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「私はちょっと鈍いみたいで、ずっと春臣くんと篠山さんがおつきあいをしていると思っていて……」
「そりゃ違うだろ?」
「はい。違ったんです。で、いらない遠慮をしてしまって、結果的に篠山さんのお手伝いがきちんとできなかったり、春臣くんを煩わせてしまったんです」
 なによりも自分自身が精神的に打撃を受けていたのだが、それは彼には云わないでおく。

「…………少しのあいだだけ、つきあったことがある」
「遼太郎さんと篠山さん、このあいだこの家の中でセックスしていましたよね? だったら現在も恋人関係なんじゃないんですか?」
 答えが過去形であったことに疑問を持ち、追及してみる。遼太郎は鉛筆を動かすのに忙しそうだ。それでもじっと見つめていると、彼はちゃんと答えてくれた。

「二、三年? つきあったのはほんとそれだけ。いまはもうあのひととはなんの関係もないから」
「でも――」
「このあいだのは、たまたまだよ」
「……遼太郎さんは、篠山さんのことが好きですか?」
 鼓動はどんどんはやくなっていくのに、不思議なことに質問は淡々とできた。いっぽう頭の中では、それを訊いていったいなにになるのだろうか、と自分に問いかけている。自分には全く関係ないことなのに、と。

 もしもこのタイミングで遼太郎に「なんでそういうことを訊くの?」と、さっきとおなじセリフを云われでもしたら、今度は返す言葉がなかっただろう。なんの心の準備のないままの質問は、発した神野にさえその意図が分からないのだから。彼の答え次第で自分がどういう気持ちになるのか、その予測すらもしていない。
手をとめた遼太郎が、やっと顔をあげてくれる。

「別にそんなんじゃないよ。お互いそんな本気じゃなかったし」
 その言葉が本心からのものなのか、神野は真偽を見極めようと彼の濡れたように光る黒い瞳をじっと見た。
「……その時は一瞬だけ、あいつのこと好きかもとか思ったけど。そうでもないって、すぐに気づいた。本当にそういう、雰囲気とか、まったくなかったから」
(そんなのは嘘だ。だって抱きあっていたふたりは、とても親密で。そこにはちゃんと……)

 そこで神野は二三度瞬いた遼太郎の、瞳を縁どる睫毛が意外に多いことに気づく。
今更だがよくよくみると、彼は男にしてはきれいな顔立ちをしていた。これなら同性から好意をよせられたとしてもおかしい話ではない。
 きっと篠山は遼太郎の性格や能力だけでなく、彼のこのきれいな容姿にも魅かれたのではないだろうか。
 だから彼は――と、神野がなにかしらの答えに行きあたろうとしたとき、遼太郎が口にしたつぎのセリフで、それはたちどころに霧散してしまった。そしてそれがふたたび神野の胸に起こされるのは、またしばらくさきのことになる。

「俺いま別にちゃんとした彼氏がいるから、もう匡彦とは寝ることないよ。だいたいあのひとにも、俺なんかじゃなくて、ほかに本命がいるんだし」
「えっ?」
「近藤さんっていって、匡彦さんが独立するまえにいた職場の同僚」
 不意打ちで聞いた本命という言葉と、つづいた近藤の名まえに、頭の中が真っ白になった。
遼太郎は話にはさほど興味がないようで、そっけない口調で教えてくれたあとはさっさとクロッキー帳に意識を戻してしまう。だから彼は神野の動揺には気づきもしなかっただろう。神野はそれまでの勢いをすっかり潜め、口を閉ざした。

(近藤さん? って、あの?)
 大阪のホテルで目が覚めたときに、部屋にいた男。自分に暖かいコーヒーを手渡してくれ、やさしい声をかけてくれた……。
 ――騙されたと思ってアイツを頼ってみ。
 ――俺の云うこと信じてみてほしい。
 遼太郎の口からでた意外な人物の名まえに、記憶の中にあった男の穏やかな微笑みとやわらかい声が蘇る。

 ソファーに座る遼太郎が膝のうえからクロッキー帳をおろして、手を添えた首をくるりとまわす。やっと面倒な質問から解放されて「ふぅ」と息を吐いていたが、神野がそれに気づくことはない。
「祐樹、コーヒー飲む?」
 ざわつく心を鎮めようと呼吸に集中していた神野は、唇を咬んで俯き、抓みあげたイヤホンヘッドを無意識に転がしていた。

 遼太郎がキッチンに移動したのとおなじタイミングで、ガチャリとドアノブが鳴り、フロストガラスのはめこまれた扉が開く。
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