退廃成人

阿弖流為

文字の大きさ
上 下
17 / 30

金の問題

しおりを挟む
 インターホンの画面に映るスーツ姿の男を見て、私は一瞬、心臓が止まったような感覚に陥った。

 ——ついに来た。

 頭の中が冷たく冴え渡る。
 私は深く息を吸い、玄関の扉を開けた。

 「……どちら様でしょうか」

 ドアの前に立っていたのは、四十代半ばほどの男だった。
 黒いスーツに、安っぽいネクタイ。
 鋭い目つきが、獲物を見定めるように私を見つめている。

 「奥さんですよね?」

 私の名前を言い、確認するように微笑んだ。

 「お話があるんですが、少しお時間よろしいでしょうか」

 私は黙っていた。

 何を言われるのか、わかりきっている。

 「……和義の借金、ですね?」

 男の笑みが少し深まった。

 「話が早くて助かります」

***

 リビングに男を通す気にはなれなかった。

 私は玄関のドアを少しだけ開いたまま、男の話を聞くことにした。

 「ご主人、和義さんが、うちからお金を借りていましてね」

 男は懐から封筒を取り出した。
 中には、借用書のコピーが入っていた。

 私はそれを受け取り、目を走らせる。

 ——三百万円。

 私は眉をひそめた。
 夫がいくら金に困っていたとしても、ここまでの額を借りるとは思わなかった。

 「ご主人、最近お会いになっています?」

 私はゆっくり首を横に振った。

 「いいえ。彼は家を出ました」

 「なるほど、それは困りましたねぇ」

 男はポケットから煙草を取り出し、くわえた。

 「ちょっと失礼」

 そう言うと、火をつける前に私の顔をじっと見つめた。

 「奥さん、どうします?」

 私は言葉を失った。

 「……どうする、とは?」

 「ご主人、今どこにいるかもわからないんでしょう?」

 私は息をのんだ。

 「つまり、この借金、あなたが払うってことになりますよ」

 血の気が引いた。

 「……そんな」

 「いやいや、奥さん。法律上はともかく、現実問題として、うちもね、お金を返してもらわなきゃ困るんですよ」

 男は肩をすくめた。

 「だから、ご主人が払えないなら、奥さんが払うしかない」

 そう言って、男は封筒を軽く叩いた。

 「三百万円。すぐに用意できますか?」

***

 私は呆然としたまま、男を見つめた。

 そんな大金、あるはずがない。

 和義は、こんな額を何に使ったのか。
 女か。ギャンブルか。それとも——。

 私は拳を握りしめた。

 「……彼が払うべきお金です。私には関係ありません」

 男は笑った。

 「奥さん、それは違うでしょ」

 「違わないわ」

 「でもね、奥さん」

 男は煙草をくわえたまま、少し身を乗り出した。

 「うちの会社も、そう簡単に諦めるわけにはいかないんですよ」

 私は無意識に後ずさった。

 「だからね、奥さん。ご主人が見つかるまで、せめて少しずつでも返してもらえませんか?」

 私は押し黙った。

 男はふっと笑い、名刺を差し出した。

 「今日のところはこれで帰ります。でも、近いうちにまた来ますよ」

 そう言って、男は玄関から去っていった。

***

 私はその場に崩れ落ちた。

 ——三百万円。

 夫は、私に何も言わずに、こんなものを背負わせたのか。

 悔しさが込み上げる。

 私は立ち上がり、スマートフォンを手に取った。

    夫に電話をかける。

 呼び出し音が鳴る。

 ——出ろ。

 ——今すぐに。

 私は強くスマホを握りしめた。

 だが——

 「……おかけになった電話番号は、現在使われておりません」

 ——夫は、私からも逃げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

処理中です...