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 朝から浅草へ巡回にでて、午後には荻窪にある木本の事務所で詰めていた。そしてやっといま、今日最後の顧客である近所の神社から帰ってきた篠山は、ネクタイの結び目に指を突っこむと、手荒にひっぱって首もとを緩めた。
 
 バサッとソファーに腰を落とすと、ジャケットの胸のポケットからたばこのケースを取りだし、一本咥える。テーブルのうえに転がしていたジッポで、火をつけると深く煙を吸いこんだ。快楽物質が五臓六腑に沁みこんでくる。
 篠山は今週にはいってから、連日寝る間も惜しんで働いていた。
「あー疲れた。ちょっと引き受けすぎたか……?」 
 顧客先には相手の営業時間が終わるまでに連絡をつけたり訪問しないといけない。だから準備は前もって万端にしておかなければならないのだ。とするとおのずと昼休みも退勤後も、プライベート返上で仕事することになってしまう。

 こんな無茶な働きかたも、自宅を職場にしているからできることだった。制限のある貸しビルに事務所を設けていたら、こうはいかなかっただろう。
 こういうとき確かに自宅事務所は便利ではあったが、しかし仕事の量に際限がつけがたくなってしまって、褒められたものではない。
 うっかり仕事を引き受けすぎて、これで身体をやられたり、疲れから集中力を欠いて大きなポカでもやらかそうものなら、目もあてられないのだ。

 そもそもこの時期が忙しいのは例年のことだったが、そこに付けくわえ、今年は先日入院した木本の社員の仕事まで、自分のところにまわってきている。現在、人手が足りていない木本会計事務所は、てんてこ舞いだ。
 入院した栗原は篠山より一回りうえの男性だが、彼の受けもつ顧客のいくつかが、篠山が木本で勤めていたときに担当していたところだった。

 それならば、と彼の代打として篠山にその白羽の矢がたったのだ。もともと木本から預かっていた仕事、プラスあらたに栗原の法人が四件。本来、実質末広と自分のふたりの事務では、過ぎた仕事の量だった。
 しかし木本の所長は、ここが時間に融通がつけられる自宅であり、プライベートをぎりぎりまで削ればなんとかなることをよくわかっていて、ごり押ししてきた。

(まぁ、所長にはずいぶん世話になっているし、あちらを思うと、実際にここに持って来るのが一番いいんだろう)
 それに篠山が栗原の顧客先を承知しているだとか、自宅を事務所にしているということだけではなく、ここには篠山よりも敏腕な、末広がいることも彼はちゃんと考えている。
 三度の飯よりも会計が好きと豪語する彼女は、末広すえひろ円佳まどか三十三歳独身。
 彼女はいざとなったら、ここに泊まりこんででも、助けてくれる。助けるというより、彼女の場合、仕事は娯楽の延長なのだが……。

 末広の仕事の腕前はとにかくすごい。どれだけ有能かというと、彼女の協力があってこそ篠山は若いうちに独立に踏み切れているし、いままで順調にやってこられているのだ。
 独立してはや三年、篠山はもともとの顔の広さと、木本のところの手伝いでそこそこの顧客数があった。いまはその数を順調に増やしていっている。

 しかしこれからさき、世間にどんどんとお手軽な会計ソフトも普及していき、ネット世代が充満してくるとなると、この仕事はいつまでも安泰とはいいきれない。
 篠山はここで踏ん張って、信頼や紹介による顧客数をいっきに増やすつもりでいた。
 そして自分と末広のサポートをさせている遼太郎にも、彼が資格を取りしだいにすぐに担当をつけてやりたいと考えている。 
「それにしても、疲れた……」
 はぁーっと、肺の奥底から紫煙を吐きだす。倦怠感が半端ない。

 篠山はここ数日、毎日のように栗原が担当していた顧客のところへ挨拶がてらの巡回をつづけていた。二、三年ぶりに顔をあわせる相手とは話に花が咲いたりして、ついつい先方に長居しがちになってしまう。楽しくはあるが、それでまた時間を費やすことには難儀していた。せめてもの救いは、木本と自分の仲介に、近藤が動いてくれていることだ。
 これがほかの、――とくにそれがかつての上司だったのなら、帰りがけに酒でもどうかと誘われても断ることもできず、いくらかの時間を無駄にしていたと思う。しかし気心が知れている近藤相手になら、たとえ誘われても「今日はやめとく」のひとことで、すませることができた。
 近藤は書類などの受け渡しに、わざわざこちらに出向いてくれることもあった。彼も忙しいのだろうに、本当に親切だ。

 それに篠山を助けてくれているのは、なにも近藤だけではない。この時期になると毎年のことだが、春臣がちょくちょく家のことをしに通ってくれるのだ。
 食事の用意や、洗濯物を取りこんでアイロンをあててくれたりと、とても甲斐甲斐しい。そんな彼にはもう、感謝のいきを通りこして拝み倒したいくらいであった。
 ところがだ。ここ二週間ほどずっと春臣と行動をともにしているはずの神野がまったく顔を見せなくなっていた。春臣からは神野が元気にしていることは聞いていたが、それでも彼のことが気になって落着かない。



 
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