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005.不安と励まし
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異世界――――
それは空想の産物であった。
偶にクラスメイトたちが話しているのを耳にする程度の興味のない話。
そんな無意味なものに時間を浪費するくらいならほんの少しでも勉強や習い事に精を出し、知識や経験を重ねた方がいい。そう思っていた。
しかしまさか、ロクに会話にも参加しなかった自分が転生してしまうなど夢にも思わなかった。
高校入試の途中に事故に遭い、気づいたら知らない世界。右も左も知らない人だらけで別人になってしまっていた。
まさかあの日に車が突っ込んでくるなんて考えもしなかったが、それ以上に異世界に飛ばされることなんて今でも信じられない。
「はぁ…………」
シエルとのお茶会も終わり1人書斎で外を眺めていると、ふと調べた結果を思い出してたまらずため息が出てしまう。
知り合いもいなければ帰る方法すら無い。しかも幼くなっているという現実をむざむざと実感していた。
どうやって帰るか、そもそも帰る方法は存在しているのか。
もし帰れたとして、車が直撃した身体はどうなっているのだろうか。ここに来て一週間、とっくに身体は灰になっているかもしれない。
過去に戻れたり時間の流れが違っているなら希望の芽はあるが、そんな都合よく物事は動いてくれるだろうか。
限りなく低い可能性。
もはや帰ってもとの生活に戻るのは詰みといっても過言ではないかもしれない。
ここに留まるにしても元いた人格はどうなったという懸念点もあるし、考えることが多くて何度もため息がでてしまう。
何も見えない夜空。雲に覆われているのか星の一つさえ見えやしない。その暗闇がなんとなく自分の心を表しているような気がして更に気が滅入っていると、不意に扉から一筋の光が漏れ入っていることに気がついた。
「こんなところにいたのか。スタン」
「……お父さん」
扉を開けたであろう影からは渋めの声が聞こえてくる。以前も牢屋でシエルを前に会話をした父の声だ。
「どうした、時間になっても来なくて探していたぞ。食欲無いのか?」
「ううん、ちょっとボーッとしてただけ。今行くね」
気づけば夕食の時間になっていたようだ。
ちらりと視線を向けた先にはここ一週間集まっていた時間より30分ほど経ってしまっている。
心配そうに見つめる彼になんでもないと告げながら、彼とともに部屋を出る。
隣を歩く自分より遥かに背の高い男性。
彼の名はセルジュ・カミング。
この身体の実の父であり、代々伝わる貴族カミング家の現当主。
スタンと同じく翠の瞳を持ち、金色の髪をミディアムヘアにして前髪を上げた男性。
「本当か?もし頭が痛かったり辛いようならすぐ言ってくれよ。お医者様のところへ連れて行くからな」
「全然辛くもないよ。 ありがと」
彼は随分とこの身体に対して優しい男だ。
1週間経っても事故の後遺症を心配してくれる男性。
その性格は基本温厚。そしてこの身体、息子であるスタンにはダダ甘である。
この1週間接してきたが、殴られるどころか怒られた記憶すらない。
むしろアレがほしいコレが欲しいといった要望にかなり答えてくれて、この一週間の情報収集にかなり寄与してくれた。
だからかもしれない。
あの日、この世界にやってきた日に捉えたシエルに対して命を奪おうしたのは、殺伐とした世界という事情もあれど、それ以上にスタンへの愛情の深さもあってのことかもしれない。
彼にとって大事な息子が大変な目に遭った元凶が許せなかったのだろう。
ちなみに、本来の”スタン”は今の自分のような性格では無かったらしい。性格が変わったことについて随分と心配されたが、事故の影響ということで納得してくれた。
「ならいいんだが………っと、すまない。スタン、今日は夕食を一緒にできなさそうだ」
「えっ、どうしたの?」
父とともに歩けば普段食事をとる広間の前まで。
先に立った彼が扉に手をかけようとした瞬間、そんな言葉とともに困った笑みを見せてきた。
「どうやら仕事が入ったみたいでな。すまないな」
「う、うん」
彼が向けた視線の先には仕事関係であろうスーツ姿の男性が遠巻きに立っていた。
男性に軽く手を上げて足を向けた父親は。「あぁそうだ」となにかを思い出したかのように踵を返し、見送る俺の前でしゃがんでみせる。
「そういえばスタン、お前に2つ言わなきゃならないことがあったんだ」
「言わなきゃならないこと?」
「まず1つ目として、母さんから連絡あってな。あと1週間ほどで帰るようだ」
「母さんが……」
彼の言葉で「そういえば」と心の内で小さく呟く。
この世界に来て一週間、言われて気付いたが一度もその姿を見ていなかった。
その言い方から察するに1週間以上かかる遠くにいるのだろう。
「そして2つ目。3日後、マティナール……マティちゃんが屋敷に来るみたいだぞ」
「マティナール?……誰?」
母親ならまだ許容できる。しかし突然知らない名前が出てきて思わず言葉が漏れてしまった。
マティちゃん?この身体の知り合いだろうか。
「おいおい、それも忘れたのか? 大事な幼なじみを忘れたなんて知ったらあの子も悲しむぞ」
「幼なじみって……ボクの?」
「……まぁ実際に会えば思い出すさ。それじゃあな、暖かくして寝ろよ」
「えっ……ちょ……!」
彼はそれだけを言い残し俺の頭を乱暴に撫でながら仕事へと向かっていってしまった。
広間へと続く大きな扉前で取り残されたのは俺1人。
「本当に……誰なんだ……?」
この世界のことなんて、スタンのことなんて何一つ知りっこない俺にとっては初出となる人の名前。
心の底から沸き上がる疑問の声は、開かれた窓から闇へと消えていった。
―――――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
「さて……そろそろ時間かな」
パタンと今まで読んでいた本を閉じてチラリと時計を見る。
時刻は日付変更までには随分と遠い時間帯。日本にいた頃の自分ならまだまだこれからと机に向かって問題の一つでも解いている時間だが、この身体になってからはもう瞼が重くなる時間だ。
どうやら精神は青年でも身体が幼いと活動時間は引っ張られるらしい。日本でよくいわれた『良い子は寝る時間』にはこの身体もフラフラになっていた
しかし身体がフラフラでもグッスリ眠ったことはない。やはり知らない世界に来たことによる緊張や不安だろうか。寝落ちはあっても快眠は出来ていない。残念ながらこの家に質の良い睡眠に関する本はないようだ。
「シエル、そろそろ寝ようか」
「はい。わかりました」
俺の言葉に反応した彼女は椅子から腰を浮かして入口近くのスイッチへと近寄っていく。しかしそのスイッチを直ぐに押されることはない。俺がベッドに入るのを待っているのだろう。
この一週間ですっかり慣れたルーティーンの如くベッドの中心を陣取ってシエルに視線を送ると『パチン』の音とともに部屋を照らしていた光がパッと暗くなる。
「それではご主人さま、おやすみなさい」
「うん、シエルもおやすみ」
部屋の照明が落とされても窓から光が降り注ぐ。
夜の優しい月の光に照らされた彼女がベッド横で一礼するのもまたルーティーン。今日もぐっすり眠れそうだとベッドの温もりに身を投じ瞼を閉じようとしたところで、ふといつものルーティーンとは違う様子にふと視線を向けた。
「シエル?」
「…………」
挨拶とともに一礼した彼女だったが、その後は何をするわけでもなくただジッと俺を見つめている。
ジッと……というのは語弊があるかもしれない。伏し目がちになりつつ手を前でしきりに動かしてどことなく所在なさげだ。
「シエル?どうしたの?入らないの?」
「えっと、その……」
いつものようにベッドに入らないのか。そう問いかけても彼女は動こうとしない。
シエルをメイドとして雇ってからこっち、彼女は俺とともに眠っている。悪い言い方をすれば同衾という見方もできるが、そもそも小学生になるかどうかの年齢同士。俺の視点から見ても幼すぎて変な気など一切湧いてこない。
故にいつもの如く彼女もベッドに入り込むと思ったが今日は少し様子がおかしい。何かをいいたげにしている彼女を見ていると、意を決したように口を開く。
「ご主人さま、すみませんでした……!」
何かを迷っていた彼女は突然何を思ったのか、謝罪の言葉とともに頭を下げてきた。
これもまた日本の影響が出ているのだろうか、深い45度にも及ぶ最敬礼。全く思い当たることのない謝罪に思わず身体を起こす。
「シエル……それは何を……?」
「その、ご主人さまに命を救っていただいたことです……!あの日は突然捕らえられて牢に入れられて何もわからず混乱してましたが、私のせいで大変な目にあったと聞いて……。その上殺されてもおかしくなかったのにこうして雇っていただいて……」
「あぁ……」
あぁ、そのことか。
突然の言葉に合点がいった俺はフッと肩の力が抜けるのを感じる。
「この一週間言おうと思ってましたが、嫌な記憶を思い出して心変わりされたらと思うと怖くなり……。今まで謝罪もできずすみませんでした……!」
彼女の礼は更に深くなり90度まで。もはや直角にまで頭を下げた彼女に、俺はシーツをめくって軽く叩く。
「シエル、おいで」
「ご主人さま……でも……」
「おいで」
「……はい」
突然来るよう促されたことに少しだけ抵抗を見せた彼女だったが、2度目の呼びかけで素直にベッドに潜り込む。
左隣にたどり着いたシエル。少し距離を離れてベッドボードに背を預ける彼女に俺はその方を持ち無理矢理近くまで引き寄せる。
「ひゃっ……!」
「シエル、謝らなくていいよ。ボクは何も怒ってないから」
「でもご主人さま……あの時とても酷い状態だったとメイド長が……」
「それでもだよ」
腕の内に収まる彼女が言葉を重ねたところで問題ないと突っぱねる。
俺はあの日の彼女について怒りの感情なんて一つも持ち合わせていなかった。
文字通り目が覚めたら全てが終わっていたのだ。あの事故が原因でこの身体にやってきたのだろう俺。目が覚めたら全て終わっており、少し傷は残ったが治療のお陰か大したことはなく、投げ出された記憶なんて当然ない。
言うなれば当事者ながら他人事なのだ。それよりも命が軽いこの世界の倫理観に恐怖を覚えたほど。
「アレだけシエルもガリガリだったんだ。きっとスラムも大変だったんだよね」
「それでも……私は……」
「だったらシエル、一つ罰を与えてもいいかな?」
「……!! は、はい!なんでも……!!」
これまで目を伏せていた彼女だったが、”罰”という言葉をきっかけに顔を上げこちらをまっすぐ見つめてくる。
まさしく罰を望んでいる目。そんな彼女に微笑んで、そっと頭を撫でながら”罰”の内容を告げる。
「ボクは自慢じゃないけど頭は良い方、でも生活力は無いんだ。……だからシエル、シエルはこれからメイドの仕事を一つでも多く覚えて、ボクの身の回りをフォローして」
「…………えっ?」
俺の告げた内容に理解が追いつかなかったのか、彼女の目が一瞬点になる。
「それが、罰ですか?」
「うん。もしかして出来ない?」
「いえそんなことは……。ですがそんなことしても罰になんか―――!」
「いいや、罰だよ」
彼女が首を横に振ろうとしたところを俺は言葉を被せて否定する。
我ながら甘いなと思いつつ。『浸け込まれる隙を与えず、己の力でねじ伏せよ』という神山の言葉に逆行してるなと思いつつ。
「メイドの仕事は大変で奥が深いんだよ。きっとメイド長からは小姑のように窓の冊子に指這わせて『まだまだですね』ってイビられるんだから」
「……ふふっ、なんですかそれ。『根も葉もないことを』ってメイド長に怒られますよ」
クスリと笑う彼女にようやく笑みが戻ったと俺の頬も緩んでいく。
「だからシエルはメイドのお仕事をこれからも頑張ってくれると嬉しいな」
「……むぅ。なんだか無理矢理言いくるめられたような気がします」
「気のせいだよ。ほら、明日も早いんだから寝よう?」
頬を膨らまして抗議する彼女に俺はどこ吹く風で仰向けに寝転がり隣を叩く。
それでもなお抗議の意を示していた彼女だったが次第に諦めたのか、「わかりました」と微笑んで俺の隣に横になる。
「……ご主人さま」
「ん?」
「ありがとうございます。こう言っては不謹慎ですが、会えたのがご主人さまで本当に良かったです」
「それはボクも嬉しいよ。シエルが専属メイドになってくれてね」
「……もぅ」
小さく嬉しそうな彼女の文句を最後に部屋が静寂を取り戻す。
静かで暗い部屋。隣で横になる彼女もそろそろ落ち着いたかなと目を閉じようとしたところで、ふと彼女が俺を呼ぶ声に気づく。
「ご主人さま」
「……ん?」
「差し出がましいお願いなのはわかってますが……手を握っていてくれませんか?ご主人さまの優しさと嬉しさが夢ではないと感じていたいのです」
「もちろん。よろこんで」
彼女の恐る恐る伸びた手が俺の甲に当たったのをきっかけに、その柔らかな手をそっと握りしめる。
一瞬だけ驚きに身体を震わせた彼女だったがすぐに受け入れるように握り返される感触に、俺は今度こそ目を閉じる。
その日は随分と久しぶりに、俺もグッスリと眠れたのであった。
それは空想の産物であった。
偶にクラスメイトたちが話しているのを耳にする程度の興味のない話。
そんな無意味なものに時間を浪費するくらいならほんの少しでも勉強や習い事に精を出し、知識や経験を重ねた方がいい。そう思っていた。
しかしまさか、ロクに会話にも参加しなかった自分が転生してしまうなど夢にも思わなかった。
高校入試の途中に事故に遭い、気づいたら知らない世界。右も左も知らない人だらけで別人になってしまっていた。
まさかあの日に車が突っ込んでくるなんて考えもしなかったが、それ以上に異世界に飛ばされることなんて今でも信じられない。
「はぁ…………」
シエルとのお茶会も終わり1人書斎で外を眺めていると、ふと調べた結果を思い出してたまらずため息が出てしまう。
知り合いもいなければ帰る方法すら無い。しかも幼くなっているという現実をむざむざと実感していた。
どうやって帰るか、そもそも帰る方法は存在しているのか。
もし帰れたとして、車が直撃した身体はどうなっているのだろうか。ここに来て一週間、とっくに身体は灰になっているかもしれない。
過去に戻れたり時間の流れが違っているなら希望の芽はあるが、そんな都合よく物事は動いてくれるだろうか。
限りなく低い可能性。
もはや帰ってもとの生活に戻るのは詰みといっても過言ではないかもしれない。
ここに留まるにしても元いた人格はどうなったという懸念点もあるし、考えることが多くて何度もため息がでてしまう。
何も見えない夜空。雲に覆われているのか星の一つさえ見えやしない。その暗闇がなんとなく自分の心を表しているような気がして更に気が滅入っていると、不意に扉から一筋の光が漏れ入っていることに気がついた。
「こんなところにいたのか。スタン」
「……お父さん」
扉を開けたであろう影からは渋めの声が聞こえてくる。以前も牢屋でシエルを前に会話をした父の声だ。
「どうした、時間になっても来なくて探していたぞ。食欲無いのか?」
「ううん、ちょっとボーッとしてただけ。今行くね」
気づけば夕食の時間になっていたようだ。
ちらりと視線を向けた先にはここ一週間集まっていた時間より30分ほど経ってしまっている。
心配そうに見つめる彼になんでもないと告げながら、彼とともに部屋を出る。
隣を歩く自分より遥かに背の高い男性。
彼の名はセルジュ・カミング。
この身体の実の父であり、代々伝わる貴族カミング家の現当主。
スタンと同じく翠の瞳を持ち、金色の髪をミディアムヘアにして前髪を上げた男性。
「本当か?もし頭が痛かったり辛いようならすぐ言ってくれよ。お医者様のところへ連れて行くからな」
「全然辛くもないよ。 ありがと」
彼は随分とこの身体に対して優しい男だ。
1週間経っても事故の後遺症を心配してくれる男性。
その性格は基本温厚。そしてこの身体、息子であるスタンにはダダ甘である。
この1週間接してきたが、殴られるどころか怒られた記憶すらない。
むしろアレがほしいコレが欲しいといった要望にかなり答えてくれて、この一週間の情報収集にかなり寄与してくれた。
だからかもしれない。
あの日、この世界にやってきた日に捉えたシエルに対して命を奪おうしたのは、殺伐とした世界という事情もあれど、それ以上にスタンへの愛情の深さもあってのことかもしれない。
彼にとって大事な息子が大変な目に遭った元凶が許せなかったのだろう。
ちなみに、本来の”スタン”は今の自分のような性格では無かったらしい。性格が変わったことについて随分と心配されたが、事故の影響ということで納得してくれた。
「ならいいんだが………っと、すまない。スタン、今日は夕食を一緒にできなさそうだ」
「えっ、どうしたの?」
父とともに歩けば普段食事をとる広間の前まで。
先に立った彼が扉に手をかけようとした瞬間、そんな言葉とともに困った笑みを見せてきた。
「どうやら仕事が入ったみたいでな。すまないな」
「う、うん」
彼が向けた視線の先には仕事関係であろうスーツ姿の男性が遠巻きに立っていた。
男性に軽く手を上げて足を向けた父親は。「あぁそうだ」となにかを思い出したかのように踵を返し、見送る俺の前でしゃがんでみせる。
「そういえばスタン、お前に2つ言わなきゃならないことがあったんだ」
「言わなきゃならないこと?」
「まず1つ目として、母さんから連絡あってな。あと1週間ほどで帰るようだ」
「母さんが……」
彼の言葉で「そういえば」と心の内で小さく呟く。
この世界に来て一週間、言われて気付いたが一度もその姿を見ていなかった。
その言い方から察するに1週間以上かかる遠くにいるのだろう。
「そして2つ目。3日後、マティナール……マティちゃんが屋敷に来るみたいだぞ」
「マティナール?……誰?」
母親ならまだ許容できる。しかし突然知らない名前が出てきて思わず言葉が漏れてしまった。
マティちゃん?この身体の知り合いだろうか。
「おいおい、それも忘れたのか? 大事な幼なじみを忘れたなんて知ったらあの子も悲しむぞ」
「幼なじみって……ボクの?」
「……まぁ実際に会えば思い出すさ。それじゃあな、暖かくして寝ろよ」
「えっ……ちょ……!」
彼はそれだけを言い残し俺の頭を乱暴に撫でながら仕事へと向かっていってしまった。
広間へと続く大きな扉前で取り残されたのは俺1人。
「本当に……誰なんだ……?」
この世界のことなんて、スタンのことなんて何一つ知りっこない俺にとっては初出となる人の名前。
心の底から沸き上がる疑問の声は、開かれた窓から闇へと消えていった。
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「さて……そろそろ時間かな」
パタンと今まで読んでいた本を閉じてチラリと時計を見る。
時刻は日付変更までには随分と遠い時間帯。日本にいた頃の自分ならまだまだこれからと机に向かって問題の一つでも解いている時間だが、この身体になってからはもう瞼が重くなる時間だ。
どうやら精神は青年でも身体が幼いと活動時間は引っ張られるらしい。日本でよくいわれた『良い子は寝る時間』にはこの身体もフラフラになっていた
しかし身体がフラフラでもグッスリ眠ったことはない。やはり知らない世界に来たことによる緊張や不安だろうか。寝落ちはあっても快眠は出来ていない。残念ながらこの家に質の良い睡眠に関する本はないようだ。
「シエル、そろそろ寝ようか」
「はい。わかりました」
俺の言葉に反応した彼女は椅子から腰を浮かして入口近くのスイッチへと近寄っていく。しかしそのスイッチを直ぐに押されることはない。俺がベッドに入るのを待っているのだろう。
この一週間ですっかり慣れたルーティーンの如くベッドの中心を陣取ってシエルに視線を送ると『パチン』の音とともに部屋を照らしていた光がパッと暗くなる。
「それではご主人さま、おやすみなさい」
「うん、シエルもおやすみ」
部屋の照明が落とされても窓から光が降り注ぐ。
夜の優しい月の光に照らされた彼女がベッド横で一礼するのもまたルーティーン。今日もぐっすり眠れそうだとベッドの温もりに身を投じ瞼を閉じようとしたところで、ふといつものルーティーンとは違う様子にふと視線を向けた。
「シエル?」
「…………」
挨拶とともに一礼した彼女だったが、その後は何をするわけでもなくただジッと俺を見つめている。
ジッと……というのは語弊があるかもしれない。伏し目がちになりつつ手を前でしきりに動かしてどことなく所在なさげだ。
「シエル?どうしたの?入らないの?」
「えっと、その……」
いつものようにベッドに入らないのか。そう問いかけても彼女は動こうとしない。
シエルをメイドとして雇ってからこっち、彼女は俺とともに眠っている。悪い言い方をすれば同衾という見方もできるが、そもそも小学生になるかどうかの年齢同士。俺の視点から見ても幼すぎて変な気など一切湧いてこない。
故にいつもの如く彼女もベッドに入り込むと思ったが今日は少し様子がおかしい。何かをいいたげにしている彼女を見ていると、意を決したように口を開く。
「ご主人さま、すみませんでした……!」
何かを迷っていた彼女は突然何を思ったのか、謝罪の言葉とともに頭を下げてきた。
これもまた日本の影響が出ているのだろうか、深い45度にも及ぶ最敬礼。全く思い当たることのない謝罪に思わず身体を起こす。
「シエル……それは何を……?」
「その、ご主人さまに命を救っていただいたことです……!あの日は突然捕らえられて牢に入れられて何もわからず混乱してましたが、私のせいで大変な目にあったと聞いて……。その上殺されてもおかしくなかったのにこうして雇っていただいて……」
「あぁ……」
あぁ、そのことか。
突然の言葉に合点がいった俺はフッと肩の力が抜けるのを感じる。
「この一週間言おうと思ってましたが、嫌な記憶を思い出して心変わりされたらと思うと怖くなり……。今まで謝罪もできずすみませんでした……!」
彼女の礼は更に深くなり90度まで。もはや直角にまで頭を下げた彼女に、俺はシーツをめくって軽く叩く。
「シエル、おいで」
「ご主人さま……でも……」
「おいで」
「……はい」
突然来るよう促されたことに少しだけ抵抗を見せた彼女だったが、2度目の呼びかけで素直にベッドに潜り込む。
左隣にたどり着いたシエル。少し距離を離れてベッドボードに背を預ける彼女に俺はその方を持ち無理矢理近くまで引き寄せる。
「ひゃっ……!」
「シエル、謝らなくていいよ。ボクは何も怒ってないから」
「でもご主人さま……あの時とても酷い状態だったとメイド長が……」
「それでもだよ」
腕の内に収まる彼女が言葉を重ねたところで問題ないと突っぱねる。
俺はあの日の彼女について怒りの感情なんて一つも持ち合わせていなかった。
文字通り目が覚めたら全てが終わっていたのだ。あの事故が原因でこの身体にやってきたのだろう俺。目が覚めたら全て終わっており、少し傷は残ったが治療のお陰か大したことはなく、投げ出された記憶なんて当然ない。
言うなれば当事者ながら他人事なのだ。それよりも命が軽いこの世界の倫理観に恐怖を覚えたほど。
「アレだけシエルもガリガリだったんだ。きっとスラムも大変だったんだよね」
「それでも……私は……」
「だったらシエル、一つ罰を与えてもいいかな?」
「……!! は、はい!なんでも……!!」
これまで目を伏せていた彼女だったが、”罰”という言葉をきっかけに顔を上げこちらをまっすぐ見つめてくる。
まさしく罰を望んでいる目。そんな彼女に微笑んで、そっと頭を撫でながら”罰”の内容を告げる。
「ボクは自慢じゃないけど頭は良い方、でも生活力は無いんだ。……だからシエル、シエルはこれからメイドの仕事を一つでも多く覚えて、ボクの身の回りをフォローして」
「…………えっ?」
俺の告げた内容に理解が追いつかなかったのか、彼女の目が一瞬点になる。
「それが、罰ですか?」
「うん。もしかして出来ない?」
「いえそんなことは……。ですがそんなことしても罰になんか―――!」
「いいや、罰だよ」
彼女が首を横に振ろうとしたところを俺は言葉を被せて否定する。
我ながら甘いなと思いつつ。『浸け込まれる隙を与えず、己の力でねじ伏せよ』という神山の言葉に逆行してるなと思いつつ。
「メイドの仕事は大変で奥が深いんだよ。きっとメイド長からは小姑のように窓の冊子に指這わせて『まだまだですね』ってイビられるんだから」
「……ふふっ、なんですかそれ。『根も葉もないことを』ってメイド長に怒られますよ」
クスリと笑う彼女にようやく笑みが戻ったと俺の頬も緩んでいく。
「だからシエルはメイドのお仕事をこれからも頑張ってくれると嬉しいな」
「……むぅ。なんだか無理矢理言いくるめられたような気がします」
「気のせいだよ。ほら、明日も早いんだから寝よう?」
頬を膨らまして抗議する彼女に俺はどこ吹く風で仰向けに寝転がり隣を叩く。
それでもなお抗議の意を示していた彼女だったが次第に諦めたのか、「わかりました」と微笑んで俺の隣に横になる。
「……ご主人さま」
「ん?」
「ありがとうございます。こう言っては不謹慎ですが、会えたのがご主人さまで本当に良かったです」
「それはボクも嬉しいよ。シエルが専属メイドになってくれてね」
「……もぅ」
小さく嬉しそうな彼女の文句を最後に部屋が静寂を取り戻す。
静かで暗い部屋。隣で横になる彼女もそろそろ落ち着いたかなと目を閉じようとしたところで、ふと彼女が俺を呼ぶ声に気づく。
「ご主人さま」
「……ん?」
「差し出がましいお願いなのはわかってますが……手を握っていてくれませんか?ご主人さまの優しさと嬉しさが夢ではないと感じていたいのです」
「もちろん。よろこんで」
彼女の恐る恐る伸びた手が俺の甲に当たったのをきっかけに、その柔らかな手をそっと握りしめる。
一瞬だけ驚きに身体を震わせた彼女だったがすぐに受け入れるように握り返される感触に、俺は今度こそ目を閉じる。
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