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ヨルク視点 前編
しおりを挟むヨルクはバクバクと今まで経験したことがない程暴れ回る心臓の辺りを手で押さえながら、つい数十秒前に通ったばかりの廊下を戻っていた。
(なんだ、なにが起こったんだ、どうして女神が私の前に!あそこには、私と過ごしてくれる慈悲深き娼婦がいると聞いていたのに!あんな女神が娼婦なわけがない!)
心の中で幾度も女神の御身を思い返しながら、ヨルクは混乱のまま廊下の中央にしゃがみ込んだ。心臓が煩く、体力はある方だと自負していたのに全力疾走で数時間走った後かのように息切れと動悸が収まらない。きっと顔は真っ赤で、目も当てられない醜悪さを漂わせていることだろう。
艶めかしくさらりと揺れたまっすぐな髪は、黒くはっきりとした色をしていてこの世のものとは思えない美しさだった。薄く整った眉とヨルクのことを見つめたつぶらな瞳は儚くも抗えない色気を放っていたし、ナイトドレスに秘められた身体は全貌は分からないまでも細くまるで彫刻の女神像をそのまま体現したかのようなシルエットをしていた。娼館の一室等これっぽっちも似合わない女神は、酷く醜いヨルクの顔を見て表情を歪めることなく、無垢に驚きで満ちた表情を浮かべ。それすらも、やはり同じ地にいるべき者ではないのだとヨルクへと知らしめるようだった。
何かの間違いに違いない。きっと、ヨルクの願望が作り出した妄想だろう。
そう結論付けたヨルクは、漸くのろのろと廊下を再び歩き始めた。――あれ程美しい女を見たことがあっただろうか、否、ない。いくら自分の容姿に絶望し救いを求めていたとはいえ、あのような美を集約したような女神を妄想で作り出してしまうとは。ヨルクは自分で自分のことがおそろしくなった。
ヨルクのことを憐れんだ女神が一瞬だけでもとヨルクを慰めてくれたのか、それとも自分のエゴで嫌がる女を抱こうとするヨルクへ女神が天罰を与えたのか。どちらにしてもヨルクは女神への慈悲を請い、この先一生を敬虔な使徒として生きようと決めた。元々己の境遇から「女神なんて存在がいるわけがない」と微塵も信心深さの欠片もなかったヨルクがそう決意するほどに、女神は神々しく美しかった。
「……どうなさったんで」
三度目のことだったからだろう、娼婦の部屋に行きとんぼ返りで戻ってきたヨルクを見て、マルタは眉を顰め表現し難い表情を浮かべる。恐らく同情の色が滲んでいたのだろうが、それが気にならない程にヨルクの脳裏には女神の姿が焼き付いていた。
「どうやら、私は間違えて女神のおわす部屋へと入室してしまったようだったので戻ってきたのです」
突然の頭の沸いた発言――ヨルク自身は至って真面目なのだが――に、マルタは客商売ということも忘れたのか「は?」とヨルクへと聞き返した。ヨルクが己の見た美しき女神の姿を話すと、最初の内は可哀想なものを見る目をしていたマルタが、ははあ、と納得したように笑みを浮かべる。
「確かに、女神のように美しい子ですよねえ。今までウチで働いていた娼婦の中でも、別格でさあ」
「女神なのですから、別格なのは当たり前でしょう」
「あんだけ別嬪ならきっと引く手あまただろうに、人攫いに遭うなんて可哀相で。ウチとしては娼婦として働き続けてくれれば嬉しいけども、まあ、お客さんが望んであの子が了承したなら、買ってもらっても構いませんよ。お金さえ払ってくれりゃあね」
女神を買う等――…とヨルクが思ったところで、漸くマルタの発言の意味を考え直す。ヨルクは真実あの部屋にいたのが女神だと思って話をしているのに、マルタの話しぶりはまるで違う。同じ容姿のひとを語っているというのに、ヨルクは女神、マルタは人攫いに遭って娼館に買われた一人の娼婦という認識で会話を進めている。あまりの違和感に、漸くあの女神が女神ではないのではないかもしれないという可能性へ思い至った。
「……マルタ殿。もしかして、あの美しい女性が、私の相手だというのですか」
「ええ、そうですよ。ちゃんと部屋番号を伝えたでしょう。黒髪黒目の、顔も身体も美しい娼婦ですよ」
「…………なんと、いう……」
あまりのことに、ヨルクはくらりと眩暈を覚えた。あの、女神のように美しい女が、慈悲深き娼婦。
ここに至る経緯を思い浮かべながら、ヨルクはふらつく足になんとか力を入れ、気を抜けば倒れてしまいそうな身体を奮い立たせた。
◇ ◇
目の前の女が口元を抑えて顔を背けるのを見て、ヨルクは「またか」と心の中で落胆した。いや、落胆というと少し違う。どちらかといえば諦めの気持ちに近かった。
このような反応は人生で何度も見ていたし、この娼館でのことに絞って思い返しても既に二度目のことである。そう何度も繰り返し経験すれば、最初の頃に抱いていた絶望等の感情は段々と慣れて薄くなっていった。勿論、傷付かないわけではないのだが。
吐き気を催しているのか小刻みに震えながらも逃げようとしない女に「大丈夫ですよ」と声をかけ(声をかけることすらも申し訳なくなるが)、ヨルクはそういう行為のためにある部屋から一歩外へ出た。先程若干の期待を持って歩いた道程を、今度は真逆の気持ちで歩く。先程受付をしてくれた娼館の店主であるマルタが、ヨルクが戻ってくる様を見て申し訳なさそうな表情をしているのを見て、ヨルクの方が居たたまれなくなった。
――あの部屋で動けなくなっている女が、この受付で申し訳なさそうにしている女が、そして過去ヨルクを拒絶してきた女が悪いわけではないことを、ヨルクは知っている。すべては、他者に不快感を抱かせるほどに醜く生まれてしまった己の所為なのだから。
生まれてすぐからその醜悪な顔をしていたヨルクは、男爵家の人間――親、兄達、使用人達から大層嫌われて育ってきた。何しろ、ヨルクの父である男はでっぷりと豊満に脂肪が蓄えられた身体つきをしており、その身体に見合う丸々として貴族らしい顔はつやつやと油で輝いて瞼も頬も唇も見るからに柔らかそうで、多くの者から美形だと褒め称えられる男だった。一方の母も髪色だけは薄くぼんやりとしていたが、男と並べばそれはそれは映えるほっそりとした身体つきをしており、瞳や鼻等も小さく可愛らしく、道を歩けば大抵の男が一度は振り返るだろう美しい容姿をしていた。その二人から生まれた兄達も父親に似て美形であり、醜く生まれたのはヨルクただ一人であったのだ。
ともすれば不倫かと疑われるような落差であったが、元より父にべた惚れであった母はほとんど全ての時間を父と過ごしており、それ以外の時間も使用人の目のある屋敷内に留まっていたので、流石にそこで浮気を疑う者はいなかった。そうでなければ、きっと父と母の仲には亀裂が入っていたことだろう。
ともかく、ヨルクはそんな家に生まれた。
男爵家というかなり下の爵位であったものの貴族としての体面を大切にしていた彼らから分かりやすく虐待を受けることはなかったが、家の中ではいない者として扱われることも多く、ヨルクは貴族ながらに自分のことは自分でできる能力を身に着けた。身に着けざるを得なかった、というのが正しい。血の繋がった家族も、本来であれば仕える立場の使用人も、ヨルクの世話を焼こうとはしなかったので。
年が然程離れていなかった兄達はヨルク同様子供であったが故に多少は物を投げつけられたり暴言を吐かれたりすることもあったが、それは偶々屋敷内で彼らに遭遇してしまったときに発生するものであって、ヨルクがひっそりと部屋で大人しくしていれば大きな問題は起こらなかった。幸いにも、兄達は静かに隠れるように生活するヨルクを引きずり出してまで虐めてやろうという気はなかったらしい。きっと、視界に入ることさえ疎まれていたのだろう。
成年を迎え貴族として親としての務めは果たし終えたとばかりにお金を握らされたヨルクは、父から一つの屋敷を貰い受けた。貰い受けたとは名ばかりで、父自身の暮らす屋敷から追い出されたというのが傍から見ても明らかだった。その屋敷はひと一人住まない寂しい屋敷だったけれども、蔑みの目を向けられ続けていたヨルクにとっては安息の地と言っても過言ではなかった。
有り難いことに父が握らせたのはかなりの金額で、贅沢さえしなければ一生暮らせる程だった。きっと手切れ金のつもりなのだろうが、お陰でヨルクは自分が唯一得意としていた剣の腕を使い、顔を隠せる鎧を使用しながらの警備の仕事等である程度の稼ぎを保ちながら貯金を食い潰さずに生活することが出来ていた。
◇
それは、件の娼館に訪れて三度目のことだった。
前回受付をしていたマルタ(今日は何故か忙しなくしていたので何故かと問えば新しい娼婦が入ったのだと言っていた)に受け入れてもらえる娼婦がいるかどうかを確認すると、渋そうな顔をしたマルタが「ちょいと待ってくださいね」と奥へと引っ込んでいった。恐らくは今日出勤している娼婦達に姿絵を見せ、対応できる者がいるかを確認しに行ったのだろう。
もっと金額の安い廃れた娼館であれば、自身の醜さを表した姿絵などを見せなくても娼婦を買うことができる。一人で屋敷に暮らし人寂しさを我慢できなくなったヨルクは、度々そういうランクの低い娼館へも足を運んだことがあったが、結局のところ対面した娼婦達にこれでもかと嫌そうな顔をされた上に(それだけならまだ良いが実際に嘔吐されることもあった)「こんな男は相手できない」と拒否され、数回それを繰り返した後に出禁を食らってしまった。
そんなことを繰り返しとうとう行くところを失ったヨルクは、今度は比較的高級な娼館に目を付けた。正直ここまで嫌な思いをしてまで娼婦を買う必要があったのかと言えば甚だ疑問ではあるが、何年にも渡って一人きりの生活(使用人にすら自分の醜悪な面を毎日見せるのは可哀想だと思ったのでヨルクは誰一人使用人を雇っていない)を続けていたヨルクの人恋しさは既に限界に達していたし、半ば意地のようなところもあった。
そうしてこの娼館へと辿り着き、こういった高級娼館は事前に姿絵を描いて娼婦が買わせるかどうかを決める(それも娼婦や客によって対応が違うらしいが)ということを知った。一度目に娼婦を買えそうだと知ったときは内心小躍りしそうなくらい嬉しかったし、娼婦の部屋へと向かう足取りは軽やかだった。そのとき娼婦の姿絵も見せてもらったとは思うが、浮かれ切っていたので正直覚えていない。とにもかくにも、ようやくこの身体と心の渇きを満たすことが出来る――その一心だった。
結局は直接ヨルクの顔を見た娼婦から拒否を食らい、一層傷付いただけであったのだが。
ヨルクは、今回の挑戦で娼婦を買えなければ一生を清らかな身体のまま(顔は清らかとは言えないが)で終える心積もりだった。たとえマルタがヨルクを相手にできるような娼婦はいないと言っても、いると言われ向かった先で娼婦に拒否されても、これが最後。
勿論ヨルクの中の人肌への羨望も飢えも解消されはしないのだが、何度も自らに鞭を打つような心の痛みを繰り返す勇気もなかった。諦めたとはいえ、やはり傷付くものは傷付くので。ヨルクの仕事仲間であり同志であるハリスなどは仮面デー(客も娼婦も顔を隠す特殊な催事)で童貞を捨てたと話していたが、ヨルクとしては娼婦が本気で嫌がっているかどうかも分からない状況で事に及ぶというのには計り知れない拒否感があった。自分の立場を弁えていないとも思ったが、それをするくらいなら一生童貞でも良い。
そんな決意を胸にマルタの戻りを待っていると、数十分――今回はかなり待たされた――の後に、バタバタと騒々しい音がヨルクの耳へと聞こえてきた。どうやら小走りで戻ってきたらしいマルタが、「一人見つかったよ」とヨルクへ告げた。
「ありがとうございます。私のような者を受けて下さるとは、どんな方ですか?」
「ああ、ええと、今日来たばかりの子でね、経験とかは多分そんなにない……とは思うんですがね。なにしろ随分と綺麗な顔をしてるもんで、どうやら人攫いに遭ったようでして」
「人攫い……」
勿論公に認められた行為ではないものの、そのような違法なやりとりはある種よくあることだった。だからこそ顔身体が美しい者は一層の注意を持って外出しなければならない。成婚の証であり終身契約を示す指輪をしてさえいれば、その加護でもって攫われることはほぼないのだが、そうでない未婚の女は余程のことがなければ人の目のない場所へは行かない。
恐らくその隙を縫って攫われてしまったのだろう。可哀想だとは思うが、その一つ一つを取り立てることはできない。こういった娼館で働く者の大半はそういう者達で成り立っており、ヨルクもその恩恵に肖ろうとしているいわば共犯者の一人であったから。
「だもんで、姿絵とかはまだないんですが、それでも?」
「勿論。……本当に、その方が私と一晩過ごすことを良しとされたんですか?初めてここに来た時にも言った通り、私は、その。……そういった行為の、経験がないのですが」
「ウチとしても過去の二回は面目ないと思ってんで、ちゃんと本人にヨルク様の姿絵を見せて確認しましたよ。他にもお客さんはいますし、この娼館では扱ったことのないような美人だったこともあってちゃんと選んでもらったんですがね……」
マルタ自身も信じ切れていないのか、不思議そうな顔でそれでも本人がヨルクに買われると決めたのだと話した。その内容を、ヨルクも信じられない気持ちで聞いていた。正直なところ、半信半疑というよりも大半を疑うレベルで。
逸る心を、過去相対してきた娼婦達を思い浮かべて押し留める。一人の女が他の男達の姿絵(どういう顔の男達かは知らないが、少なくともヨルク程醜い顔の男はいないだろう)と見比べて自分を選ぶ等と、そのように都合の良いことがあるわけがない。
――そんな気持ちでヨルクを受け入れてくれるらしい娼婦の部屋の扉を開けたとき、この世に降り立った女神が如き女を見たヨルクが咄嗟に部屋を間違えたと思ってしまったのは、ある意味当然の結果であった。
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