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番外編第二章:「料理人ジン・キタヤマ:食材探訪編」
番外編第十五話「ジン、蔵元に行く:前篇」
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八月三十日。
マシア共和国に到着してから三日目の朝を迎えた。
昨夜の夕食会では全員が満足してくれたようだ。俺としても久しぶりに塩焼きの鮎を食べることができ、大満足だ。
今日はゴードン酒店の娘シェリー・ゴードンと共に首都アーサロウゼンにある日本酒の酒蔵に見学に行くことになっている。
アーサロウゼンはノローボウ川の中流域にあり、水が豊富なところだ。町の南側には水田が、北側には豊かな森が広がっている。
目的の酒蔵はその森に近い場所にあるらしい。
出発前、トーレス王国の大使であるロバート・トランセル男爵から俺の安全に関して提案があると言われた。
「キタヤマ殿が流れ人と知られることは仕方ありません。ですので、流れ人と知られてもマシア共和国やマーリア連邦の政府が手を出せない方法を考えました」
「それはどういった方法なのでしょうか」
正直な話、政治のことはよく分からない。
「現在はノードリー産業振興局長の調査団の一員という立場ですが、王国政府の正式な役職ではありません。ですので、他国が付け入る隙があります……」
今回のマシア共和国訪問は、国王から和食を含めた食文化を広めてほしいという依頼の一環として、ダスティン・ノードリーが局長を務める産業振興局のミッションとして行われているものだ。
俺の現在の身分だが、公式にはトーレス王国の国民であり、国王ヘンリーの個人的な客分というあやふやなものだ。今回の旅行も商人であるチャーリー・オーデッツと同じく一民間人として参加している。
「……ですので、トーレス王国の外交官という身分を用意しました。具体的には“トーレス王国駐マシア大使館付特別調査官”という役職です」
「特別調査官ですか……」
ドラマに出てきそうなおどろおどろしい名の肩書で、俺には全く似合わない。
「もちろん、キタヤマ殿が王国の爵位、官職などをご辞退されていることは聞いておりますので、これはマシア共和国とマーリア連邦にいる間の一時的なものと考えてくださって結構です」
「一時的なもので役に立つのでしょうか?」
「既に共和国政府には地元の食材等の輸入を検討するために、産業振興局長が入国していると伝えています。共和国側も輸出が増えるならと歓迎しており、協力を申し出ているほどです。今回は大ごとにしたくないという理由で協力は断っていますが、この状況で仮に流れ人だと気づかれても手を出してくることは考えにくいと思います」
ダスティンの肩書は正式なもので、王国政府発行の身分証明書も持っている。トーレス王国とマシア共和国は通商条約のようなものがあり、大規模とは言い難いが、貿易も行われている。外貨獲得のことを考えれば、マシア共和国も強くは出られないだろう。
一時的とはいえ、公務員になったことに違和感を覚えるが、特に影響もないので放置することにした。
朝食後、朝市に顔を出して鮎を買い、その足でゴードン酒店に向かう。
店の前にはゴーレム馬車が一輌待機しており、その前に店主の娘シェリーが笑顔で待っていた。いつもなら朝市に行っているそうだが、俺たちに付き合うため、店の者に任せると言っていた。
「おはようございます」とにこやかに声を掛けられ、こちらも挨拶を返す。
馬車に乗り込み、出発する。蔵元は郊外にあるが、馬車で十五分くらいと比較的近いと聞いている。
「昨日も少し説明しましたが、最初に向かうのは“エンバリー酒造”です。“アーサロウゼン”と“マシアジマン”が主力商品で、アーサロウゼンでは最も大きな蔵元になります」
アーサロウゼンには二つの大きな蔵元がある。
これから向かうエンバリー酒造とガウアー酒造場だ。ガウアー酒造場は“ノローボウ”と“ブラックドラゴン”という銘柄を作っている。
ガウアー酒造場もエンバリー酒造の近くにあり、午後に見学に行くことが決まっていた。
アーサロウゼンの町を出ると、すぐに森に入っていく。
落葉樹と針葉樹が混じる雑木林のような森で、何となくだが、日本の山里の風景に近い感じだ。
トーレス王国なら魔物を警戒して護衛が付くのだが、ゴードン酒店の馬車には護衛らしき者がいない。
男爵から聞いた話ではこの辺りに迷宮はなく、はぐれの魔物ですら姿を見せることは滅多にない。また、マシア共和国の兵士たちが定期的に見回りを行っており、盗賊が出ることもなく、非常に安全な土地だそうだ。
それでも行商をやっていたチャーリーは不安なのか、「大丈夫なんでしょうか?」とシェリーに聞いている。
「この辺りは子供と一緒にピクニックができるくらい安全ですよ。魔物が出て危険なのは北部の山岳地帯とスールジアとの国境付近の大森林くらいです」
そんな話をしていると、御者が「もうすぐ着きます」と伝えてきた。窓から外を見ると、森が切れ、田園風景が広がっていた。
すぐに大きな建物が目に入ってくる。
「あそこがエンバリー酒造です。正面の大きな建物でサケを作っています」
その建物の前で馬車が止まると、すぐに四十歳くらいの笑みを浮かべた男と従業員らしき男女五人が頭を下げて待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。エンバリー酒造の社長を務めております、ジェフリー・エンバリーと申します」
エンバリー社長は落ち窪んだ目に銀縁の眼鏡をかけた、やや小太りな中年男性だ。
「今日はよろしくお願いします」とシェリーが挨拶を返し、俺たちを紹介していく。
「こちらがダスティン・ノードリーさんで、トーレス王国の産業振興局長をされている方です。そのお隣がジン・キタヤマさんで同じく、トーレス王国の特別調査官をされています……」
シェリーにも俺の役職のことを伝えてある。
紹介が終わったところで、握手をしていく。
「では、まずは応接室で弊社の概要についてご説明をさせていただき……」
「社長、あまり時間がありませんから、醸造所の見学からお願いできませんか?」
馬車の中で聞いたのだが、この社長は酒造りより金儲けに興味があるため、話を聞いてもあまり参考にならないらしい。
「そうですか……分かりました。では早速」と言って先頭に立って歩き始める。
蔵は思ったより近代的だった。
タンク類は大型のものを含め、金属製が多く、温度管理もきちんとなされている。
「弊社ではスールジア魔導王国の最新式の魔導具を導入しております。ナオヒロ・ノウチ翁の教えにも、温度管理は特に重要だとありますので。タンクもドワーフの職人に作らせた自慢のものです……」
社長の説明が長々と続く。
精米、蒸米、麹造り、酒母造りという工程を遠目に見ていく。さすがに見学コースは作られておらず、部外者が近づくことは避けているのだ。
「……ナオヒロ・ノウチ翁の教えを忠実に守ることこそ、美味いサケを造る秘訣ですね。うちの杜氏はノウチ翁から直接指導を受けただけではなく、三十年以上一緒に仕事をしてきたベテランでございまして……」
働いている蔵人も清潔感があり、状態を確認しながら、記録を取っている姿が目立つ。
社長の説明を聞きながら絞りが終わった日本酒が入っているタンクの前に案内された。
「今から火入れを行うマシアジマンのジュンマイダイギンジョウでございます。特別に飲んでいただこうと思っております」
そう言うと、蔵人の一人が五勺(90ミリリットル)ほど入る“蛇の目”を持ってきた。更に杜氏らしい七十歳くらいの男性も現れる。
「杜氏のオーソン・ローダーです。サケの説明は彼にしてもらいます」
ローダーは小さく頭を下げると、自らタンクのコックを操作し、酒を注ぐ。
「磨きは四割五分。弊社の最上級の酒になります」
火入れ前の完全な生酒だ。
酵母の花のような良い香りが辺りに広がる。
蛇の目を受け取り、色を確認する。ほのかな山吹色で僅かに濁りがあり、炭酸の泡が浮いている。
「このジュンマイダイギンジョウはノウチ翁が杜氏として作られたものを完全に再現しております。雑味が全くなく、冷涼な高山の湧き水のように清らかで、弊社の自慢の一つです」
説明を聞き流しながら蛇の目に口をつける。
酵母の香りは強く、米本来の甘みに生酛の酸味も十分にある。
「これは美味い酒ですね。昨日試飲したものと違う気がするのですが」
ダスティンが俺に聞いてきた。
「火入れと濾過の前ですし、熟成もさせていませんから。どちらかというと朝市で飲んだマシアジマンの純米の方が近い感じですね」
「特別調査官殿はよくご存じですな。この後に火入れと濾過を行って、二ヶ月ほど低温で熟成させます。ですので、本来のジュンマイダイギンジョウより酸味が強く、荒々しい感じになるのです」
「なるほど。だからここでしか飲めないとおっしゃったのですね。しかし、私としてはこちらの方が好みなのですが、これは商品化されないのですかな」
ダスティンの問いにローダーが小さく首を横に振る。
「残念ながら、これは未完成なのです。ノウチ翁の教えでは火入れを行い、特別な木炭で濾過した後に加水をして酒精を調整しなければ売ることはできないのです」
「火入れは一回だけですか? 無濾過も美味いと思うのですが?」
俺がそう聞くと、
「火入れは熟成前と瓶詰時の二回行います。ジュンマイはともかく、ギンジョウやダイギンジョウで無濾過は作っておりませんね。味が変わってしまいますので」
「この生原酒は非常に美味いと思いますが、これに二回火入れはもったいない。それに加水と濾過を加えるのは惜しい気がしますね」
火入れは酵母を殺菌するために行われる。酵母やその他の菌が残っていると、発酵が進んだり、腐敗したりするためだ。
ちなみに火入れと言ってもパスチャライズ法で行われるため、65度のお湯で加温するだけだが、これでも味は多少変わる。
余談だが、“生貯蔵酒”や“生詰め”と書かれている日本酒でも火入れが行われるものがある。火入れを行わないのは“生酒”と“生原酒”と呼ばれるものだ。
加水や濾過も決して悪いことではない。
日本酒の原酒は二十度近いアルコール度数になるものもある。ここまで度数が高いと日本酒本来の味を感じにくくなるから、加水によって十五度くらいに調整した方が飲み口が優しくなって、美味く感じることがある。
濾過も余分な酒粕を濾し取るため、味がクリアになり、酵母の香りを感じやすいというメリットがある。
「これがうちの昔からのやり方ですので」
「ナオヒロ・ノウチ氏の作られていた時と、今では状況が違うのではありませんか?」
「何がおっしゃりたいのでしょうか?」とローダーが怪訝な顔をする。
「恐らくですが、ノウチ氏が酒造りの指導をし始めた頃は店での酒の管理がいい加減だったのではないでしょうか。繊細な吟醸酒の品質が変わることを恐れ、変化に強い酒を造らないと酒自体の評価が下がり、売れなくなるかもしれないと考えたのではないかと」
「そうかもしれませんな。もっとも今でもいい加減な管理しかしていないところが多いですが」
「ですが、ゴードン酒店のようにきちんとした管理をされているところもあります。それに収納袋を使えば、品質の低下は起きませんから、酒を提供する店に管理方法を指導すれば、今よりも華やかで旨みの強い酒を提供できるのではないかと思ったのです」
「それは机上の空論ですね。すべての料理人たちがきちんと扱うことはあり得ません。実際、ジュンマイやホンジョウゾウでは生酒を造っていますが、彼らがいい加減に扱うのですぐに味が落ちてしまっています」
「それはそうですが……正直、もったいないと思うんです。これだけの酒を味わってもらえないのは」
「ノウチ翁のやり方を守り、品質の良いサケを造ることが我々蔵人のやるべきことです」
杜氏であるローダーは頑なだった。
そこで社長にターゲットを変える。
「我々だけに造っていただくことはできませんか? マジックバッグを使いますし、ここにいるチャーリー・オーデッツ商会長なら間違っても酒の味を落とすような扱いはしません」
そこでチャーリーも「ジンさんのおっしゃる通りです。商品の品質には細心の注意を払うことを約束します」と言って頭を下げる。
更にダスティンも「トーレス王国の役人として、私が責任を持って管理すると約束します。これでも駄目でしょうか」と後押しをする。
しかし、エンバリー社長の反応は芳しくなかった。
「そうおっしゃられてもトーレス王国でどの程度売れるか分かりません。第一、酒造りの責任者たる杜氏が反対していますから」
大口の取引先ということで乗ってくるかと思ったが、意外だった。
「私は今の酒造りに誇りを持っています。ノウチ先生に習った方法を変えるほど自惚れてはいませんので」
ローダーはそれだけ言うと、それ以上何も言わなくなった。これ以上話をしても無駄なため、エンバリー酒造を後にすることにした。
マシア共和国に到着してから三日目の朝を迎えた。
昨夜の夕食会では全員が満足してくれたようだ。俺としても久しぶりに塩焼きの鮎を食べることができ、大満足だ。
今日はゴードン酒店の娘シェリー・ゴードンと共に首都アーサロウゼンにある日本酒の酒蔵に見学に行くことになっている。
アーサロウゼンはノローボウ川の中流域にあり、水が豊富なところだ。町の南側には水田が、北側には豊かな森が広がっている。
目的の酒蔵はその森に近い場所にあるらしい。
出発前、トーレス王国の大使であるロバート・トランセル男爵から俺の安全に関して提案があると言われた。
「キタヤマ殿が流れ人と知られることは仕方ありません。ですので、流れ人と知られてもマシア共和国やマーリア連邦の政府が手を出せない方法を考えました」
「それはどういった方法なのでしょうか」
正直な話、政治のことはよく分からない。
「現在はノードリー産業振興局長の調査団の一員という立場ですが、王国政府の正式な役職ではありません。ですので、他国が付け入る隙があります……」
今回のマシア共和国訪問は、国王から和食を含めた食文化を広めてほしいという依頼の一環として、ダスティン・ノードリーが局長を務める産業振興局のミッションとして行われているものだ。
俺の現在の身分だが、公式にはトーレス王国の国民であり、国王ヘンリーの個人的な客分というあやふやなものだ。今回の旅行も商人であるチャーリー・オーデッツと同じく一民間人として参加している。
「……ですので、トーレス王国の外交官という身分を用意しました。具体的には“トーレス王国駐マシア大使館付特別調査官”という役職です」
「特別調査官ですか……」
ドラマに出てきそうなおどろおどろしい名の肩書で、俺には全く似合わない。
「もちろん、キタヤマ殿が王国の爵位、官職などをご辞退されていることは聞いておりますので、これはマシア共和国とマーリア連邦にいる間の一時的なものと考えてくださって結構です」
「一時的なもので役に立つのでしょうか?」
「既に共和国政府には地元の食材等の輸入を検討するために、産業振興局長が入国していると伝えています。共和国側も輸出が増えるならと歓迎しており、協力を申し出ているほどです。今回は大ごとにしたくないという理由で協力は断っていますが、この状況で仮に流れ人だと気づかれても手を出してくることは考えにくいと思います」
ダスティンの肩書は正式なもので、王国政府発行の身分証明書も持っている。トーレス王国とマシア共和国は通商条約のようなものがあり、大規模とは言い難いが、貿易も行われている。外貨獲得のことを考えれば、マシア共和国も強くは出られないだろう。
一時的とはいえ、公務員になったことに違和感を覚えるが、特に影響もないので放置することにした。
朝食後、朝市に顔を出して鮎を買い、その足でゴードン酒店に向かう。
店の前にはゴーレム馬車が一輌待機しており、その前に店主の娘シェリーが笑顔で待っていた。いつもなら朝市に行っているそうだが、俺たちに付き合うため、店の者に任せると言っていた。
「おはようございます」とにこやかに声を掛けられ、こちらも挨拶を返す。
馬車に乗り込み、出発する。蔵元は郊外にあるが、馬車で十五分くらいと比較的近いと聞いている。
「昨日も少し説明しましたが、最初に向かうのは“エンバリー酒造”です。“アーサロウゼン”と“マシアジマン”が主力商品で、アーサロウゼンでは最も大きな蔵元になります」
アーサロウゼンには二つの大きな蔵元がある。
これから向かうエンバリー酒造とガウアー酒造場だ。ガウアー酒造場は“ノローボウ”と“ブラックドラゴン”という銘柄を作っている。
ガウアー酒造場もエンバリー酒造の近くにあり、午後に見学に行くことが決まっていた。
アーサロウゼンの町を出ると、すぐに森に入っていく。
落葉樹と針葉樹が混じる雑木林のような森で、何となくだが、日本の山里の風景に近い感じだ。
トーレス王国なら魔物を警戒して護衛が付くのだが、ゴードン酒店の馬車には護衛らしき者がいない。
男爵から聞いた話ではこの辺りに迷宮はなく、はぐれの魔物ですら姿を見せることは滅多にない。また、マシア共和国の兵士たちが定期的に見回りを行っており、盗賊が出ることもなく、非常に安全な土地だそうだ。
それでも行商をやっていたチャーリーは不安なのか、「大丈夫なんでしょうか?」とシェリーに聞いている。
「この辺りは子供と一緒にピクニックができるくらい安全ですよ。魔物が出て危険なのは北部の山岳地帯とスールジアとの国境付近の大森林くらいです」
そんな話をしていると、御者が「もうすぐ着きます」と伝えてきた。窓から外を見ると、森が切れ、田園風景が広がっていた。
すぐに大きな建物が目に入ってくる。
「あそこがエンバリー酒造です。正面の大きな建物でサケを作っています」
その建物の前で馬車が止まると、すぐに四十歳くらいの笑みを浮かべた男と従業員らしき男女五人が頭を下げて待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。エンバリー酒造の社長を務めております、ジェフリー・エンバリーと申します」
エンバリー社長は落ち窪んだ目に銀縁の眼鏡をかけた、やや小太りな中年男性だ。
「今日はよろしくお願いします」とシェリーが挨拶を返し、俺たちを紹介していく。
「こちらがダスティン・ノードリーさんで、トーレス王国の産業振興局長をされている方です。そのお隣がジン・キタヤマさんで同じく、トーレス王国の特別調査官をされています……」
シェリーにも俺の役職のことを伝えてある。
紹介が終わったところで、握手をしていく。
「では、まずは応接室で弊社の概要についてご説明をさせていただき……」
「社長、あまり時間がありませんから、醸造所の見学からお願いできませんか?」
馬車の中で聞いたのだが、この社長は酒造りより金儲けに興味があるため、話を聞いてもあまり参考にならないらしい。
「そうですか……分かりました。では早速」と言って先頭に立って歩き始める。
蔵は思ったより近代的だった。
タンク類は大型のものを含め、金属製が多く、温度管理もきちんとなされている。
「弊社ではスールジア魔導王国の最新式の魔導具を導入しております。ナオヒロ・ノウチ翁の教えにも、温度管理は特に重要だとありますので。タンクもドワーフの職人に作らせた自慢のものです……」
社長の説明が長々と続く。
精米、蒸米、麹造り、酒母造りという工程を遠目に見ていく。さすがに見学コースは作られておらず、部外者が近づくことは避けているのだ。
「……ナオヒロ・ノウチ翁の教えを忠実に守ることこそ、美味いサケを造る秘訣ですね。うちの杜氏はノウチ翁から直接指導を受けただけではなく、三十年以上一緒に仕事をしてきたベテランでございまして……」
働いている蔵人も清潔感があり、状態を確認しながら、記録を取っている姿が目立つ。
社長の説明を聞きながら絞りが終わった日本酒が入っているタンクの前に案内された。
「今から火入れを行うマシアジマンのジュンマイダイギンジョウでございます。特別に飲んでいただこうと思っております」
そう言うと、蔵人の一人が五勺(90ミリリットル)ほど入る“蛇の目”を持ってきた。更に杜氏らしい七十歳くらいの男性も現れる。
「杜氏のオーソン・ローダーです。サケの説明は彼にしてもらいます」
ローダーは小さく頭を下げると、自らタンクのコックを操作し、酒を注ぐ。
「磨きは四割五分。弊社の最上級の酒になります」
火入れ前の完全な生酒だ。
酵母の花のような良い香りが辺りに広がる。
蛇の目を受け取り、色を確認する。ほのかな山吹色で僅かに濁りがあり、炭酸の泡が浮いている。
「このジュンマイダイギンジョウはノウチ翁が杜氏として作られたものを完全に再現しております。雑味が全くなく、冷涼な高山の湧き水のように清らかで、弊社の自慢の一つです」
説明を聞き流しながら蛇の目に口をつける。
酵母の香りは強く、米本来の甘みに生酛の酸味も十分にある。
「これは美味い酒ですね。昨日試飲したものと違う気がするのですが」
ダスティンが俺に聞いてきた。
「火入れと濾過の前ですし、熟成もさせていませんから。どちらかというと朝市で飲んだマシアジマンの純米の方が近い感じですね」
「特別調査官殿はよくご存じですな。この後に火入れと濾過を行って、二ヶ月ほど低温で熟成させます。ですので、本来のジュンマイダイギンジョウより酸味が強く、荒々しい感じになるのです」
「なるほど。だからここでしか飲めないとおっしゃったのですね。しかし、私としてはこちらの方が好みなのですが、これは商品化されないのですかな」
ダスティンの問いにローダーが小さく首を横に振る。
「残念ながら、これは未完成なのです。ノウチ翁の教えでは火入れを行い、特別な木炭で濾過した後に加水をして酒精を調整しなければ売ることはできないのです」
「火入れは一回だけですか? 無濾過も美味いと思うのですが?」
俺がそう聞くと、
「火入れは熟成前と瓶詰時の二回行います。ジュンマイはともかく、ギンジョウやダイギンジョウで無濾過は作っておりませんね。味が変わってしまいますので」
「この生原酒は非常に美味いと思いますが、これに二回火入れはもったいない。それに加水と濾過を加えるのは惜しい気がしますね」
火入れは酵母を殺菌するために行われる。酵母やその他の菌が残っていると、発酵が進んだり、腐敗したりするためだ。
ちなみに火入れと言ってもパスチャライズ法で行われるため、65度のお湯で加温するだけだが、これでも味は多少変わる。
余談だが、“生貯蔵酒”や“生詰め”と書かれている日本酒でも火入れが行われるものがある。火入れを行わないのは“生酒”と“生原酒”と呼ばれるものだ。
加水や濾過も決して悪いことではない。
日本酒の原酒は二十度近いアルコール度数になるものもある。ここまで度数が高いと日本酒本来の味を感じにくくなるから、加水によって十五度くらいに調整した方が飲み口が優しくなって、美味く感じることがある。
濾過も余分な酒粕を濾し取るため、味がクリアになり、酵母の香りを感じやすいというメリットがある。
「これがうちの昔からのやり方ですので」
「ナオヒロ・ノウチ氏の作られていた時と、今では状況が違うのではありませんか?」
「何がおっしゃりたいのでしょうか?」とローダーが怪訝な顔をする。
「恐らくですが、ノウチ氏が酒造りの指導をし始めた頃は店での酒の管理がいい加減だったのではないでしょうか。繊細な吟醸酒の品質が変わることを恐れ、変化に強い酒を造らないと酒自体の評価が下がり、売れなくなるかもしれないと考えたのではないかと」
「そうかもしれませんな。もっとも今でもいい加減な管理しかしていないところが多いですが」
「ですが、ゴードン酒店のようにきちんとした管理をされているところもあります。それに収納袋を使えば、品質の低下は起きませんから、酒を提供する店に管理方法を指導すれば、今よりも華やかで旨みの強い酒を提供できるのではないかと思ったのです」
「それは机上の空論ですね。すべての料理人たちがきちんと扱うことはあり得ません。実際、ジュンマイやホンジョウゾウでは生酒を造っていますが、彼らがいい加減に扱うのですぐに味が落ちてしまっています」
「それはそうですが……正直、もったいないと思うんです。これだけの酒を味わってもらえないのは」
「ノウチ翁のやり方を守り、品質の良いサケを造ることが我々蔵人のやるべきことです」
杜氏であるローダーは頑なだった。
そこで社長にターゲットを変える。
「我々だけに造っていただくことはできませんか? マジックバッグを使いますし、ここにいるチャーリー・オーデッツ商会長なら間違っても酒の味を落とすような扱いはしません」
そこでチャーリーも「ジンさんのおっしゃる通りです。商品の品質には細心の注意を払うことを約束します」と言って頭を下げる。
更にダスティンも「トーレス王国の役人として、私が責任を持って管理すると約束します。これでも駄目でしょうか」と後押しをする。
しかし、エンバリー社長の反応は芳しくなかった。
「そうおっしゃられてもトーレス王国でどの程度売れるか分かりません。第一、酒造りの責任者たる杜氏が反対していますから」
大口の取引先ということで乗ってくるかと思ったが、意外だった。
「私は今の酒造りに誇りを持っています。ノウチ先生に習った方法を変えるほど自惚れてはいませんので」
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