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前編
しおりを挟む薄暗い室内に、大きめのベッドが一つ。ベッド自体はそれ程良いものではなく乗り上げればギシッと木が軋む音を立てるものの、布団やシーツは真っ白で清潔である。部屋の一番奥に置かれたベッドサイドには痛み軽減の効果のある香油等が置かれている。
その手前には小さい木製の丸机が一つと、同じ種類の木で作られたであろう椅子が二つ。机の上には気持ちばかりのお酒が用意されているが、アルコール度数が高いだけで美味しいものではない。これから起こることの緊張を紛らわすためのもの、らしい。ベッドとは反対の壁にあるガラスでできた扉の先には、浴室がある。先程シャワーを浴びたばかりなので、まだ浴室内は湿気と熱気に満ちておりガラスは曇っている。
もうすぐ到着するであろう来訪者を待つ間、ベッドに腰かけて一つの音も聞き漏らさないように耳への感覚を集中させていると、バタバタと慌てたような足音が聞こえてくる。そうして、急くように扉を開けたその人は。
「……すみません、部屋を間違えたみたいです」
ぱっちりと開かれたアーモンドの形をした青い瞳。すっとまっすぐに通った高い鼻筋。少し細めの綺麗に整った眉。見るからにすべすべであろう白い肌。ふわふわとして柔らかそうな猫っ毛の白金に輝く髪。中性的で細身ではあるけれども垣間見える首元や手は男性のそれで、声も少し高めだけれど落ち着いた耳に通る。ぽかりと開いた口唇は、薄くとも桃色に色づいている。天使かなにかかと見まがうレベルの美少年(美青年?)が本日より自分専用となった一室の扉を開いたかと思えば、すぐさまぱたりと扉を閉じてしまった。
本来ならばきっと追いかけて謝罪するべきであろう場面で動けなかったのは、一瞬見えた彼の容姿があまりにも美しかったからだ。あんな人、人生で初めて見た。多分、すれ違ったことすらない。
◇
日和、20歳女、東京出身。勿論立派に名字もあるが現段階では必要性がないので割愛とする。
両親が幼い頃に離婚し、女手一つで育ててくれた母が高3のときに倒れそのまま帰らぬ人となったので、大学の学費なんぞを払っている場合ではなくなり高校卒業後そのまま働き始めた。入った会社は俗に言うブラック会社で、サービス残業が積もりすぎて山となり、高圧的な上司と休息を許されない環境下で疲労が蓄積されすぎてすぐに身体を壊した。壊したけれども、それでも社畜は休めないので。
結局のところ、日和は限界を迎えた。いつ気を失ったのかは分からないが、目を覚ました時には、日和は両手首を縛られた状態でここ――娼館のベッドに横たわっていた。
当然最初は娼館であるとは露にも思わず、両手首を縛るという扱いにも関わらずベッドに寝かされている状況にこれは誘拐なのかどうか、誘拐されても親も誰もいないし身代金を払ってくれる人もいないけれど、と考えを巡らせている日和の元に、この娼館の店主らしいマルタという女性が現れた。
「こんな、天女様のような綺麗な顔してんのにねえ、人攫いに遭うなんて可哀相に。ただ、申し訳ないけれど、アンタを買った分とアンタの生活に必要な分のお金は、自分で稼いでもらわなくちゃならなくて」
意識のない内に、どうやら日和は人攫いに遭ったらしい。
黒髪黒目、一重で小さく、笑えば線になるだろう瞳。低い鼻と少しぽてっとした唇。日本人らしい塩顔である日和は、決して不細工と面と向かって言われることはなかったが地味とは言われたことはあった。お世辞であっても可愛いだとか綺麗だとかそういう誉め言葉を言われたことはない。慰めるにしても「天女様のような綺麗な顔」とは大げさすぎないだろうか、とどこか他人事のように聞いていた日和が次に思い至ったのは、「これでもう仕事に行かなくて済む」だった。
マルタが言うには、人攫いに遭った日和はこの娼館のオーナーに買われたらしい。オーナーはマルタよりも上の立場の男で、違法と知りながらこうして人攫いに遭った日和のような若い女をよく買い取るらしかった。そうして買われた女は、この連れてこられた娼館で買い取り金額と生活費に相当する額を働くことで返していく。所謂水商売というものだ。
話を細かく聞いてみると、有り体に言えば本番ありの風俗だった。最初は相手の男の身体を洗ってあげて、通常であればそのままベッドへ。風呂場で致す場合もあるが、ケースバイケース。本番ありとは言うが、本番に至らなくても男が満足すればそれで終わってももらえる料金は変わらない。人によってはチップをくれるし、正規の料金以外で得たお金はそのまま貰っても良いらしい。
日和は風俗というものを詳しくは知らないので認識が合っているかどうかは分からないが、そういう行為自体はゼロではない。地味な顔つきながらそれなりに彼氏がいた時期だってあるし、いくら盛っても遊んでいたとは言えないが、勿論処女でもない。後生大事に取っているものなんてありはしないのだ。
マルタが言うに客の滞在時間や女の価値にも寄るようだが一般的にはある程度1日働けば次の日は休みをもらえるようだし、三度の食事と寝る場所は確保されている。2日に1回休みをもらえるなんて、というのが日和の正直な感想だ。社畜生活によって植え付けられた感覚が、日和を麻痺させていた。そのお陰である程度楽観的でいられるのだから、良かったのか悪かったのかはなんとも言い難いが。
「ここは割に高級な娼館だから、アンタに無体を働くような客はいない。アンタ程の美人なら、来る客を選んでも多少値段を吊り上げても問題なかろうさ。姿絵なら見せてやるから、客と会う前に本当に買わせるか一回考えてみりゃいい。そりゃ勿論、全然客を取らないってのも困っちまうが……まあ、たまにでも取ってくれりゃあ、希少価値もあって良いかもねえ」
色々と売り出し方を構想し始めたマルタが話す様を見て、こういうところって結構風俗嬢(という呼び名でよいのかは分からないが便宜上この言い方とする)を持ち上げてくれるんだな、というか客を断るとか許されるんだ凄い、なんて思った日和は冷静ではあったが残念ながら現状の理解をしきってはいなかった。
最初に違和感を覚えたのは、壁に掛けてあった大きく古びた時計。どう考えても書いてあるのは数字ではなく、少なくとも高卒であった日和の知る記号ではなかった。だというのに、日和にはそれが15時32分という時間であるという理解が出来た。理解が出来たからこそ、全くもって意味が分からない。どうして自分がこんな得体のしれないものから正確に時刻を読み取ることが出来るのか。
そもそも、こんな非合法な人攫いが日本で横行出来ているわけがない。勿論日和の知らないところで裏社会がどうなっているかなんてことは言い切れることではないが、少なくとも目の前のマルタのようによくあることとして捉えられているのには違和感がある。
どこか嫌な予感のした日和は、どの服を着せたら映えるか、まずは身体を清めて、いや食事が……とぶつぶつ呟きながら室内のタンスなどを物色していたマルタに声をかけた。
「マルタ、さん」
「ん?なんだい」
「この国って、なんて名前ですか?」
「ああ、そうか、攫われてこられたんじゃどこにいるか不安さね。ここはボルチベータ帝国。一番でかい国だ、知ってるだろう?」
――知らない。
日和は学のない頭を総動員して何とか知識を絞り出そうとしたが、いくら考えたってそんな国名はない。確かに世界史や地理は高校時代も苦手だったけれど、マルタの言う通り一番大きい国ならば知らない筈はない。ボルチベータ帝国。帝国?
マルタがあまりにも当然かのように言ってくるので、日和は首を傾げることもできなかった。勿論脳内ではクエスチョンマークが無数に浮かんでは消えている。
そもそも英語すらまともに話しも聞き取りも出来ない日和が、日本以外でこうして話せるとは微塵も思えない。日和はしっかりと日本語を話しているつもりだしマルタも日本語で返してくれているように思うが、よくよく考えてみればマルタの顔つきは外国人のそれだ。奥二重だが大きい瞳はオレンジ色で、カラコン等を入れていなければ日本人がこんな色の瞳をしているわけがない。髪も金髪でふわふわとしており、染めてるようには見えないつやである。お腹は出ているがその分胸も尻も大きく出ており、体形もなかなか日本ではお見受けできないそれだった。
日和は自分の身体を見る。特に変化はなく、間違いなく日和の認識通りの身体だ。さら、と胸元に流れ落ちた黒髪も、染めてはいないので酷く傷んでいるわけではないいつもの日和の髪。悲しい程に凹凸が少ないささやかな胸と尻。すらりとしていると言えば聞こえはいいが、全体的に薄く女性らしさに欠ける。過去の彼氏も敢えて口に出すことはしなかったが、特に胸を見たときに残念そうな表情をされたのは日和の中で少しだけしこりとなっている。
とにもかくにも、どうやら自分のいる場所はこれまでの常識では考えられない場所――異世界にいるらしい、というのを日和は悟った。悟ったからといって、特に何かが変わるわけではないが。結局のところ、日和は(どこから攫われたのかは知らないが)攫った者が売った分のお金と、自分が生きていくためのお金を自らの身体で稼がなくてはならないのだ。
休み返上で始発終電どころか泊まり込みも多かった日和の中で、マルタの表示した働き方は身を売るとはいえかなり恵まれているように感じられ、日和はある程度浮かれていた。客を選んでも良さそうな話しぶりだったし、何件も断るのは難しいにしろ生理的に受け付けない客を無理矢理受ける必要はなさそうだというのも日和の能天気さの要因でもあった。
――ところが、マルタの持ってきた数々の姿絵を見て、日和は絶句することとなる。
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