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蔡と鄧
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窓から身を乗り出し銃撃していた蔡は、シートベルトを外していたため、天井に頭をぶつけていた。
鄧の咄嗟の機転と巧みな運転により、大きな衝撃もなく車は道路脇の木にぶつかり停車したが、道路脇の側溝にタイヤを取られて車が弾んだ際に、浮き上がった蔡は天井に叩きつけられたのだった。
頭を抱えながら蔡は吐き捨てるように叫んだ。
「混蛋!」
「少尉、ご無事ですか?」
シートベルトをしていた鄧は無事だったようで蔡の肩に手をかけて、心配そうな声をかけた。
「大事ない……。してやられたな」
頸を押さえながら、蔡は吹き出したエンジンオイルで真っ黒になったフロントガラスを見つめ、歯の擦り切れる音が聞こえるような、そんな声で悔しそうに呟いた。
「対物ライフルで撃ってきたあの少女……」
鄧はそう言いながら、シートベルトを外し、蔡を車から降ろそうと車外に出た。
対物ライフルを易々と扱い、正確にボンネットの中央とフロントグリルの中央を撃ち抜くと言う技を見せた、あの少女。
アレが、M428……。
サイバーテロで世界を戦火と恐慌に陥し入れるだけの電脳化された頭脳をもつ、脅威ののサイバー兵器。
想定はしていたが、戦闘能力すら備わっているとは……。
車は撃ち抜かれたフロントグリルとボンネットの隙間から漏れたクーラントの蒸気をくゆらせている。
最小限に衝撃を抑えたつもりだが、ガソリンやオイルが引火する可能性がないわけではない。
鄧は車体後方から助手席側に回り込み、ドアを開けて蔡の身体を抱えようとした。
「ああ、アレがM428だ」
鄧に身体を預けながら、蔡は言った。
「あの娘を生捕に? キャサワリーもついているのに?」
鄧は背筋が寒くなった。
アジアを中心に活動するキャサワリーの伝説とも言える実績は鄧も知っている。
特にその狙撃の技術は世界最高峰ともいわれ、スーパーコンピューターが成功率を全否定したミッションさえも、成功させている。
鄧が驚いたのは、単なる狙撃屋だけに収まらず、近接戦闘や爆発物、果ては毒物にも精通しているというキャサワリーの能力の高さである。
国籍、年齢は不明だが、ヨーロッパ系の三〇歳から四〇歳。
言語はフランス語をメインに英語や日本語、中国語など八カ国語を駆使する。
世界的に見ても稀有な能力を持った暗殺者として、世界にその名を知られている。
なんてハイスペックな人類なんだろう、と鄧は呆れる思いだった。
その相手を先ほどまで追い詰めていた。
鄧は驚く思いだった。
いや、遊ばれていただけ、のような気もする。
しかし、鄧がそれよりも気になるのは、蔡とキャサワリーの過去の蜜月。
考えまいとするほどに、鄧にキャサワリーという女が、重くのしかかる。
「紫薇」
美しく赤い花を結実する百日紅を意味する紫薇。
その名を蔡に呼ばれ、鄧は我に返った。
「徒歩とは情けないが、とにかくこの場を離れんとな。そのうち警察がくるだろう」
油と蒸気を吹き出して、力尽きたように道路脇の樹木を前に停車している車を見つめながら、蔡は言った。
「手槍とパスポートと携帯電話だけでいい。あとは燃やせ」
その時である。
甲高いエンジンの咆哮が二人の耳に届いた。
「車か?」
「単車です」
山肌が壁のように反り立つ急峻な谷に、ギアを巧みにアップダウンさせなが登ってくるエキゾーストサウンドが反響する。
「どうしますか?」
鄧が蔡に訊く。
「ヒッチハイクでもするか?」
このおよそ堅物としか思えない蔡も、幾度となく肌を重ねた恋人である鄧の前では冗談を口走る。
だが、どうにもセンスの問題なのか、笑えないうえにTPOもあまり考慮されていない。
鄧はそれにいつも辟易としている。
「爽!」
子供を叱るような声で、蔡の冗談を嗜める。
「銃撃された車を隣にして、どう説明しても説得力はないな」
「そうですね。街でもかなり派手にやらかしましたからね」
クスり、と鄧は笑った。
「逃げるか」
「はい、お姉様」
「その設定はもうやめだ」
そう言いながら、軽快な身のこなしで切り立つような岩場を登る蔡。
ノートパソコンの収められたカバンを肩にかけ、鄧もその後を追い、むき出しの岩場を雌鹿のような軽やかさで駆け上がる。
二人は岩と木々の間に身を潜め、近づいてくるエンジン音が、その正体を表す瞬間を待つ。
「なぜやめるんです、お姉様?」
鄧はクスクスと笑いながら、蔡の脇腹を人差し指でつつく。
蔡はその手を払い除けもせず、鄧につつかれるまま、崖下の道路から視線を外さない。
一年半ほど前に、鄧は蔡の専属の部下になった。
主な仕事は狙撃時の観測手である。
配属当初から飄々としていて、掴みどころのない、蔡曰く雲のようにフワフワしている鄧を見て、蔡は頭を抱える思いだった。
だが、共に仕事をこなしていくうちに、その態度とは裏腹に、抜群の戦闘能力とその的確な判断力に、蔡は舌を巻いた。
だがそんな鄧は、いつも笑って冗談しか言わない。
中国で流行りのゆるく巻いたワンレングスのロングヘアに赤いリップ。
見た目も軍人としてはふざけているが、蔡が何度注意しても笑っているばかりで、改めようとはしない。
当初は舐めている、と腹立たしく思っていた蔡だが今では面白いやつだ、と半ば諦め、半は可愛いらしく思う。
蔡の寛容は、身体を結び恋愛関係になってしまった事もあるのであろう。
「くるぞ」
大きく、近くなるエンジンの音に蔡は小さく鋭く言った。
「はい! お姉様っ!」
努めて真面目な顔を作り、口をへの字に結んで答える鄧を見て、蔡は思わず笑ってしまう。
本当に、こいつは……。
緊張感がない、と。
鄧を抱きしめたい気持ちを抑えながら、蔡は左脇のホルスターから拳銃を抜いた。
鄧の咄嗟の機転と巧みな運転により、大きな衝撃もなく車は道路脇の木にぶつかり停車したが、道路脇の側溝にタイヤを取られて車が弾んだ際に、浮き上がった蔡は天井に叩きつけられたのだった。
頭を抱えながら蔡は吐き捨てるように叫んだ。
「混蛋!」
「少尉、ご無事ですか?」
シートベルトをしていた鄧は無事だったようで蔡の肩に手をかけて、心配そうな声をかけた。
「大事ない……。してやられたな」
頸を押さえながら、蔡は吹き出したエンジンオイルで真っ黒になったフロントガラスを見つめ、歯の擦り切れる音が聞こえるような、そんな声で悔しそうに呟いた。
「対物ライフルで撃ってきたあの少女……」
鄧はそう言いながら、シートベルトを外し、蔡を車から降ろそうと車外に出た。
対物ライフルを易々と扱い、正確にボンネットの中央とフロントグリルの中央を撃ち抜くと言う技を見せた、あの少女。
アレが、M428……。
サイバーテロで世界を戦火と恐慌に陥し入れるだけの電脳化された頭脳をもつ、脅威ののサイバー兵器。
想定はしていたが、戦闘能力すら備わっているとは……。
車は撃ち抜かれたフロントグリルとボンネットの隙間から漏れたクーラントの蒸気をくゆらせている。
最小限に衝撃を抑えたつもりだが、ガソリンやオイルが引火する可能性がないわけではない。
鄧は車体後方から助手席側に回り込み、ドアを開けて蔡の身体を抱えようとした。
「ああ、アレがM428だ」
鄧に身体を預けながら、蔡は言った。
「あの娘を生捕に? キャサワリーもついているのに?」
鄧は背筋が寒くなった。
アジアを中心に活動するキャサワリーの伝説とも言える実績は鄧も知っている。
特にその狙撃の技術は世界最高峰ともいわれ、スーパーコンピューターが成功率を全否定したミッションさえも、成功させている。
鄧が驚いたのは、単なる狙撃屋だけに収まらず、近接戦闘や爆発物、果ては毒物にも精通しているというキャサワリーの能力の高さである。
国籍、年齢は不明だが、ヨーロッパ系の三〇歳から四〇歳。
言語はフランス語をメインに英語や日本語、中国語など八カ国語を駆使する。
世界的に見ても稀有な能力を持った暗殺者として、世界にその名を知られている。
なんてハイスペックな人類なんだろう、と鄧は呆れる思いだった。
その相手を先ほどまで追い詰めていた。
鄧は驚く思いだった。
いや、遊ばれていただけ、のような気もする。
しかし、鄧がそれよりも気になるのは、蔡とキャサワリーの過去の蜜月。
考えまいとするほどに、鄧にキャサワリーという女が、重くのしかかる。
「紫薇」
美しく赤い花を結実する百日紅を意味する紫薇。
その名を蔡に呼ばれ、鄧は我に返った。
「徒歩とは情けないが、とにかくこの場を離れんとな。そのうち警察がくるだろう」
油と蒸気を吹き出して、力尽きたように道路脇の樹木を前に停車している車を見つめながら、蔡は言った。
「手槍とパスポートと携帯電話だけでいい。あとは燃やせ」
その時である。
甲高いエンジンの咆哮が二人の耳に届いた。
「車か?」
「単車です」
山肌が壁のように反り立つ急峻な谷に、ギアを巧みにアップダウンさせなが登ってくるエキゾーストサウンドが反響する。
「どうしますか?」
鄧が蔡に訊く。
「ヒッチハイクでもするか?」
このおよそ堅物としか思えない蔡も、幾度となく肌を重ねた恋人である鄧の前では冗談を口走る。
だが、どうにもセンスの問題なのか、笑えないうえにTPOもあまり考慮されていない。
鄧はそれにいつも辟易としている。
「爽!」
子供を叱るような声で、蔡の冗談を嗜める。
「銃撃された車を隣にして、どう説明しても説得力はないな」
「そうですね。街でもかなり派手にやらかしましたからね」
クスり、と鄧は笑った。
「逃げるか」
「はい、お姉様」
「その設定はもうやめだ」
そう言いながら、軽快な身のこなしで切り立つような岩場を登る蔡。
ノートパソコンの収められたカバンを肩にかけ、鄧もその後を追い、むき出しの岩場を雌鹿のような軽やかさで駆け上がる。
二人は岩と木々の間に身を潜め、近づいてくるエンジン音が、その正体を表す瞬間を待つ。
「なぜやめるんです、お姉様?」
鄧はクスクスと笑いながら、蔡の脇腹を人差し指でつつく。
蔡はその手を払い除けもせず、鄧につつかれるまま、崖下の道路から視線を外さない。
一年半ほど前に、鄧は蔡の専属の部下になった。
主な仕事は狙撃時の観測手である。
配属当初から飄々としていて、掴みどころのない、蔡曰く雲のようにフワフワしている鄧を見て、蔡は頭を抱える思いだった。
だが、共に仕事をこなしていくうちに、その態度とは裏腹に、抜群の戦闘能力とその的確な判断力に、蔡は舌を巻いた。
だがそんな鄧は、いつも笑って冗談しか言わない。
中国で流行りのゆるく巻いたワンレングスのロングヘアに赤いリップ。
見た目も軍人としてはふざけているが、蔡が何度注意しても笑っているばかりで、改めようとはしない。
当初は舐めている、と腹立たしく思っていた蔡だが今では面白いやつだ、と半ば諦め、半は可愛いらしく思う。
蔡の寛容は、身体を結び恋愛関係になってしまった事もあるのであろう。
「くるぞ」
大きく、近くなるエンジンの音に蔡は小さく鋭く言った。
「はい! お姉様っ!」
努めて真面目な顔を作り、口をへの字に結んで答える鄧を見て、蔡は思わず笑ってしまう。
本当に、こいつは……。
緊張感がない、と。
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