退廃成人

阿弖流為

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良い妻

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朝食の空気は、相変わらず淡々としていた。
 コーヒーの香り、バターが溶けたトーストの匂い、新聞のめくられる音——そのすべてが、もう何年も変わらぬ朝の景色だった。

 けれど、私の心は微かにざわついていた。

 昨夜、夫に「離婚したい?」と聞いたときの彼の表情。
 それを思い出すたび、胸の奥がざらりと軋む。

 彼は答えなかった。
 私はそれを「沈黙が答え」と受け取るべきなのか、あるいは「本当にわからないだけ」なのか、考えあぐねていた。

***

 夫は食事を終えると、いつものようにネクタイを締め、玄関へ向かった。

 「行ってくる」

 「いってらっしゃい」

 何の感情も乗せないまま、その言葉を交わす。
 私たちは、まるで機械のように「夫婦」を演じていた。

 けれど、私は知っている。

 夫のスーツのポケットには、見知らぬ女の香水の匂いが染みついていることを。

 彼のスマートフォンには、私には決して見せようとしない通知が届くことを。

 そして、彼が本当はどこへ行くのかも——。

***

 玄関のドアが閉まり、静寂が訪れる。

 私はゆっくりと息を吐き、食器を片付ける。

 何も考えたくない。

 このまま、何も知らないふりをして生きていけたら、どれだけ楽だろう。

 だが、心の奥底で何かが軋み始めている。

 このままでいいのか?

 このまま「知らないふり」を続けて、何十年も生きていくのか?

 ——もう、そんなのは耐えられない。

 私は、夫の部屋へ向かった。

 鍵のかかった引き出しを開けるために。

***

 夫の部屋は、私が知る限りいつも整理整頓されている。

 だが、その整頓ぶりが逆に不自然だった。
 まるで、「余計なもの」をすべて隠そうとしているかのように。

 私はデスクの引き出しに手をかけた。

 鍵はかかっている。

 当然だろう。

 夫は、私がここを開けようとすることなど考えもしないはずだ。
 なぜなら、私はこれまで「そんな妻」ではなかったのだから。

 でも、もう違う。

 私はクローゼットから夫の予備のジャケットを取り出し、ポケットを探る。
 そして、すぐに小さな鍵を見つけた。

 鍵を差し込み、ゆっくりと回す。

 カチリ——

 引き出しの中には、一冊の黒いノートがあった。

***

 私はそれを取り出し、慎重にページをめくる。

 そこには、夫の乱雑な文字で日付と短いメモが並んでいた。

 ——「Mと会う。いつものホテルで。」

 ——「仕事の後、Mと食事。楽しかった。」

 ——「Mが少し疲れているようだった。次はプレゼントでも持って行こうか。」

 私はそのページを見つめたまま、静かにノートを閉じた。

 「M」

 その名前が何を意味するのか、考えるまでもなかった。

 だが、不思議と冷静だった。

 怒りも、悲しみもなかった。

 ただ、「ああ、やっぱり」という感情だけが残った。

 私はそっとノートを元の場所に戻し、鍵をかけた。

 それから、ゆっくりとリビングに戻る。

 コーヒーはもう冷めきっていた。

***

 夫は、私を裏切っていた。

 でも、私はすぐに問い詰めたりはしない。

 なぜなら、これはただの「始まり」に過ぎないからだ。

 私は今まで「受け身」の妻だった。
 夫の言うことに従い、夫の帰りを待ち、夫の嘘に目をつぶる、そんな妻だった。

 でも——

 これからは違う。

 私はもう、夫の「良き妻」ではいられない。

 物語は、ここから動き始めるのだから。
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