魔女の剣

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第二十三話 楓の剣1

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 木々が樹立する森の奥深くで、どこか思いふける様に空を見上げる女性がいた。彼女は魔女服を纏い、遠いまなざしでまだ見えない何かを見ようとしているようだった。

「これで……やっと……」

 ぽつりとつぶやく彼女……天坂夕月の声が、静かな森林の中に溶けていく。
 そんな彼女の物思いを止めたのは、背後からの足音だった。

「誰だ……?」

 背後を振り返った天坂が見たのは、彼女からすれば信じられない者だった。

「楓……!?」

 その手に一刀をさげた朝比奈楓が、そこにいた。ただ一人でここまで来たのだ。その事実が意味する所を察して、天坂は驚愕した。

「小鴉も伏倉も、私が斬りました」
「バカな……お前如きが……!?」

 信じられないものを見るような目で、天坂は楓を見つめていた。

「師匠……いえ、天坂夕月。次はあなたの番です。夜魔を復活させようとするあなたを見過ごすことはできません。私はあなたを……斬ります」
「私を斬るだと? ……残念だが、それは不可能だ」

 天坂の表情が変わった。その顔には凄惨な色が浮かんでいた。

「もう儀式は終わった。楓、どうやって小鴉と伏倉を倒したのかは知らんが、褒美だ。夜魔の姿、とくと拝むがいい」
「なっ……!?」

 天坂が言い終わった途端、楓は何か、ひどく嫌な予感を抱いて空を見上げた。
 周囲に満ちるマナの気配が変わっていく。先ほどよりもおぞましく、狂気の色を持ったマナがざわめき荒ぶった。
 渦巻くマナが突風と化し、楓の体を吹き飛ばそうとしてくる。楓は思わず身を屈めて、体のよりどころを求めて大地に手をついた。

「これは……!」

 吹きすさぶマナの突風から何とか体勢を整えた楓は、ついにそれに気づいた。渦巻くマナが、楓と天坂が居るはるか遠くにある中空の一点に集まり、凝縮されていく。
 マナが集中する中心点である虚空がひび割れていった。
 そこから、何かが這い出ようとしている。

 ――な、何だ、あれは……!

 その姿を見た時、楓の脳髄が焼け付くように痛んだ。
 はたして今楓の視界にうつるあれは、腕なのか。それとも足なのか。もしくはそんな名称ですらない、全く別の概念なのか。楓には理解できなかった。
 ずるり、ずるりと、それが生まれいずる。

 その形状は誰にも理解できない。夜魔の肉体は高濃度のマナを生み出し、黒い霧のようになったマナが夜魔の周囲を覆っている。まるで視認されるのを避けているかのようだ。
 それは産声を上げた。楓の耳にその音は確かに届いた。しかし体が、心が、脳がそれの理解を拒む。

 ――だめだ、これはだめだ! 理解してはいけない……!

 それは狂気であった。かつてただの女性だったメリルを唆し、彼女を始祖の魔女として仕立て上げ、己を自由にさせる肉体を作らせた、狂気の存在。
 その名は夜魔。ついに夜魔は長きに渡る封印から解放されたのだ。

 目に見える程高濃度のマナで出来た黒霧に包まれたその姿は、誰にも視認できない。視認してはいけない。ただ、足のようなものがあった。手のようなものがあった。
 それは巨体であった。黒霧に包まれているため正確な大きさは分からないが、とても一刀が及ぶ大きさではない。

「あ……」

 それは、楓を見た。視界の中心に映るそれが目なのかどうか楓には全く理解できなかったが、とにかく目が合ってしまったという果てしない後悔が楓を襲った。
 夜魔が動きをみせた。楓はその手にさげた一刀を強く握りしめ、一歩後ずさった。
 わずかに視線を動かしてみるが、すでに楓の視界内に天坂はいない。楓が夜魔に気をとられたわずかな間に、彼女は身を隠していた。
 なぜ天坂は楓の傍から離れたのか。楓がその理由に気づいた時にはもう手遅れであった。

 ――何かが来る!?

 何か、恐ろしいものが楓に向かってきている。楓はそのことに気づき、心中を騒めかせた。
 夜魔が何か攻撃を仕掛けてきたのだ。楓はそう理解し、感覚を総動員してその正体を見極めようとした。

 夜魔の攻撃の正体は、マナであった。考えられない程大量のマナを圧縮した巨大なマナの塊が、楓目がけて放たれていたのだ。それは高速で楓に接近し、夜魔と楓の間にある遠距離をわずかな時間で無に帰して今楓に接触しようとしていた。
 それにぶつかれば間違いなく死ぬ。しかし回避はもはや不可能である。

「あ……ああああぁぁぁああぁぁぁっ!」

 死の予感を抱いた時、楓は絶叫して一刀を構え、今己が一番信じられる太刀技で迎え撃った。
 それは、何か考えがあった訳ではない。目の前に迫った絶対的な死という危機に対して、本能が対処しただけである。

 絶体絶命の瞬刹に放たれたのは魔技、一之太刀。対敵を斬る一念から生まれた魔性の一刀は、その本分を全うしようとする。
 目の前にまで迫っていたマナの塊をやすやすと切り払い夜魔の攻撃を無効化した一之太刀は、そのまま殺傷圏内を広げていき、夜魔の体に一筋亀裂を入れた。

「……!? 何だ、いまの剣は……!」

 それに驚きを現したのは、身を隠してやや遠間から楓を伺っていた天坂であった。
 天坂の予想では、どう考えても楓の死は絶対であった。しかしそれが裏切られた。
 魔技、一之太刀。天坂が知らない楓の一刀が、死の運命を切り裂き、かつ夜魔にすら一刀をくれていたのだ。
 だが、それまで。いかに一之太刀といえどろくな集中を経ずに放たれては、ここからかなりの遠距離にいる夜魔を殺傷することは叶わない。夜魔の体にはしった刀傷は見る間に再生されていく。

「はっ……あっ、はあっ、んっ……はぁっ……」

 強引に魔技を放った反動が、今楓に襲いかかっていた。楓は大きく息を乱して片膝をつく。心臓が破裂せんばかりに高鳴り、彼女は前後不覚に陥っていた。
 夜魔は雄叫びをあげた。先ほどの攻撃は、夜魔にとっては近くに潜む小虫を払おうとした程度の規模である。しかしその結果手痛い反撃を受けた夜魔は、朝比奈楓のことを敵と認識してしまったようだ。
 またあの攻撃が来る。そう察した楓は、絶望の色を浮かべた。息を乱し体と心が一致しない現状では魔技は使えない。先ほどと同じく巨大なマナの塊が放たれれば、次こそ楓は終わりである。対処することは不可能だ。

「くっ……!」

 もはや死は避けられないと、楓は覚悟をした。
 その時である。夜魔が突如楓への警戒を緩め、どこか、違う場所を見ていた。

 ――……何だ? 何をしている。

 不可解な夜魔の行動に、楓は違和感を抱いた。彼女もまた夜魔が見ているであろう方向に視線を移してみる。
 楓の視界に、箒に跨り空を舞い飛ぶ存在がいくつも写った。その数は十をはるかに超えている。それらが、自在に空を駆けながら夜魔に向かっていった。

「魔女共め、ついに来たか!」

 天坂の忌々しげな声が楓の耳をうった。姿を隠した彼女は、意外にも楓から近い所に潜んでいるらしい。
 天坂の言葉で、楓もようやく事態が飲み込めてきた。
 正調の魔女が、ついにやってきたのだ。

 夜明けになれば頭数が揃い、攻撃を仕掛けることができる。楓は、美景のそんな言葉を思い出していた。
 楓よりも向かってくる十数人以上もの正調の魔女の方が手ごわいと感じたのか、夜魔はそちらに攻撃を開始した。楓に対しての攻撃と同じく、圧縮した巨大なマナを次々に撃ちだしていく。

 夜魔の攻撃にさらされて、しかし正調の魔女たちに狼狽えた気配はなかった。彼女たちは三魔女の後継者として、来るべき時への覚悟ができていたのだ。
 ついに現代の魔女と夜魔の決戦が始まった。

 夜魔が正調の魔女に気を取られたおかげで、楓はようやく息を整えることができた。ゆっくりと立ち上がり、遠くで繰り広げられる魔女と夜魔の戦いを見つめる。
 その光景は、どこか幻想的であった。正しく認識することすら本能が拒む夜魔という化け物と、空を舞い飛ぶ魔女が織りなす輪舞。両者の間に激しく閃光が飛び散り、楓から現実感というものを奪っていく。

 ――あれが、正調の魔女の戦いか。

 一刀を用いる武辺の魔女と違って、彼女たちはまさしく正しき魔女であった。おとぎ話から出てきたように、楓の理解が及ばない魔術を駆使して夜魔に対抗している。
 だがはたして、魔女たちはあの夜魔に勝つことが出きるのだろうか。楓は先ほど夜魔の脅威を味わったばかりである。正調の魔女の数は十人、あるいは二十人を超え、戦力としては申し分ないはずだが……決して楽観視はできなかった。

 正調の魔女たちは、夜魔に次々と攻撃を仕掛けていた。ラピスで顕現した箒に乗って空を舞飛びながら、火球や氷柱、あるいは天候を操作して雷撃を放ち、夜魔を攻めたてる。
 常軌を逸した魔術の数々が夜魔の身を襲う……が、夜魔の体は傷つけばすぐに回復を始めていた。目に見える程の濃いマナが傷口を取り囲むや、次の瞬間には夜魔の肉体が元通りになっていたのである。

 その再生速度は正調の魔女らの攻撃で与えるダメージよりもはるかに早い。結果として、魔女の攻撃は何一つ効果をあげていなかった。
 このままではじり貧である。正調の魔女はいずれ力尽き、おそらく敗死してしまうだろう。
 夜魔を殺すには、正調の魔女が操る魔術をも超える威力の術技を用いなければいけない。
 あれほどの巨大質量を一撃で殺し尽くす……そんな魔術や技術がいったいどこにあるというのか。

 楓は、その手にさげられた刀を強く握った。
 夜魔を殺す術はこの手にあった。……魔技一之太刀。楓が目覚めた魔技ならば、あるいは。

 しかし一之太刀で夜魔を仕留めようと思うのならば、越えなければいけない問題が三つあった。
 一つは、一之太刀の限界威力である。
 一之太刀は楓の限界を超えて刀身にマナを集め、斬撃の威力および殺傷圏内を広げる技ではあるが、無限に威力を増す技ではなかった。

 どのような術技も一刀が為しえる技である限り、そこに限界は存在する。一之太刀における威力の限界とは、周囲のマナの多寡に左右されてしまうのだ。
 大気に漂うマナは無限に等しいとはいえ、楓の周囲を漂うマナに限って言えばそれはやはり有限であるのだ。
 楓の周囲に漂うマナが少なければ少ないほど刀身にマナを蓄積する速度が遅くなり、マナの集中にかけた時間に対して一之太刀の威力はさほど伸びはしない。威力の伸びが悪くなってきた頃合いが、一之太刀の事実上の限界威力である。

 ……だが、今はどうか。
 夜魔が復活したことにより夜魔周囲には目に見える程のマナが溢れ、それはこの一帯を覆っている。
 これならば、夜魔を一刀で斬り殺す程のマナを集めるのは十分に可能であった。しかし、それ程の威力に達するまでには十数分以上のマナの集中が必要であろうと、楓は感じていた。

 問題点の二つ目が、それである。それだけの大規模なマナの集中をはたすまで、夜魔が楓を放っておくであろうか。
 夜魔とて、自分を殺害するであろう程の脅威を感じ取ればそれを阻もうとするだろう。
 夜魔を殺せるほどの威力……つまり、一之太刀が完成するよりも早く夜魔が楓の脅威に気づくのは明らかだった。

 これに関しては、正調の魔女の奮闘を期待するほかないが、魔女らはもうすでに命を賭して夜魔と戦い始めている。楓の意図を伝える暇はなかった。
 夜魔よりも早く楓の魔技に気づき、夜魔から楓を守ってくれれば問題点の二つ目は解消できる。こればかりは賭けであった。
 そして、最後の問題は……。

「楓……!」
「……天坂……」
「忌々しい小娘め……なぜお前があれほどの魔技を……!」

 天坂夕月の存在こそが、最後の問題である。彼女は隠れ潜むのを止め、再び楓の前に現れた。
 天坂は先の楓と夜魔の攻防で、魔技一之太刀の危険性を認識してしまった。こうなれば、天坂がやすやすと魔技を打たせるはずがない。
 夜魔よりも先に天坂と決着をつけなければ、一之太刀の準備に入ることは不可能であった。
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