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本章

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 あったはずの夢が、未来が、突如閉じてしまうことは、どんなに口惜しかっただろうか。
 迫る死は、どんなに恐ろしかっただろうか。
 生きられるはずの身体から、命を強制的に止められてしまうことは、どんなに苦しかっただろうか。



 娘の味わった絶望を、オレは一欠片さえ感じることができない。




 苦労を超えてここまで来て、これから輝かしい未来へ向かおうとしていた娘を、意味も理由もなく突として喪った母親。

 その瞬間まで、笑い合えていた友を喪った仲間達。
 輝かしい日々の思い出の一ページになるはずの日が、その後の人生で不意に、または節目に、都度、寂寥と悔恨の情を呼び起こす澱となってしまった。



 娘の周りにいた、娘に関わってきた人々。
 に混じって、娘と関わらなかった、関わることを後ろ倒しにしてしまったオレが、どのツラを下げてその場にいられる?

 娘と関わっていない、その機会を自ら手放した、俺には悲しむ権利も悔やむ権利もない。いや、娘に関する一切の権利がないのだ。



 元妻が、儀式の日取りの連絡のため、久しぶりに掛けてきた電話に、キョウさんはそのように言って出席を辞退した。
 電話は無言で切られた。



 その数時間後、キョウさんの家のドアが激しく叩かれた。
 数時間も放心していたキョウさんは、その音でわずかに我に戻った。
 虚ろな目と朦朧とした頭で、よたよたと扉を開けると、瞬間何かが弾けるような音がした。
 感覚が遅れて届いた。左の頬に熱が、そして痛みがキョウさんの朦朧とした頭を覚醒させた瞬間、右の頬に同じ衝撃が与えられ、ほとんど時差なく再度左の頬にも衝撃が加えられた。

 続けて胸ぐらを掴まれ、そのまま玄関に押し倒されるキョウさん。

「ふざけんなよ‼︎」

 後ろ手で扉を閉めたそのひとの顔は、暗い玄関では影になっていても、激しい怒りの相がありありと現れていた。その目には、涙が湛えられていた。
 組み倒されたキョウさんの顔に、雫が落ちた。

 キョウさんは、かつての妻を、かつての呼び方で呼んでいた。


「知らないから権利がないっていうなら、教えてやるよ!」


 キョウさんを押し倒したまま、そのひとは娘のことを語った。


 娘とのこれまでの生活のこと。

 娘が大切に抱えていた夢のこと。

 血は争えないなと笑い合ったこと。



 子どもの頃はトマトが食べられなかった娘。

 今はおやつのようにトマトを食べるくらいトマト好きになった娘。

 陸上部に情熱を燃やしていた娘。

 怪我で大会に出られず、そのまま引退し、一日中泣いていた娘。

 自主トレの時も勉強の時も、そして部活を引退した後も、ずっと音楽に励まされていた娘。

 音楽の業界に憧れを持った娘。

 試験勉強を頑張っていた娘。

 志望する大学に合格し、抱き合って喜んだ娘。

 就活前の最後の夏を思いっきり楽しむんだと笑っていた娘。

 一緒に遊ぶメンバーの中に、想っているひとがいた娘。

 張り切って水着を選んでいた娘。


 その全ては失われてしまったけれど、それは確かに在った。
 娘は、この世界で、その最期のときまで、懸命に、輝きを放ち、生きていた。


「あの子のことを、これだけ知ったんだ!
もう、資格がないなんて言わせないから!」


 キョウさんの元妻は、倒されているままのキョウさんの胸で、泣いた。


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