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第十一章:「苦闘編」

第三十五話「崩壊の序章」

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 統一暦一二〇八年十二月四日。
 リヒトロット皇国中部、ダーボルナ城内。ヴェルナー・レーヴェンガルト騎士長

 驚くべき情報が入ってきた。
 
「皇王陛下が密かに皇宮を脱出し、ナブリュックに向かったらしい」

 伝えてきたのはダーボルナ城の城代、アントン・クルツ男爵だ。
 クルツ男爵は今年四十歳になる平凡な容姿の男で、これまで軍事的な功績はなく、ネッセローデ公爵家の三男という家柄のお陰で、この重要な拠点の責任者となっていた。

 そのため、ここを守るために強引に義勇兵一万とダーボルナ城防衛の指揮権を得たが、ここで彼と話をしてマイヘルベック将軍やクノールシャイト宰相とは異なり、愛国心を持っていることに気づいた。

 そのため、私の方からここを守るために協力してほしいと要請し、今では盟友と言えるほどの関係になっている。

「陛下が脱出? このタイミングで? それは本当のことなんですか!」

「間違いないようだ。実家から密かに情報が来て、自分たちも皇都を脱出するからダーボルナ城を死守しろと命じてきたのだ」

 アントン殿は苦々しい表情で吐き捨てるように言い放つ。
 私も同じ思いだ。

 水軍のパルマー提督が暗殺され、水軍の一部が敗北したが、それ以前と状況は大きく変わっておらず、このまま持久戦を続ければ、水運を確保し、拠点に篭る我が軍の方が有利なのだ。

 このタイミングで拙速に逃げ出す必要はなく、更に上級貴族である公爵まで逃げ出そうとしていることに忸怩たる思いがある。

「その情報はどの程度広まっているのでしょうか?」

「詳しいことは分からんが、クノールシャイト宰相が喚き散らしているという話だから、少なくとも皇国政府の上層部は知っているようだ」

 クノールシャイト公爵が騒いでいるのは自分も一緒に逃げたかったからだろう。

「兵たちの動揺が心配ですね。特に私のところの義勇兵は皇都出身者ばかりですから」

「私のところも大して変わらんよ。皇都を明け渡すならダーボルナ城も当然明け渡すことになる。城兵のほとんどがこの辺りの出身だ。自分たちがどうなるのかと不安に思っても仕方があるまい」

 そんな話をしたが、我々にできることはこの城を守ることしかない。

 十二月六日、総司令官であるエマニュエル・マイヘルベック将軍から皇都へ帰還するよう命令が下された。

 理由は皇都の防衛を強化するというものだったが、皇都明け渡しで混乱しないよう義勇兵を解散することが目的であることは明らかだ。

 出発前、アントン殿に言葉を交わす。

「お世話になりました」

「こちらこそ君がいてくれたお陰で、この城を守り切れた。次に会えるのがいつか、そしてどのような形になるかは分からんが、それまで健勝でな」

 彼の言う通り、皇都を明け渡すとなると、我々皇国軍の指揮官がどのような扱いになるのか不安がある。

 特にダーボルナ城では帝国軍に大きなダメージを与えているから、私やアントン殿は捕縛される可能性は否定できない。
 そのため、帝国軍に捕縛され、処刑場で顔を合わせるという可能性も十分にある。

「再び、共に帝国軍と戦えると信じていますよ」

 そう言って握手を交わした後、私は一万の義勇兵と直属の一千名の歩兵を引き連れ、皇都リヒトロットに向かった。

■■■

 統一暦一二〇八年十二月六日。
 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、騎士団本部。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ

 御前会議から三週間ほど経った。
 リヒトロット皇国の状況は悪化の一途を辿っており、王国騎士団の一部を王都に引き揚げさせている。

 現在ヴェヒターミュンデに残っているのは、第三騎士団だけで、対岸の町フェアラートにも一個大隊が駐留しているだけだ。また、浮橋も撤去し、退却用のガレー船を待機させている。

 シュヴァーン河上流で後方撹乱作戦を行っていたラウシェンバッハ騎士団も同様に、リッタートゥルム城に帰還させた。その上で敵の斥候と伝令を排除する作戦は継続している。

 その結果、帝国に王国騎士団が撤退したことは知られていない。
 第二軍団も帝国中部のエーデルシュタイン経由でしか情報が入らない状況であり、警戒を強めたままリッタートゥルム城の対岸に陣取っている。


 本日、情報部から情報が入ってきた。
 情報部長のギュンター・フォン・クラウゼン男爵が総参謀長のユルゲン・フォン・オーレンドルフ伯爵らを前に、メモを見ながら報告する。

「まだ公にはなっていませんが、十二月一日に皇王が皇都から脱出したようです。同行者は数名の側近のみで、皇妃や皇子たちも残されていたようです」

 その報告にオーレンドルフ伯爵が訝しげな声を上げる。

「まだ帝国と皇都明け渡しの合意がなされたとは聞いていないが、この状況で皇王が単独で逃げ出したのか? 信じられん」

 伯爵の言葉に私たちも頷く。

「宰相がどうしているか、情報はありますか?」

 妻のイリスが発言する。
 今日は週に一度の休日であり、彼女の意見が聞きたいため、参謀本部に一緒に来てもらったのだ。

 これは今回が初めてではなく、王都に戻ってきてから始めている。
 リッタートゥルムで後方撹乱作戦の指揮を執ったが、その際に相談する相手が少なく、苦労したためだ。オーレンドルフ伯爵も彼女を高く評価しており、問題なく認められている。

「宰相のクノールシャイト公爵は皇都に残っているようです。但し、皇王が脱出することを聞いていなかったようで、ずいぶん荒れているようですが」

 アドルフ・クノールシャイト公爵は撤退派であり、真っ先に逃げ出すと考えられていた。それが皇王テオドール九世の方が脱出したことで、宰相として帝国との交渉に挑まねばならず、怒り狂っているという情報だ。

「情けないものね……それでこの情報はどの程度皇都内に広がっているのでしょうか?」

 イリスが呆れた表情を浮かべた後、質問する。

「翌日の二日時点では上層部のみです。ですが、皇国の情報管理はいい加減ですから、脱出から数日以内に皇都内に広がることは間違いありません。ですので、現時点では既に皇都で知られているはずです。また、皇王の脱出は帝国の諜報局が手引きしたのではないかと、現地の情報部員は考えております」

 その言葉に驚きを隠せない。

「ということは、皇王の周辺にまで諜報局の工作員が入り込んでいたということでしょうか? 工作員についてはシャッテンが入念に調べたと聞いていましたが」

 水軍のイルミン・パルマー提督が暗殺された後、情報分析室に属するシャッテン、アルノー・レーマーが皇国上層部の周辺にいる帝国の工作員がいないか探っている。

 当然、皇国のトップである皇王の周辺は入念に調べているはずで、抜け落ちていたことに驚いたのだ。

「工作員は排除していたようですが、それ以前に脱出の手配は終わっており、タイミングを図っていたようです。それで後手に回りました」

「そうですか……皇都は人員が限られていますから仕方がないでしょう。それよりも情報を入手してくださったことに感謝しています」

 正直な感想だ。
 帝国は諜報局の工作員を皇都に集中させたらしく、百人以上の工作員がいたらしい。そのうち、五十人ほどはパルマー提督暗殺事件の時に、情報部が協力して検挙させている。

 有能とは言えない皇国の司法当局がこれほど多くの工作員を検挙できたのは、王国情報部が協力したからだが、帝国諜報局がまだこういった工作に対するノウハウを確立していないことが大きい。

 工作員同士が縦だけでなく、横でも繋がっており、芋づる式に検挙できたのだ。
 私が作った叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの情報分析室も王国情報部も諜報員同士の繋がりは極力作らないようにしている。

 特に現地協力者とは王国関係者であることすら分からないように注意しているが、帝国はその点が徹底されておらず、王国情報部の陽動に簡単に引っかかっている。

「皇王が皇都から逃げたのなら、帝国軍が進駐するのも時間の問題だね。この後はどうするつもりかな?」

 オーレンドルフ伯爵が聞いてきた。

「計画通り、帝国軍に対する謀略を行います。既に現地のシャッテンには指示を出していますので、計画に従って動いているはずです」

 皇都リヒトロットには長距離通信の魔導具がなく、エーデルシュタインかヴィントムントから指示を出す必要があるが、どうしてもタイムラグが出てしまう。そのため、予め計画書を渡してあり、それに従って動くように指示してあった。

「帝国はどこまでを要求すると思うかね」

「ナブリュック市まで要求するでしょう。大規模な水軍基地は皇都の他にはナブリュックにしかありませんし、あそこを抑えればリヒトロット市までの水運の安全は確保できますので」

 ナブリュック市はリヒトロット市の西約二百キロメートルに位置する都市だ。リヒトロット皇国の大動脈グリューン河沿いにある港湾都市でもあり、ここを拠点にすれば皇国西部域への侵攻が容易になる。

「いずれにしてもこれからが正念場です。ここで謀略が上手くいかなければ、皇国は五年もしないうちに滅びることになるでしょう」

 私がそう言うとイリスも頷いている。

「時間がないのが問題だけど、帝国も予想していないでしょうから勝算はあるはず」

 その言葉に全員が頷いた。
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