどちらかが別の人間と血の契約を結べば、今の契約は代償無く破棄される。
古くは、不当な扱いを受けている優秀な人物を、国が取り込めるように作られた仕組みだと聞いているけれど。
「ヴィクトリア、こういうやり方を、今の僕は好まない。だが、誰かの救いとなるなら使えるものはなんでも使おう」
「……おやめください」
「王子命令だ。リアム・バルフォアを、僕の従者とする」
ギルバートは決意を込めた口調で、そう言い切った。ヴィクトリアは息を吸うことを忘れ、一瞬だけ、目の前が真っ暗になった。
「……リアムの、雇用は、父が決めたものです。わたくしは今ここで、それを許可する権利がございません」
受け入れてはならない。リアムはヴィクトリアの従者だ。
必死に考える。リアムを奪われない手、告げるべき言葉を。
愕然としたリアムがヴィクトリアを見ている。唇が血の気を失っていた。言葉もなく首を振って、嫌だと、離れたくないと、全身で訴えている。
見開かれた目が、激しく震えているのが分かった。悲痛なほど眉間に力が入っている。
赤い綺麗な瞳が、絶望に染まる様。暗い澱みが重なり合って、一切の光を飲み込んでしまうような。どろついた闇を孕んで、切れ長の目尻がぐにゃりと歪むのだ。幼いヴィクトリアが心を奪われた、世界で一番美しい姿。
こんなにも、美しいのに。これまで見た中で、最も美しいはずなのに。
(胸がときめかないのは、何故なの)
ヴィクトリアの手が、震える。
「アイラ公爵とて、僕の命令に逆らうことはできない」
「いえ、いいえ。使用人の雇用は家長のみに権限がございます。わたくしとリアムが交わした血の契約も、父の許可を得たもの。契約内容にも違法はございません。たとえ王族とて、法に反していない主従契約を破棄させるなど、越権行為ですわ」
「そんなもの、君がそう言っているだけだろう?」
言葉が通じない。常識が違っている。
「ヴィクトリア、まさか王子たる僕の命令が聞けないとでも?」
ここにいるのが、ヴィクトリアでなく父だったなら。アイラ公爵がここにいれば、一笑に付してくれるだろうに。
アイラ公爵家唯一の子供とはいえ、ただの公爵令嬢であるヴィクトリアに、取れる手段は限られている。
「王子であろうと許されない、という話を……」
「ギル君に逆らってまで、リアム君を縛り付けたいの? ヴィクトリア様って本当に……、噂通りで冷酷な人!」
自分の行いが正義だと信じ切っている顔で、ポーラが言い放った。
ヴィクトリアは取り繕うこともできず、ポーラを睨みつける。
「リアムはわたくしの従者。お互いにそれを望み、そして今ここにいるの。何も知らないあなたに、勝手なことを言われたくはないわ!」
「自分に都合が悪いと、そうやって怒るんですよね」
何を言っても理解されない。まるで別の言語を話しているかのようだ。
「悪あがきもほどほどにしてくれ、ヴィクトリア。僕は君に、どれだけ失望させられたらいいんだ」
すぐ傍でユージェニーが拳を握る。だが、彼女に何かを言わせてはいけない。伯爵令嬢であるユージェニーが、直接王子に反論などしたら、今のギルバートならすぐさま罰を与えるだろう。
「誰に何と言われようと、リアムはわたくしのもの。そして、アイラ公爵家のものですわ」
「……ヴィクトリア、僕だって手荒な真似はしたくないんだよ」
ギルバートはそう囁いて、視線を背後に流した。体格の良い男子生徒たちが並んでいる。
それが何を意味するか。ぞっとして、足の力が抜けた。
すとん、と椅子に逆戻りしたヴィクトリアの前に、リアムが飛び出す。
「分かりました!」
「リアム……?」
「ギルバート第三王子の従者になります。契約も、交わします。ですから、ヴィクトリアお嬢様には手を出さないでください!」
文字通り身を投げ出して、リアムはそう願った。全身がガタガタと震えている。
彼は優秀な従者で、護衛だった。いつも。
いざという時には自分を犠牲にしてヴィクトリアを守るのだと、それがリアムの誓いで、使命だと。
ヴィクトリアはそんなことを望まないと、分かっているのに。
「……いや」
か細い悲鳴がヴィクトリアの口から零れ落ちたが、誰もそれを聞いてはいなかった。
ギルバートは満面の笑みを浮かべて、身を屈め、リアムの肩を叩いた。
「魔法で彼に忠誠を誓わせていて良かったね、ヴィクトリア。ここは彼に免じて引いてあげよう。さあリアム、行こうか。すぐにその契約を剥がしてあげるよ」
立ち上がったリアムは、一度だけ、真っ暗に澱んだ目でヴィクトリアを見た。お嬢様、と声にならない呟きを残して、ギルバートに向き直る。
その時にはもう、リアムの顔にはひとつの感情も浮かんではいなかった。
「良かったね、リアム君! これでもう自由だよ!」
ポーラが大喜びでリアムに寄り添い、ギルバートがその背を押してテラスを後にする。
「ああ、そうだ、忘れていた」
最後に振り向いたギルバートは、何でもないように言い残した。
「王都に植物園を作る計画だったそうだね。それ、僕の権限で止めておいたから。自分の楽しみのためだけに街を潰すなんて、許される訳がないからね」
ヴィクトリアは彼らの背中を、蒼白な顔で見送ることしかできなかった。
幸いにして、絡まれてもちゃんと拒絶している令息の方が多い。けれど、彼女に応じて取り巻きに成り下がっている連中もいる。その多くが、下位貴族の次男や三男たちだ。
後継者になれず、家門によっては引き継げる爵位もなく、成人すれば職を得なければいけない立場の令息たち。中にはどこかの家に婿入りする者もいるが、そういう婚約が決まっている者は幸運な方だろう。
だが、ポーラに侍《はべ》っている令息たちは、婚約者を蔑ろにし始めている。デリックだけではないのだ。そのせいで、学園内で婚約者同士が言い争っているのを度々見かけるようになった。
ユージェニーたちのようにすぐさま婚約破棄、というのは今のところ聞かないが、それも時間の問題だろう。
ヴィクトリアのもとに上がって来る情報は、ポーラが着々と失態を演じていることを示す物ばかりだ。しかし、本当に欲しいギルバートの情報はほとんどない。ポーラが問題を起こすと現れて、その場を表面上だけとりなして去っていく。ある意味一番厄介だ。核心的な問題はそのまま置いて、第三王子という威光でポーラを庇うが、本人は自らの傷を晒さない。
最近はヴィクトリアと会話することも避けているようだ。あまりにも証拠が集まらなければ、ヴィクトリア本人が問題発言を引き出してやろうと思っていたのに。
なまじ頭が良いだけに、ポーラと違って人目を気にしている。彼らの身内だけがいる時ならばいろいろと聞けるだろうが、ヴィクトリアでは潜入など不可能だ。
膠着状態。けれどしがらみのないポーラは自由に動き回っている。
「本当に目障りですわね、あの女」
「殿下もそれを分かっているのでしょう。彼女が動けば動くだけ、こちらの調査は手間が増える」
二階テラスにユージェニーを招き、報告がてら小さなお茶会を開いていた。
報告書を仕舞うと、リアムが紅茶を淹れ直してくれる。完璧な給仕を褒めると、リアムの鬱々とした表情が綻んだ。
「まったく、あの女はまるで厄の塊ですわね。近頃は明るい話題を聞きませんわ」
「そうね。学園の空気も張りつめているし」
ため息をついたユージェニーに同意する。けれど、この騒動が終われば少しは過ごしやすくなるはずだ。できれば、学園の前期が終わる前には片を付けたい。夏の長期休みを挟めば、ヴィクトリアでも事態の広がりが予想できなくなりそうだ。
それに、学園の前期は貴族の社交シーズンとも重なっている。それが終われば領主たちは領地に帰ってしまう。ヴィクトリアの父もそうだ。すぐに報告と相談ができる今の環境はありがたい。
疲れを見せる二人を気遣ってか、リアムが口を開いた。
「良い報せもございますよ、お嬢様」
「あら、何かしら?」
「旦那様より、植物園の件でお許しが出ました。何度か視察に行ったあのスラムの土地を買い上げるそうです。また、そこに至るまでの道路も整備なさるとか」
それは確かに良い報せだ。
「それは良かったわ! 楽しみが増えたわね」
ヴィクトリアは弾んだ声を出す。ユージェニーも興味津々、といった様子で身を乗り出した。
「植物園というのは、アイラ公爵領にあるのと同じものですの? 確か、ヴィクトリア様が幼少の頃に作らせたと聞いておりますわ」
「ええ。王都でも楽しめればと思って。本当に見事なのよ。せっかく王都に作るのだからティールームも用意して、他の方々にも開けた場所にしようと考えているの」
「素敵ですわ! 令嬢の間では、アイラ公爵領の植物園は憧れの存在なのです」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
植物園の規模や、ティールームの内装や提供する飲食物など、今から考えることはたくさんある。
そのためにも、ギルバートとの婚約を早く解消しなければ。
そんな話をしていた時だった。
「こんなところにいたのかい、ヴィクトリア」
二階テラスに、突然ギルバートがやって来た。隣にはポーラ、後ろには幾人かの令息を従えている。
リアムがヴィクトリアを守るように前に出るが、相手は腐っても第三王子。何も言えないリアムの代わりに、ヴィクトリアは冷たい声を返した。
「令嬢がいる場所に、許可も得ずに入ってくるだなんて。いくらギルバート殿下とはいえ、あまりにも不躾ですわ」
「それは悪かったね」
まったく悪いとは思っていない顔で、ギルバートは言う。
ヴィクトリアを避けていた様子だったのに、向こうから来るとは思わなかった。これはまずい流れだ、とヴィクトリアは内心身構えた。
ポーラが何故か、リアムを見て目を潤ませている。
「君に大切な話があるんだ」
「リアム君、もう大丈夫。あたしたちが助けてあげるからね!」
訳が分からない。リアムの横顔を見上げると、心底不快そうな顔をしていた。
ともかく、ここでヴィクトリアが答えなければ話は進まない。
「殿下。お話とは何でしょう? リアムのことならば、家の外に助けを求めるような事情はございませんが?」
「君にとってはそうだろうね」
明らかな嘲笑を向けられて、さすがのヴィクトリアも眉をひそめた。
「ポーラから聞いたよ。君たちは血の契約を交わしていると」
血の契約。主従関係を強力に結びつける、魔法契約だ。
どこでそれを、と思ったが、教室でユージェニーにその話をしていた。同じ場所にポーラもいたから、多分そこから流れたのだろう。
血の契約自体は古く、悪い歴史も多いことから、今となっては使っている貴族は少ない。だが、王族は未だに近しい臣下と血の契約を交わしているし、法律に反しているわけでもない。
だからヴィクトリアも、特に気にしていなかった。珍しいが、悪いことはしていない。契約内容だって父と確認し、問題ないように整えている。心情的に何度か解消しようとしたこともあるが、リアムの方から却下されている。
「それが何か?」
堂々と認めると、ギルバートは沈痛に目を伏せた。
「悪びれもしない、か……。優しいポーラが胸を痛めていてね。魔法で無理やりリアムの心を縛り付けるのは可哀想だと。ヴィクトリア、君にそういう人としての心は無いのかい?」
「無理やりだなんて。憶測で人を批難するだなんて、酷いことをなさるのね」
悪いことをしていないのだから、悪びれないのは当然だろう。だが、ギルバートが連れてきた面々はこちらを睨んでくる。
ポーラが心外だ、とでも言うように口に手を当てた。
「そんなこと……」
「君にポーラをとやかく言う資格はない」
ギルバートは険しい口調でそう言い切った。まさか、自分の婚約者がまだヴィクトリアであることを忘れているのだろうか。
付き合いきれない、と判断して、ヴィクトリアは椅子から立ち上がった。
「用がそれだけなら、わたくし、失礼いたしますわ。先生に質問したいことがございますの」
本当はそんなもの無いけれど、王子の前を辞する建前は作らなければ。
だがギルバートはそれを許さなかった。
「いいや、話はここからだ」
「ギル君に聞きました。血の契約は、後から結んだ契約に上書きされるんだって」
ヴィクトリアは小さく息を呑んだ。猛烈に嫌な予感がする。
ポーラの言うとおりだ。いくつかの例外はあるが、基本的に血の契約は一人につき一つだけ。もしヴィクトリアかリアムのどちらかが別の人間と血の契約を結べば、今の契約は代償無く破棄される。
古くは、不当な扱いを受けている優秀な人物を、国が取り込めるように作られた仕組みだと聞いているけれど。
「ヴィクトリア、こういうやり方を、今の僕は好まない。だが、誰かの救いとなるなら使えるものはなんでも使おう」
「……おやめください」
「王子命令だ。リアム・バルフォアを、僕の従者とする」
ギルバートは決意を込めた口調で、そう言い切った。ヴィクトリアは息を吸うことを忘れ、一瞬だけ、目の前が真っ暗になった。
「……リアムの、雇用は、父が決めたものです。わたくしは今ここで、それを許可する権利がございません」
受け入れてはならない。リアムはヴィクトリアの従者だ。
必死に考える。リアムを奪われない手、告げるべき言葉を。
愕然としたリアムがヴィクトリアを見ている。唇が血の気を失っていた。言葉もなく首を振って、嫌だと、離れたくないと、全身で訴えている。
見開かれた目が、激しく震えているのが分かった。悲痛なほど眉間に力が入っている。
赤い綺麗な瞳が、絶望に染まる様。暗い澱みが重なり合って、一切の光を飲み込んでしまうような。どろついた闇を孕んで、切れ長の目尻がぐにゃりと歪むのだ。幼いヴィクトリアが心を奪われた、世界で一番美しい姿。
こんなにも、美しいのに。これまで見た中で、最も美しいはずなのに。
(胸がときめかないのは、何故なの)
ヴィクトリアの手が、震える。
「アイラ公爵とて、僕の命令に逆らうことはできない」
「いえ、いいえ。使用人の雇用は家長のみに権限がございます。わたくしとリアムが交わした血の契約も、父の許可を得たもの。契約内容にも違法はございません。たとえ王族とて、法に反していない主従契約を破棄させるなど、越権行為ですわ」
「そんなもの、君がそう言っているだけだろう?」
言葉が通じない。常識が違っている。
「ヴィクトリア、まさか王子たる僕の命令が聞けないとでも?」
ここにいるのが、ヴィクトリアでなく父だったなら。アイラ公爵がここにいれば、一笑に付してくれるだろうに。
アイラ公爵家唯一の子供とはいえ、ただの公爵令嬢であるヴィクトリアに、取れる手段は限られている。
「王子であろうと許されない、という話を……」
「ギル君に逆らってまで、リアム君を縛り付けたいの? ヴィクトリア様って本当に……、噂通りで冷酷な人!」
自分の行いが正義だと信じ切っている顔で、ポーラが言い放った。
ヴィクトリアは取り繕うこともできず、ポーラを睨みつける。
「リアムはわたくしの従者。お互いにそれを望み、そして今ここにいるの。何も知らないあなたに、勝手なことを言われたくはないわ!」
「自分に都合が悪いと、そうやって怒るんですよね」
何を言っても理解されない。まるで別の言語を話しているかのようだ。
「悪あがきもほどほどにしてくれ、ヴィクトリア。僕は君に、どれだけ失望させられたらいいんだ」
すぐ傍でユージェニーが拳を握る。だが、彼女に何かを言わせてはいけない。伯爵令嬢であるユージェニーが、直接王子に反論などしたら、今のギルバートならすぐさま罰を与えるだろう。
「誰に何と言われようと、リアムはわたくしのもの。そして、アイラ公爵家のものですわ」
「……ヴィクトリア、僕だって手荒な真似はしたくないんだよ」
ギルバートはそう囁いて、視線を背後に流した。体格の良い男子生徒たちが並んでいる。
それが何を意味するか。ぞっとして、足の力が抜けた。
すとん、と椅子に逆戻りしたヴィクトリアの前に、リアムが飛び出す。
「分かりました!」
「リアム……?」
「ギルバート第三王子の従者になります。契約も、交わします。ですから、ヴィクトリアお嬢様には手を出さないでください!」
文字通り身を投げ出して、リアムはそう願った。全身がガタガタと震えている。
彼は優秀な従者で、護衛だった。いつも。
いざという時には自分を犠牲にしてヴィクトリアを守るのだと、それがリアムの誓いで、使命だと。
ヴィクトリアはそんなことを望まないと、分かっているのに。
「……いや」
か細い悲鳴がヴィクトリアの口から零れ落ちたが、誰もそれを聞いてはいなかった。
ギルバートは満面の笑みを浮かべて、身を屈め、リアムの肩を叩いた。
「魔法で彼に忠誠を誓わせていて良かったね、ヴィクトリア。ここは彼に免じて引いてあげよう。さあリアム、行こうか。すぐにその契約を剥がしてあげるよ」
立ち上がったリアムは、一度だけ、真っ暗に澱んだ目でヴィクトリアを見た。お嬢様、と声にならない呟きを残して、ギルバートに向き直る。
その時にはもう、リアムの顔にはひとつの感情も浮かんではいなかった。
「良かったね、リアム君! これでもう自由だよ!」
ポーラが大喜びでリアムに寄り添い、ギルバートがその背を押してテラスを後にする。
「ああ、そうだ、忘れていた」
最後に振り向いたギルバートは、何でもないように言い残した。
「王都に植物園を作る計画だったそうだね。それ、僕の権限で止めておいたから。自分の楽しみのためだけに街を潰すなんて、許される訳がないからね」
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「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
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