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 ひとつ年上の兄、奈緒紀なおきを荷物もちに引きつれてスーパーへ出かけていたさとるは、帰ってきたマンションに足を踏みいれるなり、エントランスホールに女児がいることに気がついた。

 その後ろ姿だけで、――しかもお尻しか見えていなかったのだが――来客用の黒いソファーに乗りあがって、座面に置いている白いビニール袋に顔を突っこんでいる子が、我が家の三女、三才児の由那ゆなであることがわかる。

 彼女が突っこんでいる袋には近所の中華屋の名まえが書いてあるので、中身はテイクアウトの中華料理だろう。
 そしてそれは十中八九、その隣で書類を広げて電話に夢中になっているサラリーマンの買ってきたものに違いない。彼は自分のすぐ横で見ず知らずの幼児に、それを食い荒らされていることに気づいていないのだ。

(うん。見なかったことにしよう……)
 智はそっと視線をずらすと、両手にある重いスーパーの袋を持ち直して先を急ごうとした。しかし残念なことに、そのタイミングで男と、そしてすぐ智の後ろからエントランスにはいってきた奈緒紀が、それに気づいてしまったのだ。

「あーっ⁉ なんだ、こいつはっ!」
「あれ? ゆん⁉」
 男と奈緒紀が、同時に声をあげた。

「なんてことだ、先生の酢豚がぁぁっ」
「ちゃーん。おいちいのたべてるぅ」
 スマホを片手に絶叫する男の横で、たたずむ兄に気づいた由那が手を振ってくる。
(あぁ、バレてしまった……)
 智は心の中でがっくし首を落とした。奈緒紀がソファーまで歩いていく。
「あらあら、ゆんちゃん、お顔が中華餡でべちゃべちゃじゃん。はやく帰って洗おうな」

 彼も重たいスーパーの袋をふたつ提げていたが、由那を軽々と小脇に抱えると、
「ゆん回収」
 と、さらっと呟いてさっさと踵を返した。

「ちょっ、ちょっと君たち、待って、待って! 逃げないでよ! 君たちはその子の兄妹だろ?」
 逃亡失敗。スマートフォンをイスに放って腰をあげた男が、とっさに奈緒紀を腕を掴んでとめたのだ。

 さて兄はどうするつもりなのだろう、と智は兄のでかたを窺った。
 この場合、酢豚の代金だけ払えばいいのだろうか、それとも、たかだか酢豚なんかでこのあと事態が大きくなるのだろうかと、眉を顰める。
(まぁ、奈緒ちゃんに任せておけばいいか)

 大家族の上条家ではなにかあった場合、そのときそこにいる一番年長のものが責任をもつという決まりがある。今の場合、責任をもつのは智よりもいっこ年上の奈緒紀になるのだ。
 彼は金髪に耳にピアスだらけの見てくれだが、それでも一応高校生だ。中坊の自分なんかよりは相手に失礼がないと……、たぶん思う。

 だったらさっさと家に帰って、晩御飯の下準備にとりかかろう。宿題もしないといけないし片づけだってある。忙しい智としては、こんなところでのんびり時間を使ってなんていられなかった。

「奈緒ちゃん、荷物貸して。俺、運んでおくから」
「重いぞ? いけるか?」
「うん。でもゆんはお願いね」

 智が奈緒紀の荷物も引き受けて住戸のあるほうへ足を向けようとしたとき、ちょうどエントランスと棟を隔てる自動扉が開いた。

「あーっ! ゆん、ここにいたのかっ。ってか、なんだその顔はっ⁉」
 慌てて駆け寄ってきたのは、奈緒紀よりもさらにひとつうえの兄、上条家次男の良和よしかずだ。

「よっしー、なにやってんだよ? ちゃんとゆん見ててくんなきゃ。こんなにかわいいのに誘拐されたらどうするよ?」
 奈緒紀が眉尻を垂らした困り顔をつくって兄を責めると、良和が大げさに首を横に振った。
「無理だ! こいつだけは無理!」
「奈緒ちゃん、ゆんは奈緒ちゃんじゃないと……。良和にいちゃんの手には余るよ」

 由那は規格外な腕白わんぱく幼児で、今だって顔をティッシュで拭ってやっている奈緒紀の腕のなかで大暴れしている。奈緒紀が良和を責めるのに、さすがにこの次兄ではゆんの相手は無理だろうと思って、智は助けてやる。

「……おーい。もしもし?」
「んじゃあ、よっしー、雑巾持ってきてここ掃除しておいてよ。ここに置いてあった食べ物で、ゆんが床とソファー汚しちゃったんだよ」
 良和が黒いソファーに散らかった中華の残骸を見て「うへえっ」と顔を歪めた。
「そんなもん食ってこいつ腹壊したりしないの? だれだ、こんなところに食いもん放置してたヤツは?」
「そこのサラリーマンだよ。迷惑だよね、ほんとに。いいよ。俺がこのひと相手するから、よっしーは掃除のほうよろしく」

 そこの、と云って奈緒紀がサラリーマンに向かって顎をしゃくった。奈緒紀の腕を掴んでいた男の手は、暴れる由那を制しながら器用に彼女の顔を拭っていく奈緒紀の激しい動作のせいでいつのまにか離れていて、むなしくちゅうを掻いている。
「おぅ!」
 奈緒紀に掃除を云い使った良和はおそらく雑巾を取りにだろう、あっという間に家のほうに走っていってしまった。
「あっ、よっしー……」
 呼びとめてみたが、すでに遅かった。
 
(なんで、あの兄は手ぶらで帰って行くんだ? 俺の持っているこの大荷物が目にはいらないのだろうか? 半分手伝うとか、せめてゆんを連れて帰るとか……)
 次兄はあいかわらず気が利かない。智は心のなかでそっと溜息をついた。

 そうこう思っているうちに奈緒紀とサラリーマンの話が耳にはいってくる。
「め、迷惑だってぇ!? な、なにを云ってるんだ! ちょっと君ら云っていることがむちゃくちゃじゃないか⁉」
「なに? あんた、みすみすゆんに食べ物与えておいて、弁償しろとか云うわけ?」
「ぐっ」

 どうやら奈緒紀的にはこちらが被害者らしい。同じ兄でも、良和とは違ってこちらは気が利くうえに豪胆だ。きっ、と奈緒紀に睨まれたサラリーマンは、がくっと肩を落とした。
 一日も半ばを過ぎて皺がよってくたびれてしまったスーツが、男を不憫にみせる。

「奈緒ちゃん、ちょっと話を聞いてあげたら?」
「きみぃ。きみはちょっといい子だね」
 潤んだ瞳で顔をあげた男に、微妙な賛辞をいただいて、複雑な気分になる。

「俺はここに住んでいる偉い先生に、先生お気にいりのお店の、お気にいりの酢豚をリクエストされたんだ。これがなければ彼を怒らせてしまうかもしれない。それで今度の仕事の依頼を断られでもしたら……。ううっ」
 たかが中華料理一食分を用意できなかったぐらいで、こんなに悲壮な思いをしなければならないだなんて……。おとなってたいへんだなと、智は我が身の将来を案じてしまう。たいして兄の奈緒紀は暢気なものだった。

「なんだ? じゃあもっかい買ってくりゃいいだけじゃんか?」
「奈緒ちゃん、この店、二時半ラストオーダーで三時にいったん店閉めるんだよ。夜の営業はね五時半から」
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