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第九章:「暗闘編」

第九話「捕虜返還交渉:その一」

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 統一暦一二〇五年十月十八日。
 ゾルダート帝国帝都ヘルシャーホルスト、白狼宮。ミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵

 昨日、帝都ヘルシャーホルストに到着した。
 これまで王都シュヴェーレンブルクと領都マルクトホーフェン以外にほとんど行ったことがなく、当然外国は初めてだ。それも今回は友好国ではなく、敵国だ。

 皇宮である白狼宮に部屋を用意されたが、昨夜はよく眠れなかった。
 眠れなかったのは恐怖を感じたからではない。そもそも皇帝が私を害するとは全く考えていない。今回の交渉のことを考え、その重圧が睡眠を妨害したのだ。

 私はこの帝国との交渉で三つのことを成し遂げねばならない。
 一つ目は我が国の勝利を皇帝に認めさせ、賠償金を支払わせることだ。帝国はここ数十年間、これほどの大きな敗北をしたことがなく、素直に認めるか不安がある。

 二つ目は帝国軍をリヒトロット皇国から撤退させることだ。
 これについてはあまり心配していない。賠償金の交渉で向こうが切ってくるカードだからだ。

 三つめは私個人の功績を作らねばならないということだ。
 今回の我が国の大勝利に対し、私も侯爵家も全く関与していない。どちらかと言えば、騎士団の改革を妨害し、邪魔をしたと思われている。

 そのような状況で交渉に失敗し、軍が挙げた大勝利を無にすれば、グレーフェンベルクが大声で誹謗するだろうから、王国内での私の評判は地に落ちる。

 だから、あのやり手の皇帝を相手に、一歩も引かずに交渉をまとめたという評価が必要だ。そう考えると、これも難しそうで気が重くなる。

「そろそろ時間です」

 腹心であるエルンスト・フォン・ヴィージンガーがやや上ずった声で告げる。

「そうか。では行くとするか」

 部屋の外に出ると、帝国軍の騎士が十名ほど待っていた。
 威圧するつもりなのか、全員が金属鎧を身に纏い、白いマントを羽織っている。

「ご案内します」

 武器の携帯などの確認をされるかと思ったが、そのようなこともなく、私たち外交使節団五名を取り囲むようにして歩き始めた。

 このような対応をされることはヴィージンガーから事前に指摘されており、笑みすら浮かべられる余裕がある。

 このことからも分かるように、当初思っていたよりヴィージンガーが使えることが分かった。今回の交渉でも私の手助けをしてくれるだろうと期待している。

 宮殿の中をゆっくりと進んでいく。特に会話はなく、足音だけが響いている。
 白狼宮では大理石を多く使っており、神殿のような感じだが、外から見るよりみすぼらしい印象を受けた。

 理由は美術品などの調度品が極端に少なく、敷かれている絨毯も汚れてはいないが古いものであるためだ。質実剛健と言えるかもしれないが、想像以上に予算がないのだと考えていた。

 目的地には五分ほどで着いた。
 重厚な扉は磨き上げられており、それまで感じていたみすぼらしさを全く感じさせない。

「グライフトゥルム王国全権特使、ミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵殿です」

 騎士の一人が私の名を告げると、扉がゆっくりと開かれていく。

 中は三十人が一度に座れるほどの大きなテーブルがあり、頭には黄金の王冠を載せ、金糸をふんだんに使った豪華な軍服に朱色のマントを羽織った男が中央に座っていた。その左右には二人ずつ座っており、帝国側も五名で対応するらしい。

 中央の皇帝らしき人物の存在感が際立っているが、他の四人もただ者ではないと感じさせる。

「余がゾルダート帝国十一代皇帝、コルネリウス二世である」

 低いがよく通る声が謁見の間に響く。
 威圧してくるわけではないが、自然と滲み出る圧を感じた。気圧されないように注意しながら、こちらも名を名乗る。

「グライフトゥルム王国国王フォルクマーク十世陛下の名代、全権特使のミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵です。お見知りおきを」

「うむ。よく参られた。我が方の出席者だが、右から内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルト、軍務尚書のシルヴィオ・バルツァー……」

 この二人は皇帝の腹心として有名で、ヴィージンガーから皇帝に次いで注意すべき人物と聞いている。

「……第一軍団長のローデリヒ・マウラー……」

 マウラーは九年前のフェアラート会戦で我が国に勝利した帝国きっての名将だ。泰然とした雰囲気を醸し出しながら小さく黙礼する。
 そして、私と同世代の若い軍人が紹介された。

「……そして、余の顧問であるマクシミリアン・クルーガーだ」

 マクシミリアンと言われたところで、私以外の者たちが僅かに声を上げた。しかし、私は目を見開くだけで何とか耐える。まさか幽閉されていたマクシミリアン皇子が、この場に出てくるとは思っていなかったため、不意を突かれたのだ。

 数秒間、沈黙が支配したが、すぐに気を取り直して、こちら側の随行員を紹介した。
 それが終わったところで、皇帝が口を開く。

「余は社交辞令を好まぬ。すぐに交渉に入りたいが、どうだろうか?」

「それで構いません。では、こちらから返還の条件を提示いたしましょう。ヴィージンガー、説明せよ」

 私の言葉を受け、ヴィージンガーが立ち上がる。

「我が国の国境を越え、攻撃を加えてきた貴国の将兵一万七千四百二十名を捕らえております。無法者として処刑しても構わなかったのですが、我が国は最も古い歴史を誇る文明国です。無駄な血を流すことを避けるという人道的な配慮により、現在は王国内のある場所に収監しております。その解放条件ですが、こちらが提示する賠償金を受け取り、確認を行った後にヴェヒターミュンデ城の東、シュヴァーン河西岸で引き渡します……」

 ヴィージンガーは気圧されながらも手元の紙を見ることなく、皇帝の目を見ながら説明していく。

「……賠償金は一人当たり、兵士五万マルク、従士七万マルク、騎士十万マルク、上級騎士十五万マルク、騎士長二十万マルク、オラフ・リップマン将軍は五十万マルクです。総額は九億三千十九万マルクとなります。なお、通貨は組合ツンフトマルクとさせていただき、貴国の帝国マルクは受け取りを拒否させていただきます。また、引き渡しが来年の一月一日以降となる場合は、一人一日当たり百マルクを追加することとなります。我が国からの条件は以上となります」

 ヴィージンガーはしゃべり切ったことで安堵の表情を浮かべていた。安堵の表情を見せたことはいただけないが、皇帝の無言の威圧に対し、萎縮しなかったことは評価に値する。

「条件は金銭だけということでよいということか?」

 皇帝が確認してきた。
 帝国としては賠償金の要求はあると思っていただろうが、リヒトロット皇国からの撤退を条件が第一になると思っていただろう。

「その通りです」

 それ以上何も付け加えない。
 これもヴィージンガーから事前に言われていたことだ。

『こちらが圧倒的に有利な状況なのです。情報を与えなければ、相手は落としどころをどう探っていいのかと焦るはずです。そうやって心理的に追い詰めることで、更に優位になれます』

『さすがは兵学部の首席だ。だが、どこでそのようなことを覚えたのだ?』

『戦術の教本に書いてあったことの応用に過ぎません。ですので、今の兵学部を出た者なら、当然思いつくはずです』

 そう言いながらも得意げな表情を浮かべていた。

 そんなことを思い出したが、今は交渉に集中すべきと皇帝に視線を向ける。

「なるほど。我が忠勇なる兵士たちを買い取れということか……商人組合ヘンドラーツンフトがある国だけのことはあるな」

 皮肉を言ってくるが、私は表情を変えることなく返す。

「我が国であれば、即座に支払うでしょう。祖国のために命を賭けた勇敢なる兵士を金銭で救い出せるのですから。それとも貴国では兵士は使い捨てですかな?」

 私の揺さぶりに皇帝は自然体で答える。

「そのようなことはない。兵や民は金では買えぬ、我が国の宝なのだからな」

 それだけ言うと、マクシミリアン皇子に視線を向けた。

「マクシミリアンよ、お前に詳細は任せる。兵たち、民たちのことを考え、マルクトホーフェン侯爵殿と条件を詰めよ」

「御意」

 マクシミリアン皇子は頭を下げた。
 ここまでは私がリードしているが、相手はグレーフェンベルクが最も警戒している人物だ。気を引き締めねばならない。

「我らは初めて条件を聞いた。検討の時間をいただきたい」

「構いません。では、我らは一度引き揚げさせていただきましょう」

 気を引き締め直したところで肩透かしを食った形だが、我々が急ぐ必要はない。
 僅か二十分ほどで、第一回の交渉が終わった。
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