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第五章:「初陣編」
第三十六話「月夜の死闘:その五」
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統一暦一二〇三年八月十一日。
グライフトゥルム王国西部ヴェストエッケ、ヴェストエッケ城内。黒狼騎士団団長エーリッヒ・リートミュラー
ヴェストエッケ城内に突入後、敵の散発的な抵抗を排除しつつ城門に向かっている。
当初懸念していた兵舎の屋上からの狙撃は思ったより少なく、更に下で待ち構えている兵はほとんどいなかった。
敵は兵舎の窓から弩弓を使って、俺や隊長たちを狙撃してきたが、散発的な攻撃であったことと、先行する兵に兵舎の中を確認させるようにしたため、実害は出ていない。その分、時間は掛かっているが、そのお陰で後続が追い付き、二千名を超える兵が我が指揮下に入っていた。
城壁と兵舎の間は約二十メートル。この空間は投石器の腕が城壁に当たらないようにするためと、通常時はこの場で調練を行うためだと聞いている。
行軍するだけなら充分な広さだが、二千の兵が戦うには狭い。
そのため、三分の二ほどを迂回させることにした。
迂回といっても単純に兵舎の間を進ませると、無数にある罠に少なくない兵力を失ってしまう。
落とし穴や落石などの罠はもちろん、袋小路に誘い込まれて動けなくなったところに油を撒かれ、火を掛けられるというような狡猾なものまであるのだ。
無暗に兵舎の中に入ることは更に危険だ。
俺自身、若い頃に兵舎に突入したことがあったが、出口を塞がれた上で毒草を燃やされ、充満した毒煙で危うく命を落とすところだった。
また、罠を警戒し解除するだけでも時間が掛かる。つまり、通路や兵舎の中を移動することは進軍を遅らせるだけでメリットは少ないのだ。
そのため、今回は鉤付きのロープを使って屋上に登り、一部はそのまま城門に向かわせ、残りは兵舎の反対側にロープで降りてから進軍させることにした。
兵舎の上は弩弓を持った敵兵がいるが、盾があればそれほど脅威ではないし、兵舎を乗り越えていくとは敵も考えていないだろう。
こういったことをしていたため、思った以上に時間が掛かったが、一キロメートルもない距離であり、三十分ほどで城門が見えてきた。
城門の周囲には篝火や灯りの魔導具が煌々と照らしており、城門がある中央道路から東に五十メートルほどの場所に頑丈そうな柵があり、その後ろに待ち構えている敵兵の姿が見えた。更に兵舎の屋上には敵兵が溢れており、激戦になると直感する。
しかし、兵舎の反対側、すなわち城壁側には敵の姿はなかった。恐らくだが、黒鳳騎士団と激しく戦っており、城内にまで兵力を回す余裕がないのだろう。
防護柵から百メートルほどのところで直属部隊を停止させる。
「ここを突破すれば、ヴェストエッケは俺たちの物になる! 敵も死に物狂いで抵抗してくるだろうが、しょせん弱兵である義勇兵に過ぎん! 一気に決めるぞ!」
「「「オオ!!」」」
兵たちの雄叫びが城壁や兵舎の壁で反響し、全騎士団員がいるのではないかと錯覚に陥るほどだ。
「前進せよ!」
俺の命令で盾兵を先頭にゆっくりと前進する。兵舎の上をちらりと見ると、敵の弩弓兵は我々の方ではなく、屋上の東側を見ていた。別動隊が到着したようだ。
更に敵兵たちが騒ぎ始めた。
何を言っているのかは分からないが、落ち着きのない声で叫んでおり、どうやら兵舎の北側に回したもう一つの別動隊が迂回に成功したようだ。
「敵は動揺している! このまま進め!」
上からの攻撃がないため、そのまま前進する。
距離は五十メートルほど。
柵を突破するのは骨だが、これで勝利は揺らがないと笑みが零れた。
その直後、防護柵の向こうに現れた男を見て、思わず叫び声を上げる。
「ジーゲル! 貴様生きていたのか!」
ジーゲルが俺の言葉を受け、ニヤリと笑う。
俺は何度も死闘を繰り広げた宿敵の姿を見て怒りが爆発する。
■■■
統一暦一二〇三年八月十一日。
グライフトゥルム王国西部ヴェストエッケ、ヴェストエッケ城内城門付近。守備兵団将軍ハインツ・ハラルド・ジーゲル
我々の篝火が照らす中、黒狼騎士団がゆっくりと進んでくる。
表情までは見えないが、その歩みに乱れは全くなく、勝利を確信しているように思えた。
(ラウシェンバッハ殿がおらねば、奴らの自信も強ち間違いではないな。儂も今頃慌てておっただろうし……)
ラウシェンバッハ参謀長代理からはいくつかの策を授けられている。また、司令官室のグレーフェンベルク子爵とも通信の魔導具で常時連絡が取れる体制であるため、周囲の状況を気にする必要がなく、焦りは全くなかった。
敵が近づいてくると、黒狼騎士団の団長、エーリッヒ・リートミュラーの姿が目に入った。望遠鏡を使って表情を見ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべていることが分かる。
そして、その勝ち誇った顔が醜く歪むことを想像し、自然と笑みが浮かんできた。
ラウシェンバッハ殿に指示された通り、兵たちに身体を揺らすよう命じ、更に隊長たちに適当に叫ばせた。これで敵はこちらが動揺したと思うということだったが、リートミュラーの表情が更に緩んでおり、彼の目論見通りになっている。
そろそろ本格的に攻めてくるというタイミングで、儂はゆっくりと前に出ていく。ここまでくれば、リートミュラーにも儂の顔がはっきりと見えるだろう。
『ジーゲル! 貴様生きていたのか!』
予想通り驚愕の表情を浮かべており、顔が更に緩む。
「何を言っておる。貴様如きに殺されるほど、儂は耄碌しておらんぞ」
小馬鹿にしたような口調に、奴の表情が驚愕から憤怒に変わった。その変化に更に笑いが込み上げてくる。
『矢を受けて倒れたところは俺自身が見ているんだ! あり得ぬ!』
まだ信じられないようで喚き散らしている。
指揮官が怒り狂っていることで、敵兵に動揺が広がっていることがはっきりと分かった。
(指揮官は常に冷静でなければならない。指揮官が逆上すれば、それは部下に伝搬し、精強な兵であっても容易に烏合の衆に変わるからだ……ラウシェンバッハ殿が作った教本にある通りだな……)
そんなことを思い出したが、更に奴を怒り狂わせるための手を打つ。
「なかなかの演技であったであろう? 儂も王都の劇場で役者をやれるかもしれんの。まあ、服の中に仕込んだ豚の血が広がった時は気持ち悪いと思ったがの。ガハハハッ!」
『豚の血だと……あれは俺を騙すための演技だったというのか!』
「そうに決まっておろう。貴様が騙されたと聞いた時には笑いすぎて息ができなくなって、本当に死ぬかと思ったぞ! 笑い死にさせてくるとは、さすがは神狼騎士団の名将リートミュラーだと感心したほどだ!」
この言葉が引き金となり、リートミュラーは激高した。
『黙れ! 今度こそあの世に送ってやる! 攻め掛かれ!』
リートミュラーの命令に敵兵が一斉に前に出る。しかし、戦術も何もなく、真っ直ぐに向かってくるだけだ。
「弩弓兵、前に出よ!」
儂の命令で弩を構えた義勇兵三十名が前に出る。但し、柵まで二十メートルほど離れたところまでだ。
「射撃用意!」
弩弓兵たちは一斉に狙いを付ける。狙いは盾の下、膝辺りだ。
そして、儂の「放て!」という命令で三十本の太矢が放たれた。
敵兵の最前列の一部が太矢を受けて崩れる。しかし、それに歓喜の声を上げることなく、次の命令を発した。
「第二列用意!」
射撃を終えた弩弓兵が下がり、次の班と代わる。狭い場所だが、ぶつかる者はなく、すぐに第二列が弩を構えた。
「放て!」
再び敵兵が倒れていく。
『何をしている! 突撃して蹴散らしてしまえ! 敵は雑兵に過ぎんのだぞ!』
リートミュラーはまだ逆上しており、無理な突撃を命じた。それでも敵兵は躊躇うことなく、盾を構えた状態で身体強化を使って突進してきた。
「綱を引け!」
儂の命令で地面に埋めてあったロープが現れる。引っ張っている兵は兵舎の中に隠れており、地面から三十センチほどの高さでロープがピンと張られた。そのロープに、敵兵が足を取られて転倒し、後続の兵士も巻き込まれて倒れていく。
『止まれ! 前に進めないんだ!』
『押すな! 一旦止まってくれ!』
敵兵が叫んでいるが、儂は命令を発し続ける。
「第三列、放て!」
弩弓兵は後ろに下がると次の射撃の準備を行い、入れ替わりながら太矢を放っていく。
敵は大混乱に陥っているが、リートミュラーが冷静さを取り戻せば、すぐに立ち直ってしまうだろう。そうならないように更なる手を打つ。
「貴様は罠に嵌まったのだ! 後ろを見てみろ!」
その言葉でリートミュラーだけでなく、敵兵の多くが振り返った。
その視線の先には何もなく、その代わりに上から投石器用の大きな石が降り注いでいく。兵舎の上に配置した義勇兵がタイミングを見て投げ込んだのだ。
逆上しているリートミュラーは上に対する注意を怠ったのだ。
『騙したな!』
「愚かな狼を騙すことなど容易いということだな」
そう言って嘲笑すると、リートミュラーは更に逆上する。
『奴を殺せ! 突撃!』
そう言うと抜剣し、先頭に立って突撃してくる。
直属の精鋭と共に倒れ込む兵を一息に飛び越えてきた。弩弓の太矢を撃ち込むが、盾で防がれ、柵まで接近される。
『引き倒せ!』
リートミュラーがそう叫ぶと、直属の兵が柵にロープを何本も引っかけ、後ろに投げた。そして、黒狼騎士団の兵士たちがそのロープを引く。
柵に使っている丸太は直径二十センチほどで、地面に五十センチほど埋め込んであるが、簡単に引き倒されてしまった。
敵兵との距離は二十メートルほど。柵を引き倒される前に弩弓による斉射を行ったが、すぐに槍兵と入れ替えている。
「迎え撃て!」
儂の命令に兵たちが槍を前に突き出す。
『その程度の槍衾で止められると思うな!』
リートミュラーが吠え、敵兵と共に飛び込んでくる。
何の策もなければ、奴の言う通りだが、こちらにはラウシェンバッハ殿が用意した秘策があった。
柵があった場所を越えたところで、リートミュラーたちがよろめく。彼らの足元は他より二十センチほどの深さに掘ってあったのだ。その上に茶色い布を張ってあり、見た目には地面が続いているように見えていただろう。
よろめいたものの、身体能力が高い黒狼騎士団の兵士たちはほとんど倒れることはなかった。しかし、その勢いは確実に落ちた。そして、足元の異常に気付く。
『水が張ってあるのか?』
それでもこちらに向かおうとするが、それより前に儂が命令を出す。
「火を掛けよ!」
十本以上の松明が黒狼騎士団に向けて投げ込まれた。
その直後、炎が上がり、一気に広がっていく。そして、巻き上がった炎に敵兵が飲み込まれていった。
掘ったところに油が貯めてあったのだ。
それも掘った後に粘土で塗り、干し草や布などを敷き詰めて地面に油が染み込まないようにしてある。
この油は攻城兵器を焼くために用意してあったが、思ったより使わなかったので、それを流用したものだ。
更に上から干し草などの可燃物が投げ込まれていく。
「風を送れ!」
用意してあった送風の魔導具が風を送り始める。この魔導具は鍛冶場で使うものだが、それを取り外してここに持ち込んだ。
風を送り始めると、草が激しく燃え、煙が敵兵に向かっていく。
それでも敵の闘争心は萎えず、煙の中から飛び出してきた。
「敵に止めを刺せ!」
熱と煙に目をやられ、火傷を負った兵士はそれまでの勢いを保つことができず、槍兵の繰り出す突きに次々と命を落としていく。
そんな中、リートミュラーが憤怒の表情で飛び出してきた。
さすがに猛将と呼ばれるだけあって、槍を叩き折りながら戦列を切り崩していく。
「ジーゲル! 貴様だけは許さん!」
槍兵を数人斬り倒したところで、勢いが止まった。
「覚悟せよ、リートミュラー!」
儂はそう叫ぶと、勢いを失ったリートミュラーに大剣を叩きつけた。
万全の状態なら易々と受け止められたのだろうが、火傷と無茶な突撃による疲労で本来の力を発揮できず、更に冷静さを欠いていたため、動きが硬い。
リートミュラーが剣を持ち上げる前に、儂の剣が奴の首を斬り裂く。頸動脈を斬り裂き、奴は血を噴き上げながら倒れていった。
「グハッ!」
篝火と灯りの魔導具による光を受け、血の噴水が真っ赤に煌めく。
「敵将リートミュラーを討ち取った! 敵を掃討せよ!」
「「オオ!!」」
儂の声に兵たちが呼応した。
既に炎は弱まっており、前進するのに支障はない。
上を見ると、義勇兵を指揮するシャイデマン殿が剣を上げて笑みを見せていた。
「こちらも問題ありません! 敵は戦意を失いました!」
まだ燻っている煙で見えないが、敵が引き始めているようだ。
あとは敵が組織的な反撃をしないように少しずつ切り崩していけばいいだろうと安堵の息を吐き出した。
グライフトゥルム王国西部ヴェストエッケ、ヴェストエッケ城内。黒狼騎士団団長エーリッヒ・リートミュラー
ヴェストエッケ城内に突入後、敵の散発的な抵抗を排除しつつ城門に向かっている。
当初懸念していた兵舎の屋上からの狙撃は思ったより少なく、更に下で待ち構えている兵はほとんどいなかった。
敵は兵舎の窓から弩弓を使って、俺や隊長たちを狙撃してきたが、散発的な攻撃であったことと、先行する兵に兵舎の中を確認させるようにしたため、実害は出ていない。その分、時間は掛かっているが、そのお陰で後続が追い付き、二千名を超える兵が我が指揮下に入っていた。
城壁と兵舎の間は約二十メートル。この空間は投石器の腕が城壁に当たらないようにするためと、通常時はこの場で調練を行うためだと聞いている。
行軍するだけなら充分な広さだが、二千の兵が戦うには狭い。
そのため、三分の二ほどを迂回させることにした。
迂回といっても単純に兵舎の間を進ませると、無数にある罠に少なくない兵力を失ってしまう。
落とし穴や落石などの罠はもちろん、袋小路に誘い込まれて動けなくなったところに油を撒かれ、火を掛けられるというような狡猾なものまであるのだ。
無暗に兵舎の中に入ることは更に危険だ。
俺自身、若い頃に兵舎に突入したことがあったが、出口を塞がれた上で毒草を燃やされ、充満した毒煙で危うく命を落とすところだった。
また、罠を警戒し解除するだけでも時間が掛かる。つまり、通路や兵舎の中を移動することは進軍を遅らせるだけでメリットは少ないのだ。
そのため、今回は鉤付きのロープを使って屋上に登り、一部はそのまま城門に向かわせ、残りは兵舎の反対側にロープで降りてから進軍させることにした。
兵舎の上は弩弓を持った敵兵がいるが、盾があればそれほど脅威ではないし、兵舎を乗り越えていくとは敵も考えていないだろう。
こういったことをしていたため、思った以上に時間が掛かったが、一キロメートルもない距離であり、三十分ほどで城門が見えてきた。
城門の周囲には篝火や灯りの魔導具が煌々と照らしており、城門がある中央道路から東に五十メートルほどの場所に頑丈そうな柵があり、その後ろに待ち構えている敵兵の姿が見えた。更に兵舎の屋上には敵兵が溢れており、激戦になると直感する。
しかし、兵舎の反対側、すなわち城壁側には敵の姿はなかった。恐らくだが、黒鳳騎士団と激しく戦っており、城内にまで兵力を回す余裕がないのだろう。
防護柵から百メートルほどのところで直属部隊を停止させる。
「ここを突破すれば、ヴェストエッケは俺たちの物になる! 敵も死に物狂いで抵抗してくるだろうが、しょせん弱兵である義勇兵に過ぎん! 一気に決めるぞ!」
「「「オオ!!」」」
兵たちの雄叫びが城壁や兵舎の壁で反響し、全騎士団員がいるのではないかと錯覚に陥るほどだ。
「前進せよ!」
俺の命令で盾兵を先頭にゆっくりと前進する。兵舎の上をちらりと見ると、敵の弩弓兵は我々の方ではなく、屋上の東側を見ていた。別動隊が到着したようだ。
更に敵兵たちが騒ぎ始めた。
何を言っているのかは分からないが、落ち着きのない声で叫んでおり、どうやら兵舎の北側に回したもう一つの別動隊が迂回に成功したようだ。
「敵は動揺している! このまま進め!」
上からの攻撃がないため、そのまま前進する。
距離は五十メートルほど。
柵を突破するのは骨だが、これで勝利は揺らがないと笑みが零れた。
その直後、防護柵の向こうに現れた男を見て、思わず叫び声を上げる。
「ジーゲル! 貴様生きていたのか!」
ジーゲルが俺の言葉を受け、ニヤリと笑う。
俺は何度も死闘を繰り広げた宿敵の姿を見て怒りが爆発する。
■■■
統一暦一二〇三年八月十一日。
グライフトゥルム王国西部ヴェストエッケ、ヴェストエッケ城内城門付近。守備兵団将軍ハインツ・ハラルド・ジーゲル
我々の篝火が照らす中、黒狼騎士団がゆっくりと進んでくる。
表情までは見えないが、その歩みに乱れは全くなく、勝利を確信しているように思えた。
(ラウシェンバッハ殿がおらねば、奴らの自信も強ち間違いではないな。儂も今頃慌てておっただろうし……)
ラウシェンバッハ参謀長代理からはいくつかの策を授けられている。また、司令官室のグレーフェンベルク子爵とも通信の魔導具で常時連絡が取れる体制であるため、周囲の状況を気にする必要がなく、焦りは全くなかった。
敵が近づいてくると、黒狼騎士団の団長、エーリッヒ・リートミュラーの姿が目に入った。望遠鏡を使って表情を見ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべていることが分かる。
そして、その勝ち誇った顔が醜く歪むことを想像し、自然と笑みが浮かんできた。
ラウシェンバッハ殿に指示された通り、兵たちに身体を揺らすよう命じ、更に隊長たちに適当に叫ばせた。これで敵はこちらが動揺したと思うということだったが、リートミュラーの表情が更に緩んでおり、彼の目論見通りになっている。
そろそろ本格的に攻めてくるというタイミングで、儂はゆっくりと前に出ていく。ここまでくれば、リートミュラーにも儂の顔がはっきりと見えるだろう。
『ジーゲル! 貴様生きていたのか!』
予想通り驚愕の表情を浮かべており、顔が更に緩む。
「何を言っておる。貴様如きに殺されるほど、儂は耄碌しておらんぞ」
小馬鹿にしたような口調に、奴の表情が驚愕から憤怒に変わった。その変化に更に笑いが込み上げてくる。
『矢を受けて倒れたところは俺自身が見ているんだ! あり得ぬ!』
まだ信じられないようで喚き散らしている。
指揮官が怒り狂っていることで、敵兵に動揺が広がっていることがはっきりと分かった。
(指揮官は常に冷静でなければならない。指揮官が逆上すれば、それは部下に伝搬し、精強な兵であっても容易に烏合の衆に変わるからだ……ラウシェンバッハ殿が作った教本にある通りだな……)
そんなことを思い出したが、更に奴を怒り狂わせるための手を打つ。
「なかなかの演技であったであろう? 儂も王都の劇場で役者をやれるかもしれんの。まあ、服の中に仕込んだ豚の血が広がった時は気持ち悪いと思ったがの。ガハハハッ!」
『豚の血だと……あれは俺を騙すための演技だったというのか!』
「そうに決まっておろう。貴様が騙されたと聞いた時には笑いすぎて息ができなくなって、本当に死ぬかと思ったぞ! 笑い死にさせてくるとは、さすがは神狼騎士団の名将リートミュラーだと感心したほどだ!」
この言葉が引き金となり、リートミュラーは激高した。
『黙れ! 今度こそあの世に送ってやる! 攻め掛かれ!』
リートミュラーの命令に敵兵が一斉に前に出る。しかし、戦術も何もなく、真っ直ぐに向かってくるだけだ。
「弩弓兵、前に出よ!」
儂の命令で弩を構えた義勇兵三十名が前に出る。但し、柵まで二十メートルほど離れたところまでだ。
「射撃用意!」
弩弓兵たちは一斉に狙いを付ける。狙いは盾の下、膝辺りだ。
そして、儂の「放て!」という命令で三十本の太矢が放たれた。
敵兵の最前列の一部が太矢を受けて崩れる。しかし、それに歓喜の声を上げることなく、次の命令を発した。
「第二列用意!」
射撃を終えた弩弓兵が下がり、次の班と代わる。狭い場所だが、ぶつかる者はなく、すぐに第二列が弩を構えた。
「放て!」
再び敵兵が倒れていく。
『何をしている! 突撃して蹴散らしてしまえ! 敵は雑兵に過ぎんのだぞ!』
リートミュラーはまだ逆上しており、無理な突撃を命じた。それでも敵兵は躊躇うことなく、盾を構えた状態で身体強化を使って突進してきた。
「綱を引け!」
儂の命令で地面に埋めてあったロープが現れる。引っ張っている兵は兵舎の中に隠れており、地面から三十センチほどの高さでロープがピンと張られた。そのロープに、敵兵が足を取られて転倒し、後続の兵士も巻き込まれて倒れていく。
『止まれ! 前に進めないんだ!』
『押すな! 一旦止まってくれ!』
敵兵が叫んでいるが、儂は命令を発し続ける。
「第三列、放て!」
弩弓兵は後ろに下がると次の射撃の準備を行い、入れ替わりながら太矢を放っていく。
敵は大混乱に陥っているが、リートミュラーが冷静さを取り戻せば、すぐに立ち直ってしまうだろう。そうならないように更なる手を打つ。
「貴様は罠に嵌まったのだ! 後ろを見てみろ!」
その言葉でリートミュラーだけでなく、敵兵の多くが振り返った。
その視線の先には何もなく、その代わりに上から投石器用の大きな石が降り注いでいく。兵舎の上に配置した義勇兵がタイミングを見て投げ込んだのだ。
逆上しているリートミュラーは上に対する注意を怠ったのだ。
『騙したな!』
「愚かな狼を騙すことなど容易いということだな」
そう言って嘲笑すると、リートミュラーは更に逆上する。
『奴を殺せ! 突撃!』
そう言うと抜剣し、先頭に立って突撃してくる。
直属の精鋭と共に倒れ込む兵を一息に飛び越えてきた。弩弓の太矢を撃ち込むが、盾で防がれ、柵まで接近される。
『引き倒せ!』
リートミュラーがそう叫ぶと、直属の兵が柵にロープを何本も引っかけ、後ろに投げた。そして、黒狼騎士団の兵士たちがそのロープを引く。
柵に使っている丸太は直径二十センチほどで、地面に五十センチほど埋め込んであるが、簡単に引き倒されてしまった。
敵兵との距離は二十メートルほど。柵を引き倒される前に弩弓による斉射を行ったが、すぐに槍兵と入れ替えている。
「迎え撃て!」
儂の命令に兵たちが槍を前に突き出す。
『その程度の槍衾で止められると思うな!』
リートミュラーが吠え、敵兵と共に飛び込んでくる。
何の策もなければ、奴の言う通りだが、こちらにはラウシェンバッハ殿が用意した秘策があった。
柵があった場所を越えたところで、リートミュラーたちがよろめく。彼らの足元は他より二十センチほどの深さに掘ってあったのだ。その上に茶色い布を張ってあり、見た目には地面が続いているように見えていただろう。
よろめいたものの、身体能力が高い黒狼騎士団の兵士たちはほとんど倒れることはなかった。しかし、その勢いは確実に落ちた。そして、足元の異常に気付く。
『水が張ってあるのか?』
それでもこちらに向かおうとするが、それより前に儂が命令を出す。
「火を掛けよ!」
十本以上の松明が黒狼騎士団に向けて投げ込まれた。
その直後、炎が上がり、一気に広がっていく。そして、巻き上がった炎に敵兵が飲み込まれていった。
掘ったところに油が貯めてあったのだ。
それも掘った後に粘土で塗り、干し草や布などを敷き詰めて地面に油が染み込まないようにしてある。
この油は攻城兵器を焼くために用意してあったが、思ったより使わなかったので、それを流用したものだ。
更に上から干し草などの可燃物が投げ込まれていく。
「風を送れ!」
用意してあった送風の魔導具が風を送り始める。この魔導具は鍛冶場で使うものだが、それを取り外してここに持ち込んだ。
風を送り始めると、草が激しく燃え、煙が敵兵に向かっていく。
それでも敵の闘争心は萎えず、煙の中から飛び出してきた。
「敵に止めを刺せ!」
熱と煙に目をやられ、火傷を負った兵士はそれまでの勢いを保つことができず、槍兵の繰り出す突きに次々と命を落としていく。
そんな中、リートミュラーが憤怒の表情で飛び出してきた。
さすがに猛将と呼ばれるだけあって、槍を叩き折りながら戦列を切り崩していく。
「ジーゲル! 貴様だけは許さん!」
槍兵を数人斬り倒したところで、勢いが止まった。
「覚悟せよ、リートミュラー!」
儂はそう叫ぶと、勢いを失ったリートミュラーに大剣を叩きつけた。
万全の状態なら易々と受け止められたのだろうが、火傷と無茶な突撃による疲労で本来の力を発揮できず、更に冷静さを欠いていたため、動きが硬い。
リートミュラーが剣を持ち上げる前に、儂の剣が奴の首を斬り裂く。頸動脈を斬り裂き、奴は血を噴き上げながら倒れていった。
「グハッ!」
篝火と灯りの魔導具による光を受け、血の噴水が真っ赤に煌めく。
「敵将リートミュラーを討ち取った! 敵を掃討せよ!」
「「オオ!!」」
儂の声に兵たちが呼応した。
既に炎は弱まっており、前進するのに支障はない。
上を見ると、義勇兵を指揮するシャイデマン殿が剣を上げて笑みを見せていた。
「こちらも問題ありません! 敵は戦意を失いました!」
まだ燻っている煙で見えないが、敵が引き始めているようだ。
あとは敵が組織的な反撃をしないように少しずつ切り崩していけばいいだろうと安堵の息を吐き出した。
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