宵の太陽 白昼の月

冴木黒

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春の夜の約束

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 一通りの行儀作法は晩餐会までの短い時間で、フェルディリカとコザによって教えこまれた。
 ナイフとフォークとスプーンは外側から順に取ること。
 スープを飲む時は音を立てずに、手前から奥に向かってスプーンを動かすこと。
 ナイフとフォークの置き方は食事中か、食後によって変わるということ。
 肉はナイフとフォークを使って、一口大に切り分けること。
 飲み物はグラスの下側を持つこと。
 縦長のテーブルには王とフェルディリカ、それに数人の貴族たちがいて、入り口に一番近い席で、ディアは教えてもらったことを何度も頭の中で繰り返す。
 間違わないように、行儀よく。そればかり気にしすぎて、せっかくの料理の味も正直よくわからない。
 そんないっぱいいっぱいのディアの耳に、フェルディリカの話す声が入ってくる。

「お父様、ディアは世界の扉を探して旅をしているのだそうですよ」
「ほう?」

 王の視線がディアに向けられ、ディアはフォークを肉に突き刺したまま固まった。
 他の貴族たちも一斉にディアを見る。

「あれはただの言い伝えではないのか?」
「わかりません。あるといいなって思ってますけど、実際にはないのかもしれません」
「アルバ族だったか? 宵の太陽と白昼の月、わしも昔はもう一人の自分がいるのかと考えては胸を躍らせたものじゃ」
「え、本当ですか? 王様も?」

 隣からコザにこれと叱られて、ディアはしまったという顔をする。
 王は笑って軽く手を振ってみせた。

「よいよい、気楽にしてくれ。どうせ身内しかおらんのだ。わしがその話を読んだのは幼い子供の頃でな、もう一人自分がいたなら、嫌いな勉強を代わりにしてくれないだろうか、自分の代わりに叱られてはくれないだろうかなどとよく考えたものだよ」
「まあ、お父様ったら」

 フェルディリカがくすくすと笑う。

「それでこれからお前たちはどこに向かおうとしているのかね?」
「はい、ゼベルに行こうと思って。シオンさんが、あ、仲間の一人なんですけど、すごく頭が良くてわたしに協力してくれるって言ってくれてるんです。大学になら本がたくさんあるから何かわかるかもしれないって」
「ふむ、ゼベルか……」

 王は何やら仔細ありげに、顎の髭を撫ぜて呟く。
 居並ぶ貴族たちもそれぞれ顔を見合わせていて、フェルディリカとディアだけが蚊帳の外だ。

「どうかなさったのですか?」
「ああいや、わしが、正確にはあの魔族がだが、攻め込もうとしていたのがそのゼベルでな」
「そう、だったのですね……」

 フェルディリカはまるで恐ろしい物を目の当たりにした時のように顔を強張らせた。

「顔色が優れませんね、フェルディリカ」

 表情を動かさず言ったのはフェルディリカの正面に座る年配の女性だ。
 確か王の姉、フェルディリカにとっての伯母と聞いた気がする。
 フェルディリカは無理に微笑み、椅子から立ち上がった。

「ごめんなさい。しばらく外の風に当たってきます」
「ではわしがお供を」
「ああああの、わたし! わたしが一緒に行きます!」

 コザを遮り、これ幸いとばかりにディアが申し出る。
 体調の優れないフェルディリカを口実にするのは申し訳なかったが、一刻も早くこの緊張感から解放されたかった。
 フェルディリカに付き添って、広い庭に出る。
 夜で外は暗かったが、生垣沿いの小道には等間隔で灯りが設けられていた。
 ノイバラの垣根の脇を通って歩いてゆくと、石造りの四阿があり、ベンチに二人で並んで腰掛ける。

「大丈夫? フェリカ」
「ええ」

 春先とはいえ、夜の空気はまだ冷たい。
 風が吹いて、若い緑の葉が揺れる。
 木々の枝先になる淡い桃色の蕾はまだ小さく、開くのはまだ先のようだ。

「わたくしね、実はそんなに実感がなかったの」
「?」
「なんて言ったらいいのかしら、お父様の様子がおかしいことに気づいて、良くない噂を聞くようになって、それが本当なら止めなくちゃって思って、それで城を出て鏡を手に入れて、どうにか全部解決してほっとしたのだけれど」
「うん」
「でも、さっきお父様の口からゼベルに攻め込もうとしていたのだと聞いて改めて思い知らされた。あのまま黙って見過ごしていたら、本当に大変なことになっていたんだって。そう思ったら今更恐ろしくなってしまって」

 フェルディリカはディアを振り向いて言う。

「あなた達のおかげよ。わたくし一人ではきっと何もできなかった。鏡を手に入れることさえも……」

 風に揺れる銀灰色の髪。フェルディリカは頼りなげな笑みを浮かべている。
 綺麗だなあとディアは思う。
 咲いたばかりの花みたい。可憐で、少し儚い感じがあって。首や肩も華奢で、指も細くて、肌も日に焼けていなくて白い。自分とは全く異なる世界で生きてきた人。
 でもディアはもう知っている。
 彼女が内に秘めている強さも温かさも優しさも。

「ねえフェリカ。わたしはフェリカと会わなかったら、今頃何も知らないままゼベルを目指してた。どこかでラトメリアがゼベルと戦争になるかもって噂を聞いたとしても、わたしは何かしようって思わなかったと思う。フェリカが何とかしようと思わなかったら、きっと何も変わらなった」

 国同士のことを自分がどうにかできるなんて、きっと思わなかった。
 そんな噂を聞いたら、ゼベルに行くのは危険だからやめようということになっていたかもしれない。

「もし何も知らずにゼベルに行ってたら、わたしどうなってたかわからない。巻き込まれて大変な目に合ってたかも。フェリカはわたしを助けてくれたんだよ」

 ディアはフェルディリカの前に右手を差し出す。

「ありがとうフェリカ。あなたのおかげで、わたしは旅を続けることができるの」

 フェルディリカは何度も目を瞬いて、ディアの顔を見つめる。
 そしておそるおそるといった様子でディアの手を握り返すと、僅かに逡巡し、それから決心して言った。

「あのね、ディア。わたくしあなたにずっと言いたかったことがあるのだけど」
「なに?」
「その、わたくしとお友達になってもらえないかしら?」
「え?」

 ディアがぽかんと口を開け、フェルディリカはともすれば泣きそうな顔になる。

「ダメですか?」
「だ、だ、ダメっていうか全然ダメじゃなくて、いいの!?」

 これまでディアには友人と呼べるような存在がいなかった。
 ずっと森の奥で母親と二人暮らしで、たまに町に出てることはあっても、持ってきたものを売ったり必要なものを買ったりするだけで、用が済めばまたすぐに家に帰っていくだけだったから。
 旅を始めてからはそれまでと比べてたくさんの人と出会ったが、ほとんど自分よりもずっと年上の男性ばかりだった。
 その中でもシオンやソロはまだ年が近い方で、気安さだってある。出会ってまだ日は浅いけれど、同じ目的を持つ旅の仲間だ。
 だけど、

「うれしい! わたし女の子の友達初めてなの!」

 ディアは握った手を上下に振り、それからちょっと照れ臭そうに笑った。

「これからもよろしくね、フェリカ。ってこんな感じでいいのかな?」
「ごめんなさい、わたくしにもわからないの。だってわたくしもあなたが初めてのお友達なんですもの」
「そうなの?」
「ええ」

 フェルディリカは僅かに首を傾け、苦笑する。
 そしてディアの手を握ったまま言った。

「旅が終わったら、またラトメリアに……わたくしに会いに来てくれますか?」
「うん!」

 本当は一緒に行けたらいいのにと思う。
 一緒に色んなところに行って、美味しいものを食べて、見たことのないものを見て、そんな風にできたらいいのに。フェルディリカと一緒だったら、旅はきっと、もっと楽しいものになる。
 だけどそれができないことくらい、ディアにだってわかる。
 フェルディリカは一国の王女様なのだ。

「その時にはあなたの旅の話を聞かせてください。それからそう、刺繍の仕方も教えてもらう約束でしたね」
「刺繍、明日でもいいよ。シオンさん明日は丸一日書庫に籠るって言ってたから」
「いいえ、先の楽しみにとっておきたいのです」
「そっか」
「それで次に来る時はぜひゆっくり滞在して。できれば街が祭りで賑やかになる時期に」
「お祭り?」
「ええ、秋の収穫祭。その頃にはこの庭の薔薇も咲いてとても美しいから、あなたにも見てもらえたらなって」
「見に来るよ、絶対に。あ、でもね」

 ディアはぽいぽいと窮屈な靴を脱ぎ捨て、裸足になる。
 素足に石床の冷たさが心地よかった。

「次はこういうのナシで」
「まあ」

 フェルディリカは小さく開いた口に手を当てぽかんとしていたが、その後でふふと笑った。
 ディアも笑い、そして小指を出して言った。

「約束ね」

 まだ少し肌寒い春の夜。
 半分欠けた月が中天にあって、その傍らには青い星が一際輝いていた。
 緑溢れる庭の片隅。風に擦れる葉の音。ふわりと広がる香水の香り。
 フェルディリカの白い花みたいな、綺麗な笑顔。

 忘れないでおこうと思った。


 騒動の翌日。シオンは宣言通り、城の書庫から出てこなかった。
 その間、ディアはソロと共に買い物に出かけた。旅に必要ないくつかの道具類と、保存のきく食料。後は靴を買い替えた。動きやすさを旨とした服と、底が厚くて丈夫だけれど軽い靴。
 何せこれからゼベルへ行くのに、山越えをしないといけない。
 この先にもいくつか小さな町や村はあるらしいが、ルアランの方が店が多く、品ぞろえもいいからと今の内にできるだけのものを整えておく。
 買い物を終えると、ディアは宿の部屋に篭ることにした。
 旅に出る時に持ってきた裁縫道具。あまりたくさんだと邪魔になるからと、限られた分しか持ってきていない。糸の色は少ないけれど、何とかなりそうだ。
 ディアは備え付けの小さな机で作業に没頭する。
 ソロはベッドに寝転がって休んだり、地図を確認したりしていたが、突然ふらりとどこかへ出かけて行き、しばらくして紙に包まれた何かをいくつも抱えて帰ってきた。
 食欲をそそるいい匂いが鼻先をくすぐって、腹が鳴る。
 ふと窓の外を見て、日が暮れかかっていることに初めて気が付いた。
 屋台で買ってきたというそれらを食べ、腹が満ちると、ディアは再び作業に戻った。
 それからは指先を休むことなく動かし続け、作業を終える頃には真夜中になっていた。
 ソロは知らないうちに寝ていて、ディアも隣のベッドに歩いて行くと横になった。目を閉じて、次に気が付いたら朝になっていた。
 食堂で朝ごはんを食べ、荷物を持って城に向かう。
 応接室で待っていると、目の下に隈をこしらえたシオンがやってきた。

「よ」
「おはようシオンさん」
「おはようございます……」

 声には張りがなくて、彼には珍しく気だるげな様子だ。
 ソファに座り目頭を抑えるのを見て、ディアが言う。

「まさか寝てないの?」
「いやーさすが城の書庫って感じ。すごい蔵書の数でさ。アルバ族と扉関係のだけでもそこそこあって、ついでにこっちの研究で役に立ちそうなのとか色々見てたら、いつのまにか朝になっててビックリした。まあ読み物に夢中で夜が明けるなんて、割とよくあることだけど」
「いや、ねぇだろ」
「あっええと、ええと、お茶飲む? 甘いの食べる? それか寝る?」
「ありがとうディア、二時間ほど寝たからたぶん大丈夫」

 ディアがまだ口のつけていないお茶のカップと焼き菓子の皿をシオンの方へと押しやる。
 シオンはクッキーを一つ摘まんで、口に放り込む。

「朝メシは?」
「用意してくれてたんで食べてきました」
「そんで収穫はあったのかよ?」
「そうですね、いくつか。詳しくはまた道中に話しますけど、ソロさんが持ってる宝石のあれの」

 扉をノックする音がして、シオンは一旦口を閉じる。
 部屋に入ってきたのはフェルディリカで、彼女の後ろにはコザが控えていた。

「フェリカ!」

 ディアはソファから立ち上がり、小走りに駆け寄る。

「おはようディア。お待たせしてごめんなさい、みなさん。最後にどうしてもご挨拶をしておきたくて」
「いいの、わたしもフェリカに渡したいものがあったから」

 ディアは鞄の中から四つ折りにしたハンカチを取り出し、フェルディリカの前で広げて見せる。

「急いで作ったからちょっと荒いんだけど……」

 薄緑の布地に五色の糸で施された刺繍。赤と青と白と橙、それから薄い桃色の、渦巻く蔦のような短い曲線がいくつも織り成し描かれた紋様。
 フェルディリカはディアの手からハンカチを受け取ると目を輝かせた。

「きれい! これをわたくしに?」
「うん」
「ありがとう! それならわたくしも何か、そうだわこれなんてどうかしら!」

 いかにも高価そうなペンダントを外して言うものだから、ディアは驚きぶんぶんと首を横に振った。

「だだだだめだよ、こんな高そうなものもらえない!」
「そんな、でもそうしたらどうすればいいの? わたくしはあなたのように何かを作ることなどできないし」
「ありがたくもらっときゃいいじゃねえかよ、金に換えりゃ旅の資金にできるし」
「ソロは黙ってて、大体お返しが欲しくて渡したわけじゃないし。いいよ、気にしないで」
「それはわたくしが嫌なの!」

 ちょっと怒ったようにフェルディリカが言い、シオンが助け船を出した。

「それでは姫様、その御髪を飾るリボンを贈られてはいかがでしょう? 俺の故郷では、旅立ちの際、親愛の証に、対になる物の片方を相手に渡す風習があります。それを見る度に自分を思い出してくださいという意味でもありますが、そこにはいつかまた会えるようにという想いも込められているのだとか」
「あら、それはとても素敵ですわね」

 フェルディリカは頭に手をやり、右側のリボンをするりと解いて、ディアに渡した。
 彼女の銀色の髪によく映える真紅のリボンはとても手触りが良い。ディアはもらったリボンを鞄の紐に結び付ける。

「ディア、あなたに幸運がありますように。元気で、必ずまた会いましょうね」

 フェルディリカは少しだけ寂しそうに微笑む。
 旅に出たら、きっとしばらくは戻ってこられない。
 でも、約束をした。
 目的を果たしたら、その時にもう一度。

「うん、また来るよ絶対に。今度は秋に。お祭りの季節に」

 その時にはたくさん話をしよう。
 旅の話を。どこに行って、何を見て、どんなことがあったか。
 一緒に刺繍をしながら。
 そして教えてもらうんだ。祭りのことや、庭の花のこと。
 一面に咲くのだという薔薇を一緒に見ながら。

「いってらっしゃい」

 フェルディリカが言って、ディアはそれに応える。

「いってきます」
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