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マレーの境遇を危惧するアイリス

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 その日、アイリスは合同補習が乗馬で、相変わらず一年大貴族らとマレーを取り囲み、タマにかなり離れた場所から鋭い視線を送る、ドラーケンから護っていた。

けれど暫く馬を走らせてると。
マレーが突然馬上で、涙ぐむ姿を目にする。

馬を寄せ、併走しそっと囁く。
「…どうかした?」

マレーは俯き加減だったけど。
首を横に振って潤んだ瞳を見られまいと顔を下げ…そして、呟いた。
「…忘れていたのに…」
そう言って、顔を上げる。
「なぜか突然、思い出したんです…。
教練キャゼ』に来る時、領地を抜けるのに馬車に乗って…。
そしたら、馴染みの農夫がすきを担いで、横を通りかかって。
…僕は、馬車の中からそれを見た。
彼が、窓辺の僕の顔を見て…とても悲しげな表情を向けたこと」

マレーはそう言って、横のアイリスを見、悲しげに微笑む。
「僕…自分に起こった事で精一杯で…。
今思えば…彼は僕の事、心配してくれたんだ…。
それに気づいた時、僕が父と領地の見回りに行った折り。
彼と一緒に、作物のカゴを運んだ事思い出して…。
…楽しかった。
カゴを運び込むと、女将さん達がリンゴで、パイや焼きリンゴを作ってくれて…」

アイリスはそれを聞いた時。
その情景が、見える気がした。

収穫の時。
皆、嬉しそうに育った作物をカゴに入れて運ぶ。
農婦達は腕を振るい、ほっぺがおちそうな、素朴な料理をたくさん作って…。

皆が豊穣を祝い、焚き火を囲み、料理を食べ、歌って、踊って…。

マレーは肩を震わせ、とうとう髪に顔を隠すように俯いて…震える声で囁く。

「僕…その時、分からなかった。
…もうあの楽しかった時間が…僕から永遠に、失われたこと…。
僕…はもう、帰れない…。
あの屋敷にも領地にも…もう…僕の居場所はない…。
あの…時僕は、気づかなかった。
けれどどうしてだか今、突然…気づいてそしたら…」

アイリスは、素早く言った。
「泣いて、いい。
思い切り泣いて、いいから」

マレーは俯いたまま、コクン。
と頷き、馬を走らせながら静かに…静かに泣き出した。

アイリスは自分の頬が濡れている事に気づく。
指で触れると…自分も、泣いていた。

だから言った。

「君は取り戻せる。
それは私が、約束する」

きっぱりと。

マレーはそれでも顔を上げず、アッサリア、ディオネルデス、フィフィルースはマレーを労るように周囲を取り巻き、駆け続け…。

アッサリアは気の毒そうな表情かおでマレーを見、ディオネルデスは心配げな表情でそっと伺い。
フィフィルースは真っ直ぐ前に顔を向け、言った。

「アイリスが約束した以上、君が泣くのは今だけだ」

滅多に口を開かないフィフィルースがそう言ったので、ディオネルデスもアッサリアも。
マレーですら、顔を上げて真っ直ぐ前を見てる、フィフィルースの少年神のような横顔を呆けて見つめた。

アイリスは慌てて涙を拭い、顔を上げるとフィフィルースに
『ありがとう』
と心の中で囁いて、微笑みを浮かべ、頷いた。


厩に馬を帰した後、スフォルツァとディングレーが、マレーとハウリィを三年宿舎へと送って行く。
その背を見送り…。
アイリスは厩に取って戻ると、いても立ってもいられず、そのまま馬を駆けさせた。

エルベス大公邸へと。

門へ駆け込むと、門番の一人が慌ててアイリスの後を馬で追う。
かなりの距離の庭園を駆け続け、広い玄関前に辿り着くと、馬丁がアイリスから馬の手綱を取るため、駆け寄る。

門番は背後を駆け抜け、奥へと向かい、勝手口へ馬を進めたから…多分、自分の到着は門番によってエルベスに先に、告げられるだろうとアイリスは推察する。

広い白石で出来た玄関階段を駆け上がると、立派な鋼の玄関扉が内側から、勝手に開いた。

「(…幾ら門番が先に来訪を告げたと言っても…これは早すぎないか?)」
アイリスはいぶかって、中へと入る。
すると、目前に伯母のニーシャが。
妖艶で美しい顔をこちらに向けて立っていた。

「…もしかして…待ち構えてた?」
アイリスが聞くと、ニーシャは憮然とした表情を見せる。
「…な訳、無いじゃ無い。
窓から見えたのよ!
マレーの件?
そんなに心配?」
廊下へと背を向けるニーシャの横に駆け込むと、アイリスはすかさず尋ねる。
「で?」
「首尾は万全。
週末には領主として、マレーは自宅に帰れるわ。
ただ…」
「ただ?」
「残念ながら、義母とその弟と称してる恋人は、まだ居座ってる。
と言うか…出て行く先が無いの。
でもまあ…マレーは自分を、“調教”した義母の“弟”と顔合わせるのはイヤかもだけど。
いい見世物を用意したから」
「マレーの目前で義母とその“弟”を、逮捕させるおつもりですか?」
即答するアイリスに、ニーシャは目を見開いて振り向き、文句を言った。

「イヤね。
驚かそうと思ったのに、推察しちゃうなんて!
これだから、頭の良い甥は持ちたくないわ」

アイリスはその褒め言葉に、笑顔を浮かべ、ニーシャを見つめ返した。

ニーシャは甥の、チャーミングな笑顔を見、言い淀む。
「…そんなに可愛く微笑まれると、聞きにくいじゃない」

アイリスは気づく。
「ああ…貴方と母への賄賂の件ですか?」
ニーシャは頷くと、尋ねる。
「で?
来るの?貴方の素敵な先輩達」
「来ますよ。
幾人かはしぶしぶなので。
食べ物で釣りました」
「…あら。
とびきりの美女が、イイ事してあげる。
で、釣れないの?」
「冗談でしょう?
貴方の虜に何てなったら、腑抜けになって卒業出来なくなるじゃありませんか。
そういう事態は、徹底的に避けさせて頂きます」
「あら、つまらない」
「顔を拝むだけで、彼らが近衛に入隊するまで、我慢して下さい」
「…アドラフレンったら、近衛宿舎ですら、滅多に入らせてくれないのよ?」
「…そうでしょうね…」
「自分はしょっ中出入りしてるのに」
「…いとこ殿の、ディアヴォロス様がいらっしゃるからでしょう?」
「一緒に連れて入ってくれたって、いいのに」
「…貴方を断るなんて、アドラフレン様は凄いやり手ですね。
いつも何て断られるんです?」
「断られた事なんて、無いわ。
いつも出かける事を私にひた隠しにし、留守に行くと召使いが言うのよ。
“近衛宿舎においでです。
女人は紹介状が無いと入れませんから、伝言を承ります“」

アイリスは、ついぷっ、と吹いて
「なるほど」
と言うと、ニーシャに腕を、思いっきり小突かれた。

ニーシャがエルベスの書斎の扉を開けるので、アイリスはニーシャに尋ねる。
「夕飯は、まだなんですか?」
ニーシャはノックした後
「どうぞ」
と言う弟エルベスの落ち着いた声を聞き、扉を開けて言う。
「この後よ。
また、食べて行く?
けどお母様は残念がるわね。
ラディエッタ婦人の夜会なの。
貴方が来ると知ってたら、出かけなかったでしょうけど」

アイリスは、顔を下げる。
「子供が三人共家に居て、愛らしい女の子の孫が二人も邸宅に居るのに。
それでもまだ、私に会えないと寂しいんですか?」

ニーシャはアイリスに振り向く。
「…だから。
貴方は特別なのよ。
おしめだミルクだ。
って、ホント、大騒ぎだったんだから。
ああ今でも目に浮かぶわ!
貴方ったら、ホントに愛くるしい赤ちゃんだったのよ?
笑顔になると、みんなが言ったのよ。
“この子ったら、今、私に笑ったわ!”」

机の前のエルベスは、話しながら入って来る姉、ニーシャと甥のアイリスを見、後を継ぐ。
「…そして大抵、誰も譲らず…結果、毎度つかみ合いの喧嘩、してましたよね…」

アイリスはニーシャを見上げる。
「…まさか…お祖母様も混じって、母様と三人で?」
頷いたのはエルベス。
そしてどっしりした座り心地の良さげな豪華な、緑色の布が張られた椅子から立ち上がると、羊皮紙をアイリスに差し出す。
「マレーの屋敷と領地の、権利書だ」

アイリスはそれを受け取る。
そして紐解き、広げると…所有者の名が、マレーになっている事を確認した後、丸めでエルベスに返す。
「保管をお願いします」
エルベスはにっこり笑って頷く。

「…明日にでもマレーを連れて帰りたいと言ったら…マズいですか?」

アイリスが問うと、ニーシャとエルベスは顔を見合わせた。
「それは…急な話だね?」
エルベスが言うと、ニーシャも口開く。
「そんな緊急にしなきゃならない理由でも、あるの?」
アイリスはこっくり頷くと、二人をソファに誘い、腰掛けた後。
合同補習の乗馬の時、マレーから聞いた話を二人に告げた。

ニーシャは項垂れるように聞いていたが、直ぐ口にする。
「いいわ。手配する」
エルベスも心からマレーに同情を寄せて、囁く。
「変装して、立ち会っても構わないかな?」
ニーシャは頷くと
「義母と“弟”の逮捕時の、警備兵に空きがあるわ」

アイリスはぷっ…と吹き出すと、エルベスを見る。
が、エルベスは素直に頷き
「せいぜい上手に、アドラフレンの部下役を務めるよ」
と言った。
その後
「当然、アドラフレンは大物過ぎるから、彼直々に出向いては来ないんだろう?
彼の手配した隊長が、私の上司になるのかな?」
とニーシャに尋ねてる。

ニーシャは
「それも、聞いて置くわ」
と言って、席を立ち、即座に部屋から出て行った。

それを見て、アイリスがクス…と笑う。
「案外、ニーシャ伯母様かもしれませんね?
逮捕する時の隊長」

エルベスは聞いた途端、目を見開く。
「…家に居るのと同じじゃ無いか。
せめて違う相手が上司だと、新鮮なのに」
とぼやいた。
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