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本章

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 今しかできないこと。
 言葉の意味だけで捉えれば、今というタイミングを限定されているようなものは無い。

 でも、確定していない今以降の未来に、何の保証もないのだとしたら、今できること、すべきことを後回しにして、いざそのときにできなくなってしまうことはあり得る。


 わたしはさっき、練習場で、祷の登場に動揺し、祷の言葉に混乱し、感情が昂るがままに任せて、大切にしようとしたスルドを放って飛び出してきた。

 途方に暮れて歩いていたとき、わたしは投げやりになっていた。やっと見つけたと思っていた場所、夢中になれると思いはじめていたものを、自ら放り出そうとしていた。
 もうどうでも良いと。どうせ祷に取られちゃうと。


 今、すべきことはなんだろうか。


 感情のまま全てを投げ出すことではないだろう。
 思えば、わたしの家族に対しての在り方は、放棄や投げ出す種類のものだ。向かい合い受け止め合うものではない。

 キョウさんは、相手がいるうちに、機会があるうちに、できたことをしなかったことについての後悔を語ってくれた。
 キョウさんはもうできないそれが、わたしにはまだできるのだ。

 それはわかる。わかるけど。


 やっぱりイヤだ。
 十年以上に亘って刻まれた、姉には敵わないという思いは理屈で消せるものではない。
 学校から逃れ、家から逃れ、やっと辿り着いた趣味の場で、またその思いを抱え続けなければならないの?

 逃げるのがダメなのだ。わかる。
 向かい合う機会があるうちにすべきなのだ。わかる。

 だけど、できない。どうしたら良いのかわからない。
 祷は優しくて妹想いで良い姉だ。
 だから、わたしだけに問題があるのだ。
 だから、わたしがどうにかならなくてはいけないのだ。

 でも、何をどうすれば良いのかがわからない。


 後悔を抱えたキョウさんは、それでも今できることをしようと思ったと言う。
 かつて放り出したバンドのメンバーに頭を下げて周ったらしい。
 既にそれぞれ別の道で生きている、もう連絡も取り合わなくなっていたメンバーを探し出したキョウさんは赦しを求めず、ただ、詫びた。
 紆余曲折はあっただろう。簡単なことではなかっただろう。赦す側にとっても、赦される側にとっても。
 それでも、結果的にはバンドのメンバーはキョウさんを赦した。今ではバンドを再結成してたまにライブもしているそうだ。
 もちろん、お互い忙しい日々の合間を縫って、スタジオで練習する日も設けている。


 どうすれば良いかわからないなどと言っているうちは、まだ真摯さが足りないのかもしれない。
 できることを、とにかくすることが大事なのかも。

 なら、祷と話す?

 きっとわたしの思いを理解して、配慮してくれる。
 わたしの近くに居ないようにしてくれるかもしれない。

 でも、これだと全然向かい合ったことになってない。


 わたしが少しだけ無理して、同じ趣味を楽しむ?


 なんで、無理しなきゃならないのって思いは、多分残る。わたしが子どもすぎるのだ。意固地になっているのだ。全部わたしが悪い。
 わたしさえ、もっと祷みたいに性格が良くて大人だったなら......。


 少し引いた涙が満ちたように溢れてくる。
 情けなくて悔しくて止まらない。

 どうしてわたしってこうなのだ。

 感情ひとつコントロールもできやしない。
 祷なら絶対こんなことにはならない。

「うううぅぅぅ......」

 イヤだっ......泣きたくないのに、声なんて出したくないのに、我慢しようとすればするほどあふれてこぼれる。

「すっかり夜になっちまったナ」

 キョウさんが立ち上がり、ひとふたり分の距離を詰めた。
 立ったまま、遠くの海を眺めたまま、俯き泣いているわたしの頭に手を置く。
 大きくて、暖かい手だ。

「とりあえずヨ、まずは我慢なんてしねーことだ」

 どうせ周りには誰もいない。
 辺りは暗くなってきた。
 波の音は大きくなってきた。

 思いっきり泣くにゃ良い環境だろ? と、頭をくしゃくしゃとしてくれたキョウさんに言われるがまま、わたしは思いっきり泣いた。





 最近泣くことが増えた気がする。

 子どもの頃以来、ほとんど泣いたことなんてなかったのに。
『ソルエス』に入ってからだと思う。

 前にハルさんが言っていた。
 さっきのキョウさんの話でもあった。
 サンバは、感情の発露だと。

 顔や言葉では感情を出している認識はなかったが、スルドを叩くたびに、きっとわたしの感情は刺激されていたのだ。
 それが、わたしを今感情的にしている。


 わたしにとって、サンバは、スルドは、もうわたしの感情と結びついていて、簡単には剥がせない、離したくないものになっていた。

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