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番外編第二章:「料理人ジン・キタヤマ:食材探訪編」
番外編第十七話「ジン、異世界の港町に行く」
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第十七話「ジン、異世界の港町に行く」
八月三十日。
マシア共和国の首都アーサロウゼンに到着した後、この町にある二つの酒蔵を訪問した。
最初に訪問したエンバリー酒造では芳しい結果は得られなかったが、次のガウアー酒造場では社長兼杜氏であるマーティン・ガウアーの説得に成功し、マシアでは売り出していない純米吟醸や純米大吟醸の生原酒を売ってもらえることになった。
今回の目的の一つである美味い“日本酒”を入手するルートが開拓できた。そのこともあり、トーレス王国の産業振興局長であるダスティン・ノードリーは安堵の表情を浮かべていた。
「これで陛下と内務卿閣下によい報告ができます」
国王ヘンリーと内務卿であるランジー伯爵は俺の料理に合わせた日本酒、“ブラックドラゴン”を大層気に入ったそうで、その入手もダスティンの仕事の一つだったらしい。
駐マシア大使であるロバート・トランセル男爵に同行していた書記官ヴィンセント・シアラーが報告すると、「それはよかった」と笑みを浮かべていた。国王直々の案件であり、成功させないといけないとプレッシャーを感じていたようだ。
「大使にお願いがあるのですが」と話しかける。
「何でしょうか?」
「ここマシア共和国ではナオヒロ・ノウチという方の作り方に固執している職人が大多数です。恐らくですが、若手の職人の多くはそのことに不満を持っていると思います。ですから、その職人たちをトーレス王国にスカウトしてもらいたいのです」
「若手の職人をスカウトですか……それはなぜでしょう? 今回はガウアー酒造場がキタヤマ殿の考えに賛同しております。他の酒蔵もそれに続くところが出てくるのではありませんか?」
「そうなると思いますが、ブルートン近郊で酒造りをしてもらえれば、私が職人たちと直接会う機会が多くなりますから、料理に合う酒を造ってもらいやすくなります。それに今なら若くてやる気のある職人を多く引き抜ける可能性があるんです。このチャンスを逃すのはもったいないなと思ったのです」
俺が考えたのはトーレス王国で日本酒を作ることだ。
恐らくマシア共和国の方が気候的に酒造りに合っているだろう。しかし、今回の見学で思った以上に近代化が図られており、収納袋を使った米の輸送さえ安定的にできれば、トーレス王国でも美味い日本酒が作れるはずだ。
酒を輸入すればいいという考えもあるが、和食を文化として根付かせるなら、それに合った酒は絶対に必要だ。
確かにトーレス王国はワイン造りが盛んなところで、重厚な赤ワインからライトな白ワインまで多くの種類が揃っている。そのワインに合う和食を考えるという方法もないわけではない。
しかし、ワインは長い年月をかけてフランス料理に似た地元料理、トーレス料理に合うように作られた酒だ。その酒に無理やり和食を合わせるのはどうかと思ったのだ。
俺個人の思いであるから異論はあると思うが、食文化に“酒”という要素は必要だと思っている。だから“和食には日本酒”という文化をどうしても定着させたい。
そのために必要なのは、酒を造る職人たちだ。
設備自体はスールジア魔導王国に発注すればいいし、米はマシア共和国から輸入すればいい。水は元々いいし、酵母は職人と一緒に持ち込めば問題ない。だから、きちんとした酒を造れる職人がいれば、絶対に美味い酒はできる。
今回の見学で職人たちの知識や経験の豊富さを確認できている。あれだけしっかりとした管理がされている蔵元なら、若手でも充分な知識を持っていると確信した。
そんな職人を引き抜くチャンスがあるのは今だけなので、それを逃したくないと提案したのだ。
そんな説明をすると、トランセル男爵、ヴィンセント、そしてダスティンの三人が大きく頷いた。
「なるほど。国王陛下の許可は必要ですが、小さな酒蔵なら私の権限でも作ることはできるはずです。ですので、今から声を掛けていただく方がいいかもしれませんね」
ダスティンはガウアー酒造場の後継者であるニックと別の場所で話していたが、設備の投資額などを確認していたようだ。それで予算規模の目途を付けていたらしい。
「では、私の方で声を掛けましょう」とヴィンセントが手を挙げる。
「ではヴィンセント、君に任せる。頼んだぞ」とトランセル男爵がそれを承認した。
翌日は一日休養日とし、九月一日に北部の酒どころ、マーデュに向かう。
出発の朝には世話になったゴードン酒店の娘、シェリーが見送りに来てくれた。
「またいつでも寄ってください。できれば、ジンさんの料理を食べさせていただけると嬉しいですけど」
「分かりました。今回お世話になりましたし、今後もいろいろとお願いすることもあると思いますから」
「ありがとうございます! ニジマスがあんなに美味しかったので、他の料理も食べたいと思っていたんです!」
そこまで喜んでもらえると嬉しい。
「出先なのでそれほど手の込んだものは作れませんが、機会があれば作らせていただきます」
そんな会話をしてからアーサロウゼンを出発した。
マーデュはアーサロウゼンから陸路で320キロメートルほどあり、ゴーレム馬車で八日間の旅となる。
一応主要街道を通ることになるが、安全が保証できないということで、護衛のフィル・ソーンダイクに加え、五名の傭兵が護衛に加わる。
傭兵といっても大使館で専属契約している者たちであるため、素性ははっきりしている。
護衛を加えると十名という大所帯になるため、大使館にある大きめの箱馬車を使うことになった。もっとも傭兵たちは屋根の上や御者台にいるため、窮屈な感じはない。
全員レベル300を超えるベテランで、更に獣人ということで一度も襲撃を受けることなく、予定通りマーデュに到着した。
マーデュでは四つの酒蔵を訪問したが、エンバリー酒造と同じようにナオヒロ・ノウチの教えを守るという蔵元ばかりだった。
六日間滞在し、経営者や杜氏たちを説得してみたが、全員が頑なで新たな酒を造ってもらうことはできなかった。
酒は買ったが、大吟醸クラスにはあまり手を出さず、純米酒や本醸造の比較的安い酒をメインに購入している。
全く成果がなかったかというとそういうわけではなく、ダスティンとヴィンセントは若手の職人たちに名刺を渡し、トーレス王国で酒造りの計画があることを伝えており、上手くいけば引き抜きができそうだと手ごたえを感じていた。
「では、次はヴェンノヴィアですね。今度は川を下っていきますから少しは楽だと思いますよ」とヴィンセントが説明する。
ヴェンノヴィアはハディン河の河口にある港町で、ユーレッタという町の近くから川を下る船が使える。但し、大河というほどの規模ではなく日本の河川ほどの比較的小さな川で、馬車を載せられるほど大きな船は出ていない。
また、船での移動ということで獣人たちの護衛の意味はあまりなく、川に棲む魔物の襲撃もないとのことから、ユーレッタでヴィンセントたちと別れることになった。
ユーレッタの町で一泊した後、船着き場でヴィンセントたちと別れの挨拶をする。
「お世話になりました」とヴィンセントの手を取る。
「こちらこそ面白い仕事をさせていただき、ありがとうございました。職人たちの引き抜きのことはお任せください」
ヴィンセントはダスティン、フィル、チャーリーとも別れの挨拶を行った後、これから先の注意点を念押ししてきた。
「昨夜も説明しましたが、ヴェンノヴィアには王国の領事館がありますので、まずそちらに向かってください。港町ということで気の荒い船乗りたちが多いのでくれぐれもご注意ください」
ヴェンノヴィアはトーレス王国に向かう船が出ている関係で領事館がある。
既に俺たちが向かうことは連絡済みで、その先のマーリア連邦への渡航手続きも行ってくれることになっていた。
ユーレッタから船に乗るが、川下り用のスリムなもので、上流では激しく揺れる。救命胴衣のようなものはなく、投げ出されたら危ないと風景を楽しむ余裕はなかった。
一日目で80キロ近く進み、ハディン河の中流域に入った。そのお陰で揺れは小さくなり、旅を楽しむ余裕ができる。
森の中を進むため、美しい緑が川面に映り、涼しい風と相まって眠気を誘う。テレビか何かで見た東北の川下りの映像を思い出していた。
「セオール川に似た感じですね」とチャーリーが言ってきた。
セオール川はトーレス王国の王都ブルートン近くの川で、カワカマスなどの魚がよく獲れる。
彼はその魚の仕入れでよくセオール川沿いの漁村を訪ねているので、そんな感想が出たのだろう。
二日目は徐々に下流域に入り、更に緩やかな流れになる。周囲も森から畑に変わり、三日目の午後には水田が広がる田園地帯に入っていた。
四日目になると流れは更に弱くなり、船に帆が掛けられる。更に魔術師らしき乗員が時々風を送り、速度を上げていた。
九月二十日の夕方、目的地であるヴェンノヴィアに到着する。
ヴェンノヴィアはハディン河の河口にあり、河口の先には海が広がっていた。そのため、何となく磯の香りがするが、それほど強い海の香りはしない。
「この先がミスト湾なんですね」とダスティンが地図を見ながら言ってきた。
ミスト湾はマシア共和国、マーリア連邦を挟む形である湾で、長さ約200キロ、幅約60キロの大きさがある。
ミスト湾を南下すると、マシア共和国、マーリア連邦、ヴィーニア王国の三ヶ国が面するメティス内海に出る。
ヴィンセントの忠告通り、上陸後はその足で領事館に向かった。途中で何人もの船乗り風の男たちを見ており、ここが港町であると実感する。
領事館は港近くにあるため、トラブルに巻き込まれることなく、五分ほどで到着した。
建物はマシア風の建物とは少し異なり、白い壁にオレンジ色の屋根という明るい感じのものだ。
建物の中に入るが、人の姿はほとんどなく、閑散とした感じだ。
ダスティンが受付にいる女性に話をすると、すぐに領事が現れた。
「連絡は受けております。長旅、お疲れさまでした」
出てきた領事は俺と同じくらいの三十代前半の男性で、背が高く日に焼けた顔に白い歯が印象的で、イタリアかどこかの俳優のようだ。
「ヴェンノヴィアで領事を務めております、コンラッド・オルグレンと申します」
トランセル男爵に聞いた話では、オルグレンは王家直属の騎士爵で、ここヴェンノヴィアに赴任してから五年以上経っている。そのため、ヴェンノヴィアだけでなく、メティス内海の事情にも精通しているという話だった。
ダスティンが俺たちの紹介をすると、コンラッドは人好きのする笑顔を見せながら一人一人と握手をしていく。
「トランセル男爵からお話は伺っております。可能でありましたら、私にもキタヤマ殿の料理を味わう機会をいただきたいと思っております」
「お世話になりますので時間があれば」と答えておく。
ここでも拠点は領事館になる。理由は治安だ。
「治安が極端に悪いわけではないのですが、この土地には外国人が多く、トラブルが絶えませんので」
その言葉に護衛であるフィル・ソーンダイクが発言する。
「酒蔵を訪問する予定なのですが、護衛を雇った方がいいということでしょうか?」
「そうなる。既にヴェンノヴィア市の警備隊には話を通しているから、兵士が数名同行することになるだろう」
領事館にも武官はいるものの、トラブルが起きた時に国際的な問題に発展する可能性があり、マシア共和国の兵士に護衛をしてもらう方が安全だという話だった。
「そう言えば、マッコール商会がノードリー局長とキタヤマ殿が到着したら挨拶をしたいと言っていましたね」
「マッコール商会ですか? そういえば、ここに支店があると聞いたことがありますね」
ダスティンはそう言いながらも表情が曇っている。
「あの商会と何かありましたか?」というコンラッドの問いに、
「いえ、あそこの商会長はいまいち信用できんのですよ。今回の調査でそのことがよく分かりましたので」
ダスティンが詳しく説明すると、コンラッドは首を傾げる。
「私のイメージと異なりますな。支店長のアスキスは真面目な商人という印象しかございませんが?」
詳しく聞くと、マッコール商会の支店長ハンフリー・アスキスという人物はヴェンノヴィアで十年近く支店長を務めるベテランの商人だそうだ。トーレス王国の商人たちの取りまとめ役を任されるほど信用されていると教えてくれた。
「そうですか。明日にでも会ってみますか」とダスティンが答えている。
その日はヴェンノヴィア領事館に近いレストランで食事を摂った。
港町ということで魚介類が豊富にあり、アジやサバに似た魚の塩焼きやマグロの刺身などもあり、和食に近い料理を堪能した。
料理に合わせて日本酒が出てきたが、これはゴードン酒店にもあった“ミストガルフ”という銘柄の本醸造だった。
惜しむらくは酒の管理が甘く、少し饐えた感じになっていたことだ。もう少し管理がきちんとしていれば、塩焼きや刺身によく合っただろう。
俺の表情を見ていたダスティンが、「やはり管理が甘いですか?」と聞いてきた。
「ええ、恐らく常温で放置してあったのでしょうね。この酒は純米大吟醸ほど繊細ではありませんが、ある程度の管理は必要なのです」
その会話にコンラッドが入ってきた。
「ミストガルフはこんな味なのでは? 私が行く店ではどこでもこんな感じですが?」
「では、明日にでも酒蔵に行ってみましょうか。恐らく印象が変わると思いますよ」
こうして領事のコンラッドも酒蔵に行くことになった。
八月三十日。
マシア共和国の首都アーサロウゼンに到着した後、この町にある二つの酒蔵を訪問した。
最初に訪問したエンバリー酒造では芳しい結果は得られなかったが、次のガウアー酒造場では社長兼杜氏であるマーティン・ガウアーの説得に成功し、マシアでは売り出していない純米吟醸や純米大吟醸の生原酒を売ってもらえることになった。
今回の目的の一つである美味い“日本酒”を入手するルートが開拓できた。そのこともあり、トーレス王国の産業振興局長であるダスティン・ノードリーは安堵の表情を浮かべていた。
「これで陛下と内務卿閣下によい報告ができます」
国王ヘンリーと内務卿であるランジー伯爵は俺の料理に合わせた日本酒、“ブラックドラゴン”を大層気に入ったそうで、その入手もダスティンの仕事の一つだったらしい。
駐マシア大使であるロバート・トランセル男爵に同行していた書記官ヴィンセント・シアラーが報告すると、「それはよかった」と笑みを浮かべていた。国王直々の案件であり、成功させないといけないとプレッシャーを感じていたようだ。
「大使にお願いがあるのですが」と話しかける。
「何でしょうか?」
「ここマシア共和国ではナオヒロ・ノウチという方の作り方に固執している職人が大多数です。恐らくですが、若手の職人の多くはそのことに不満を持っていると思います。ですから、その職人たちをトーレス王国にスカウトしてもらいたいのです」
「若手の職人をスカウトですか……それはなぜでしょう? 今回はガウアー酒造場がキタヤマ殿の考えに賛同しております。他の酒蔵もそれに続くところが出てくるのではありませんか?」
「そうなると思いますが、ブルートン近郊で酒造りをしてもらえれば、私が職人たちと直接会う機会が多くなりますから、料理に合う酒を造ってもらいやすくなります。それに今なら若くてやる気のある職人を多く引き抜ける可能性があるんです。このチャンスを逃すのはもったいないなと思ったのです」
俺が考えたのはトーレス王国で日本酒を作ることだ。
恐らくマシア共和国の方が気候的に酒造りに合っているだろう。しかし、今回の見学で思った以上に近代化が図られており、収納袋を使った米の輸送さえ安定的にできれば、トーレス王国でも美味い日本酒が作れるはずだ。
酒を輸入すればいいという考えもあるが、和食を文化として根付かせるなら、それに合った酒は絶対に必要だ。
確かにトーレス王国はワイン造りが盛んなところで、重厚な赤ワインからライトな白ワインまで多くの種類が揃っている。そのワインに合う和食を考えるという方法もないわけではない。
しかし、ワインは長い年月をかけてフランス料理に似た地元料理、トーレス料理に合うように作られた酒だ。その酒に無理やり和食を合わせるのはどうかと思ったのだ。
俺個人の思いであるから異論はあると思うが、食文化に“酒”という要素は必要だと思っている。だから“和食には日本酒”という文化をどうしても定着させたい。
そのために必要なのは、酒を造る職人たちだ。
設備自体はスールジア魔導王国に発注すればいいし、米はマシア共和国から輸入すればいい。水は元々いいし、酵母は職人と一緒に持ち込めば問題ない。だから、きちんとした酒を造れる職人がいれば、絶対に美味い酒はできる。
今回の見学で職人たちの知識や経験の豊富さを確認できている。あれだけしっかりとした管理がされている蔵元なら、若手でも充分な知識を持っていると確信した。
そんな職人を引き抜くチャンスがあるのは今だけなので、それを逃したくないと提案したのだ。
そんな説明をすると、トランセル男爵、ヴィンセント、そしてダスティンの三人が大きく頷いた。
「なるほど。国王陛下の許可は必要ですが、小さな酒蔵なら私の権限でも作ることはできるはずです。ですので、今から声を掛けていただく方がいいかもしれませんね」
ダスティンはガウアー酒造場の後継者であるニックと別の場所で話していたが、設備の投資額などを確認していたようだ。それで予算規模の目途を付けていたらしい。
「では、私の方で声を掛けましょう」とヴィンセントが手を挙げる。
「ではヴィンセント、君に任せる。頼んだぞ」とトランセル男爵がそれを承認した。
翌日は一日休養日とし、九月一日に北部の酒どころ、マーデュに向かう。
出発の朝には世話になったゴードン酒店の娘、シェリーが見送りに来てくれた。
「またいつでも寄ってください。できれば、ジンさんの料理を食べさせていただけると嬉しいですけど」
「分かりました。今回お世話になりましたし、今後もいろいろとお願いすることもあると思いますから」
「ありがとうございます! ニジマスがあんなに美味しかったので、他の料理も食べたいと思っていたんです!」
そこまで喜んでもらえると嬉しい。
「出先なのでそれほど手の込んだものは作れませんが、機会があれば作らせていただきます」
そんな会話をしてからアーサロウゼンを出発した。
マーデュはアーサロウゼンから陸路で320キロメートルほどあり、ゴーレム馬車で八日間の旅となる。
一応主要街道を通ることになるが、安全が保証できないということで、護衛のフィル・ソーンダイクに加え、五名の傭兵が護衛に加わる。
傭兵といっても大使館で専属契約している者たちであるため、素性ははっきりしている。
護衛を加えると十名という大所帯になるため、大使館にある大きめの箱馬車を使うことになった。もっとも傭兵たちは屋根の上や御者台にいるため、窮屈な感じはない。
全員レベル300を超えるベテランで、更に獣人ということで一度も襲撃を受けることなく、予定通りマーデュに到着した。
マーデュでは四つの酒蔵を訪問したが、エンバリー酒造と同じようにナオヒロ・ノウチの教えを守るという蔵元ばかりだった。
六日間滞在し、経営者や杜氏たちを説得してみたが、全員が頑なで新たな酒を造ってもらうことはできなかった。
酒は買ったが、大吟醸クラスにはあまり手を出さず、純米酒や本醸造の比較的安い酒をメインに購入している。
全く成果がなかったかというとそういうわけではなく、ダスティンとヴィンセントは若手の職人たちに名刺を渡し、トーレス王国で酒造りの計画があることを伝えており、上手くいけば引き抜きができそうだと手ごたえを感じていた。
「では、次はヴェンノヴィアですね。今度は川を下っていきますから少しは楽だと思いますよ」とヴィンセントが説明する。
ヴェンノヴィアはハディン河の河口にある港町で、ユーレッタという町の近くから川を下る船が使える。但し、大河というほどの規模ではなく日本の河川ほどの比較的小さな川で、馬車を載せられるほど大きな船は出ていない。
また、船での移動ということで獣人たちの護衛の意味はあまりなく、川に棲む魔物の襲撃もないとのことから、ユーレッタでヴィンセントたちと別れることになった。
ユーレッタの町で一泊した後、船着き場でヴィンセントたちと別れの挨拶をする。
「お世話になりました」とヴィンセントの手を取る。
「こちらこそ面白い仕事をさせていただき、ありがとうございました。職人たちの引き抜きのことはお任せください」
ヴィンセントはダスティン、フィル、チャーリーとも別れの挨拶を行った後、これから先の注意点を念押ししてきた。
「昨夜も説明しましたが、ヴェンノヴィアには王国の領事館がありますので、まずそちらに向かってください。港町ということで気の荒い船乗りたちが多いのでくれぐれもご注意ください」
ヴェンノヴィアはトーレス王国に向かう船が出ている関係で領事館がある。
既に俺たちが向かうことは連絡済みで、その先のマーリア連邦への渡航手続きも行ってくれることになっていた。
ユーレッタから船に乗るが、川下り用のスリムなもので、上流では激しく揺れる。救命胴衣のようなものはなく、投げ出されたら危ないと風景を楽しむ余裕はなかった。
一日目で80キロ近く進み、ハディン河の中流域に入った。そのお陰で揺れは小さくなり、旅を楽しむ余裕ができる。
森の中を進むため、美しい緑が川面に映り、涼しい風と相まって眠気を誘う。テレビか何かで見た東北の川下りの映像を思い出していた。
「セオール川に似た感じですね」とチャーリーが言ってきた。
セオール川はトーレス王国の王都ブルートン近くの川で、カワカマスなどの魚がよく獲れる。
彼はその魚の仕入れでよくセオール川沿いの漁村を訪ねているので、そんな感想が出たのだろう。
二日目は徐々に下流域に入り、更に緩やかな流れになる。周囲も森から畑に変わり、三日目の午後には水田が広がる田園地帯に入っていた。
四日目になると流れは更に弱くなり、船に帆が掛けられる。更に魔術師らしき乗員が時々風を送り、速度を上げていた。
九月二十日の夕方、目的地であるヴェンノヴィアに到着する。
ヴェンノヴィアはハディン河の河口にあり、河口の先には海が広がっていた。そのため、何となく磯の香りがするが、それほど強い海の香りはしない。
「この先がミスト湾なんですね」とダスティンが地図を見ながら言ってきた。
ミスト湾はマシア共和国、マーリア連邦を挟む形である湾で、長さ約200キロ、幅約60キロの大きさがある。
ミスト湾を南下すると、マシア共和国、マーリア連邦、ヴィーニア王国の三ヶ国が面するメティス内海に出る。
ヴィンセントの忠告通り、上陸後はその足で領事館に向かった。途中で何人もの船乗り風の男たちを見ており、ここが港町であると実感する。
領事館は港近くにあるため、トラブルに巻き込まれることなく、五分ほどで到着した。
建物はマシア風の建物とは少し異なり、白い壁にオレンジ色の屋根という明るい感じのものだ。
建物の中に入るが、人の姿はほとんどなく、閑散とした感じだ。
ダスティンが受付にいる女性に話をすると、すぐに領事が現れた。
「連絡は受けております。長旅、お疲れさまでした」
出てきた領事は俺と同じくらいの三十代前半の男性で、背が高く日に焼けた顔に白い歯が印象的で、イタリアかどこかの俳優のようだ。
「ヴェンノヴィアで領事を務めております、コンラッド・オルグレンと申します」
トランセル男爵に聞いた話では、オルグレンは王家直属の騎士爵で、ここヴェンノヴィアに赴任してから五年以上経っている。そのため、ヴェンノヴィアだけでなく、メティス内海の事情にも精通しているという話だった。
ダスティンが俺たちの紹介をすると、コンラッドは人好きのする笑顔を見せながら一人一人と握手をしていく。
「トランセル男爵からお話は伺っております。可能でありましたら、私にもキタヤマ殿の料理を味わう機会をいただきたいと思っております」
「お世話になりますので時間があれば」と答えておく。
ここでも拠点は領事館になる。理由は治安だ。
「治安が極端に悪いわけではないのですが、この土地には外国人が多く、トラブルが絶えませんので」
その言葉に護衛であるフィル・ソーンダイクが発言する。
「酒蔵を訪問する予定なのですが、護衛を雇った方がいいということでしょうか?」
「そうなる。既にヴェンノヴィア市の警備隊には話を通しているから、兵士が数名同行することになるだろう」
領事館にも武官はいるものの、トラブルが起きた時に国際的な問題に発展する可能性があり、マシア共和国の兵士に護衛をしてもらう方が安全だという話だった。
「そう言えば、マッコール商会がノードリー局長とキタヤマ殿が到着したら挨拶をしたいと言っていましたね」
「マッコール商会ですか? そういえば、ここに支店があると聞いたことがありますね」
ダスティンはそう言いながらも表情が曇っている。
「あの商会と何かありましたか?」というコンラッドの問いに、
「いえ、あそこの商会長はいまいち信用できんのですよ。今回の調査でそのことがよく分かりましたので」
ダスティンが詳しく説明すると、コンラッドは首を傾げる。
「私のイメージと異なりますな。支店長のアスキスは真面目な商人という印象しかございませんが?」
詳しく聞くと、マッコール商会の支店長ハンフリー・アスキスという人物はヴェンノヴィアで十年近く支店長を務めるベテランの商人だそうだ。トーレス王国の商人たちの取りまとめ役を任されるほど信用されていると教えてくれた。
「そうですか。明日にでも会ってみますか」とダスティンが答えている。
その日はヴェンノヴィア領事館に近いレストランで食事を摂った。
港町ということで魚介類が豊富にあり、アジやサバに似た魚の塩焼きやマグロの刺身などもあり、和食に近い料理を堪能した。
料理に合わせて日本酒が出てきたが、これはゴードン酒店にもあった“ミストガルフ”という銘柄の本醸造だった。
惜しむらくは酒の管理が甘く、少し饐えた感じになっていたことだ。もう少し管理がきちんとしていれば、塩焼きや刺身によく合っただろう。
俺の表情を見ていたダスティンが、「やはり管理が甘いですか?」と聞いてきた。
「ええ、恐らく常温で放置してあったのでしょうね。この酒は純米大吟醸ほど繊細ではありませんが、ある程度の管理は必要なのです」
その会話にコンラッドが入ってきた。
「ミストガルフはこんな味なのでは? 私が行く店ではどこでもこんな感じですが?」
「では、明日にでも酒蔵に行ってみましょうか。恐らく印象が変わると思いますよ」
こうして領事のコンラッドも酒蔵に行くことになった。
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