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【幕間】 マレ序章 〜湖のひと〜
しおりを挟む(色部 誉)
わたしは、まだ何も失ったわけではない。
けれどそれは、確定のボタンを押していないだけだから? 結論を先延ばしにしているだけだから?
以前祖母に将棋を教えてもらったことがある。
王様の駒が取られたら負けのゲームで、どこをどうしても王様が取られてしまう状態に陥ることを「詰み」という。
何手も先を読むゲームで、やがて「詰む」ことが見えた段階で、負けを認めることを「投了」と言うのだそうだ。
以前母が株取引で「塩漬け」という言葉を使っていた。
買った株が値下がりし、損している状態なのだが、売って現金化するまでは損失が確定したわけではない。上がる見込みが薄くても、決済せずに証券のまま持ち続けることを「塩漬け」と言うらしい。
わたしの今の状態は、あるいは気持ちは、それらに近いイメージだと思えた。
少し突っ込んだ話をするなら、「塩漬け」は株の売買を生業とする人の中には明確に「悪手」と評する人もいるそうだ。
株式は日々値段が上がったり下がったりする。
買った値段より下がっていれば損をすることになる。資産価値という面ではその段階でも損失なのだろうけど、その株式を現金化したときに、手元に残った現金と購入額との差額が実際の損金となる。
つまり、現金化しなければ理論上の損ではあっても、損失は確定していない。
だけど、上がる見込みのない株式を持ち続け、額面上の損金をいつまでも「確定はしていないので損ではない」と言い張っていても、自分を慰めているだけではないだろうか。
損切りをして手元に目減りしたとしても現金を戻し、その現金で新たに投資をした方が、活きたお金の使い方、言い方を変えれば、機会の創出に繋がるのだ。
また、「詰み」が見えているのに頑なに「投了」する棋士も、プロの世界では見苦しいとみる向きもあると聞いたことがある。
プロとは、その生き様まで含めての在り方を問われる。
何をしてでも勝ちにしがみつき、負けなければ良いというわけではないという価値観もある。
では、わたしは上がる見込みのない株式を「塩漬け」にして損を見ないようにしているのだろうか。
詰んだ盤面を苦虫を噛み潰したように睨みながらも、頑なに「投了」の言葉を拒んでいるのだろうか。
わたしは現実から。
すでに決まってしまっている現実から。
目を、逸らしているのだろうか。
断じて否だと言いたい。
それは希望的観測ではない。
楽観的な見立てでもない。
損切りするにはまだ相場の動向を見極められないからだ。
投了の言葉を発しないのは、軽々に詰んだと判断できるほどに盤面を読み切れていないからだ。
わたしは幼い頃に芽生えた夢を。
夢に向かってひた走った日々を。
夢中になって取り組んだ楽しさも、段階を超えるたびに得られた快感も、栄光を掴んだ喜びも。
そして、それらを得るために選ばなかったものたちでさえも。
わたしの在り方を構成する大切なわたしそのもの。その何ひとつ、まだ諦めたわけではない。
盤面には、まだわたしには見えていないだけの、活路がきっとあるはずだ。
諦めなければ、負けてはいない、失ってはいない。まだわたしは戦える。
そのために戻ってきたのだから。
だけど、ほんの少しだけ。
少しだけで良いので、身体を預ける宿木が欲しかった。
澱のように溜まり積もっていく疲労も、無数の細かい傷も、癒えるまで寄りかかっていられるような。
スマホの画面の、通知に気が付いた。
すぐに開いてみる。
藤棚の前で振り向き微笑んでいる画像のアイコンに、未読のメッセージ数を表す表示が掲示されていた。
メッセージを開く。
会いたい人からの、都合を知らせるメッセージに、わたしは即返信を打った。
がっつき過ぎて引かれたら嫌だなと頭ではわかっていても、止められないのだから仕方がない。そんなことで嫌になる人でないことはわかっているし。
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