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本章

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「うぅぅぅ……」
 
 痛い。
 柊が「大丈夫?」と心配そうに覗き込む。
 
 ハルさんがその場で取り急ぎ診察をしてくれた。
 手首を持ち、「これは?」と、軽くひねる。

「痛いですけど、大丈夫です」

「痛い時点で大丈夫という答えは無いんだ。我慢はしないように。じゃあ、これは?」

「あいっ……! たぁ……」
 逆方向にひねられたら、激痛が走った。

「この場では何とも言えないが、腱鞘炎かもしれないな」
 ハルさんは言いながらテーピングで手首を固めてくれた。
 
「痛みは急に?」
 
「はい、いえ、元々少し違和感はあったけど痛みは無くて、疲労かなって思っていたのはありました。でも、さっきまで痛くは無かったので……」
 
「直近でひねったりぶつけたりとかは無いのだよな? 家でも練習してる?」
 
「はい、少しですけど。ガンザ振ったり、練習パッドで叩いたりはしていました」
 
「どれくらいやってる?」
 
「ええと、基本的には毎日で、バイトやエンサイオが無い日は五時間とか……」
 
「そんなにやってたの⁉︎」
 祷が珍しく驚いたような声を出した。

「どおりで随分上手くなってンなとは思ったが……」
 キョウさんは少し呆れたように言う。
 
「なるほど、単純に酷使しすぎだろうな。熱中するのは悪いことじゃないが、何をするにも身体が資本で基本だぞ」
 ハルさんが仕方ないなというような顔をしつつも、声は少し厳しい。医者としての言葉だろうと思った。
 
「だって、他にやることないし、楽器って毎日やらないとだめだってなにかで聞いて……」
 みんな心配そうに同情してくれたり、心配してるが故に厳しかったり呆れたりした様子で、一層いたたまれなくなり、つい情けない言い訳のようなことを言ってしまった。

 
「そりゃー、練習するに越したこたぁねーけどヨ……」
 キョウさんは渋い顔をしている。

「がんちゃんよ。その心意気は素晴らしい。楽器は一日練習しなければ自分にわかり、二日練習しなければ評論家にわかり、三日練習しなければ聴衆にわかると言われている。だが、この言葉を言ったピアニストは、練習は一日三時間までにし、疲れたら都度休むようにとも説いている」
 ハルさんは厳しさを超えて、諭すような感じだ。
 
「……はい、すみません」
 もはやそれ以外の言葉がない。
 
「他にやること無いって、勉強は?」
 祷も少し呆れている。
 
「一応してる……」
 声がどんどん小さくなる。
 責められているわけではないのだろうが、次々質問され、それに答えるたびに、己の浅はかさ、愚かさを突きつけられるように感じた。

「テレビ観たりとか、息抜きも大事だよ」
 にーなさんは困ったような笑顔で、慰めるように言った。
 
「観ながらやってる……」
 いざ口に出して言ってみると、我がことながらなかなかにどうかしてると思う。
 
「やっぱり、メリハリだよな」
 ハルさんのおっしゃる通り過ぎて言い訳の言葉も出ない。
 
「はい、すみません……」
 なので、とにかく謝った。声が消え入りそうなのが情け無い。
 
「謝る必要はねーけどヨ、これを機に適切な練習量ってのも考えてかなきゃなんねぇな。いや、わりぃ、オレがその辺もしっかり伝えとくべきだった。すまなかった」

「そーよ! どうなってんのよ!
がんちゃんを預かってるって自覚あんの⁉︎
こんなことになるならわたしが奪ってでもがんちゃんのノペ師匠になっとくべきだったぁ」

 にーなさんがわりとメチャクチャなことを言っていたが、「すまん、面目ない」なんて、キョウさんが珍しく弱腰になっているものだから、わたしは尚申し訳なく思ってしまう。
 
「ご、ごめんなさい、わたしが考えなく練習しちゃってたのが悪いんだからキョウさんは悪くないです」
 
「仲睦まじいのは結構だが、医者の立場としても代表の立場としても無理はさせられない。仮に小さな違和感であったとしても甘く見てはいけない。まして明確に痛みを感じたならそれは異常を示す身体が発したシグナルなのだから、正常に戻すまで練習は控えてもらうしかないだろう」


 なにやら悔しそうにしているにーなさんを押さえつけ、ハルさんは冷静な判断をわたしに突きつけた。
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