あなたまるで鬼みたい

阿弖流為

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森の奥から響く奇怪な声に、綾子は思わず足を止めた。

 ――泣いているのか、それとも、何かを訴えているのか。

 闇に沈む木々の合間から、冷たい風が吹き抜ける。まるで見えざる手が、綾子の頬を撫でているようであった。

 「綾子、下がれ」

 エドアルドが低く囁く。その表情は、ひどく険しかった。

 「でも……」

 「何がいるかわからぬ。お前まで巻き込むわけにはいかん」

 彼の言葉に、綾子はぎゅっと拳を握りしめた。確かに、先ほどの声にはただならぬ気配があった。しかし――

 「……一人で行くおつもりですか?」

 「当然だ」

 「ならば、私も行きます」

 綾子はきっぱりと告げた。

 「エドアルド様が鬼ならば、私は人間です。鬼にしか見えぬものもあれば、人にしか聞こえぬ声もあるかもしれません」

 エドアルドは一瞬、驚いたように彼女を見つめた。しかし、やがてわずかに口角を上げる。

 「ふん……言うようになったな」

 そう呟くと、彼は手招きするように綾子を促した。

 「ならば、決して私の傍を離れるな」

 「ええ」

 二人はゆっくりと森の奥へと進んでいく。

 足元の枯葉がざくり、ざくりと音を立てた。

 ふと、先ほどの声が途切れる。

 それと同時に、ぴたりと風が止んだ。

 ――静寂。

 まるでこの空間だけが、時を止められたかのようであった。

 綾子はごくりと唾を飲む。

 すると――

 「……たすけて……」

 誰かの声が、耳元で囁いた。

 「っ!」

 思わず振り返るが、そこには何もない。

 「綾子?」

 エドアルドが怪訝そうに彼女を見た。

 「今……誰かが」

 「何も聞こえなかったが」

 綾子は背筋に寒気を覚えた。

 ――人にしか聞こえぬ声。

 まさか、本当に――?

 彼女が混乱する中、前方にぽっかりと開けた空間が見えてきた。

 月の光が僅かに差し込む、小さな祠。

 その前に――ひとりの女が、座り込んでいた。

 着物の裾は泥にまみれ、乱れた髪が顔を覆っている。

 「……誰?」

 綾子が問いかけると、女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞬間、綾子は息を呑んだ。

 ――女の瞳が、ありえぬほど赤く染まっていたのだ。

 「……お前は」

 エドアルドが警戒するように、女を睨む。

 しかし、女は何も言わず、ただじっと綾子を見つめていた。

 「……あなた、は」

 綾子は、なぜだか胸が締めつけられるような感覚を覚えた。

 女は、微かに唇を震わせながら――ぽつりと呟いた。

 「……鬼の、花嫁……」

 「――え?」

 綾子の心臓が、大きく跳ねた。

 花嫁? 鬼の?

 「……お前、何を知っている」

 エドアルドが一歩踏み出す。しかし――

 その瞬間、女の体が、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 まるで人形のように。

 「……っ!」

 綾子は思わず口を押さえた。

 それは、まさに幻のように。

 風が吹き抜けると同時に、女の姿は、霧散した。

 ――ただ、そこに残ったのは、一枚の古びた紙だけ。

 綾子は震える指で、それを拾い上げた。

 『――鬼ノ花嫁ヲ捧ゲヨ』

 書かれていたのは、それだけだった。

 「……鬼の花嫁」

 綾子は呆然と呟いた。

 「迎えの者……」

 エドアルドは忌々しげに唇を噛む。

 「奴らは、何かを企んでいるな」

 「私は……」

 綾子は紙を握りしめたまま、ふるふると首を振る。

 鬼の花嫁――それが何を意味するのか。

 そして、なぜ、自分がそれを聞かされたのか。

 胸の奥に広がる不安を振り払うように、綾子は静かに呟いた。

 「……このままでは、終われません」

 エドアルドは一瞬、彼女を見つめた。

 やがて、わずかに苦笑する。

 「……お前は、強いな」

 「そんなこと、ありません」

 「いや、強いさ」

 エドアルドは、ふと手を伸ばし、綾子の頬に触れた。

 彼の手は、驚くほど温かかった。

 「……約束しよう」

 「……?」

 「私は、お前を守る」

 エドアルドの瞳が、月の光を受けて、深く煌めいた。

 綾子は、その瞳を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

 森の闇はなお深い。

 しかし、その奥に秘められた真実を追い求め、二人は再び歩みを進めた。
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