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第二章 その感情の名を知る
55、やんごとなき方の為のやんごとないお願い
しおりを挟む「これから部屋の中で起こる事に対して、見なかった事にしていただけると助かります」
「はぁ?」
執務室の扉の前で警護任務に就いていたノイスに『お願い』を口にすれば、彼は明らかに眉を顰めた。
「やんごとなき方の為の、やんごとないお願いです」
「黙って、言う通りにしろ」
「訳が分かんないんですけど??」
事情を知っているアーカルドが、視線で圧を掛けてくれる。
それを受けたノイスは困惑したようにリューイリーゼとアーカルドの顔を見比べ、周囲を窺って声を顰めた。
「え、何……? リューイリーゼ嬢、陛下の寝込みを襲う訳じゃないよね?」
「淑女がそんな事する訳ないでしょう」
「だよね!」
「ですが、あまり人に知られると、私と陛下の外聞というか色々な諸々がとても恥ずかしい事になります」
「そんな外聞が恥ずかしくなる様な事をする淑女っている……? 本当に何をするんだよ……」
「大丈夫です。怪しい事はしません」
「既に充分過ぎる程怪しいんですけど??」
自分でも言葉が足りないのは分かっているが、とりあえず言う通りにして欲しい。
そんな願いを込めてじっと顔を見つめれば、ノイスはハアとため息を吐いた。
「……うーん、まあ、リューイリーゼ嬢なら大丈夫か。むしろ、恥ずかしくても良いよ。どんどんやって。あの方に色々と分からせてやって」
「……何を分からせろと……?」
期待の込められた眼差しに、リューイリーゼの方が困惑してしまう。
眉を顰めた彼女に、ノイスは意味深な笑みを浮かべるだけだった。
***
「やんごとない方の為の、やんごとないお願いです」
「は?」
ノイスにしたお願いと同じ事を控室にいたアリーテに頼めば、彼女は目をぱちくりと瞬いた。
それでから、アーカルドの方へと視線を向ける。
彼が重々しく頷くと、アリーテは何かを納得したように頷き返した。
「別に、陛下の寝込みを襲う訳じゃないのよね?」
「皆、私に何を期待しているの?」
ノイスと同じような確認をされ、思わずげんなりとする。
そうではないけど、あまり人に知られると拙いのだと言えば、アリーテはふうんと面白そうに笑みを深めた。
「あなたの事だしね。陛下にとって悪い事でないなら、私は何も言わないわ。頑張ってね」
「アリーテ、有難う」
「私にくらい言ってくれても良いじゃない、水臭いじゃないの、とは思っているけれど」
拗ねたようなアリーテに、乾いた笑いを浮かべる。
言いたいのも山々だが、とりあえずは結果がどうなるかなのだ。
成功したらね、と礼を言って、チラリとアーカルドに視線を向ける。
「……アーカルド様、今がチャンスですよ」
「え?」
「りゅ、リューイリーゼ殿……」
「頑張ってくださいね!」
前準備は終わっている筈なのに、未だに何のアクションも出来ていないアーカルドを小声でけしかけ、執務室へと続く間仕切り扉へと向かう。
背後ではアリーテがキョトンとした顔をして、アーカルドがあわあわと狼狽えているのが見えた。
どうか二人が上手くいきますように。
そう願いながら、執務室へと入った。
***
執務室に入ってまず気付いたのは、小さな呻き声のようなものが聞こえる事だ。
いつものカウチの上で、ラームニードが横になって目を閉じている。
しかしその端正な顔は険しく顰められており、額に脂汗が滲んでいた。
ラームニードは、時々夢に魘されている事がある。
流星祭が近付いてからは、特にだ。
その原因を何となく察しつつも、リューイリーゼはただ静観する事しか出来ない。
それが、彼にとって己でも触れ難い禁忌のようなものだと理解していたからだ。
それでも、苦しげに眉根を寄せるラームニードがどうにも不憫に思えて、そろりと近寄る。
そっと布で顔の脂汗を拭い、薄布をラームニードの腹辺りに掛け直した。
これからどうしようかと考えるリューイリーゼの耳に、思いがけない声が届く。
「……リューイリーゼ」
突如名を呼ばれて驚いて斜め下に視線を戻せば、赤い瞳と目が合った。
いつの間にか目覚めていたらしいラームニードが、眠たげな視線をこちらに向けている。
「申し訳ございません、起こしてしまいましたか?」
「……か」
「え?」
「今日は、頭を撫でようとしないのか」
一瞬何を言われたのか分からず、漸く思い当たった事に思わず顔が赤らむ。
「もう! 何時の事を仰っているんですか! いい加減にそれはお忘れ下さいと何度も言っているでしょう!」
批難がましい視線を向ければ、ラームニードはおかしそうに笑いながら身を起こした。
その表情に、先程までの苦悶の色が見られない事に、ほんの少し安堵する。
「それで? ──何の用だ」
カウチに座り直したラームニードが、まず口にしたのがそれだ。
核心の籠もった瞳に見つめられ、リューイリーゼは一瞬息を詰まらせる。
だから、この人には隠し事など出来やしないのだ。
それでも一度心に決めたのだから、もう突き進むしかない。
リューイリーゼはポケットに忍ばせていたものを取り出し、ラームニードへと差し出した。
「どうかお受け取り下さい」
「何だ?」
「……お渡しするべきか物凄く迷ったのですが、折角用意してしまった事ですし、もういくしかない、と思いまして」
「だから、何を」
ラームニードは怪訝な顔をしながらも、包みを開けて中の物を取り出し、目を瞠る。
中に入っていたのは、上等な絹のハンカチだ。
隅にはフェルニス王国の国章にも使われている三本足の鴉が刺繍されている。
信じられないとでも言わんばかりの表情で自分を見つめてくるラームニードに、何だか落ち着かない気持ちになってきた。
それでも、きっと自ら言うまで、逃してはくれないだろう。
僅かに視線を逸らしながら、それでも告げた。
「……お守りです。流星祭の」
流星祭のお守りはごく親しい特別な関係の者同士で贈り合うものであり、例外はなかった。
ラームニードの家族でも婚約者でもないただの侍女でしかないリューイリーゼが、贈る資格など本当は微塵もない。
けれど、どうしても渡したいと思ってしまったのだ。
「私などがこの様な物を陛下に差し上げるなど、無礼にも程がある事は分かっています。……けれど、どうしても、陛下の一年の無事をお祈りしたくて」
ラームニードに渡す事が出来る人間は現状誰も居ないのだと気付いてしまったら、居ても立っても居られなかった。
自分では買わないような値段の絹布と刺繍糸を購入し、彼のこの一年の健康と安全を祈って刺繍を入れた。
これは、弟に向けるような姉心だろうか。
いいや、違う。
そんな穏やかなものではないと、既に知ってしまっている。
こんなものを主君に向けるべきではないと、思ってはいるのに。
「お叱りは幾らでも受けます。ですが、どうか受け取って頂きたいのです」
そのルビーのように赤い瞳が、じっとリューイリーゼを見つめている。
まるで彫像のように固まっていたそれが、不意に綻んだ。
「……叱りなど、するものか」
ラームニードは手の中のハンカチを宝物でも掴むような手付きで優しく、それでも確かに握り締めた。
その顔に浮かんだ感情を、一言で表現するのは難しい。
喜び、感動、驚嘆、物悲しさ。
全てを混ぜ込んだような複雑極まりない表情で、今までに無い程柔らかく微笑んだ。
「───……有難う、リューイリーゼ」
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