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第2章
040.夏風邪
しおりを挟む走る――――
ただひたすらに走る――――
空から水が降り注ぎ、地に溜まった水が跳ねるのを構うことなく。
いつだったか同じような事があった日を思い出す。あれは彼女と初めて会った時だったか。
しかし今回は雨から逃れる為家に向かって走っているわけではない。別の目的により、雨の中を一刻も早くたどり着くために走っているのだ。
それもこれも、今朝来た一本の電話から始まった――――
『慎也さん! 今日お時間ありますか!?』
朝食を終え、紗也とのんびりゲームでもして過ごそうかと思っていた頃、突然の着信に出ると真っ先にそんな言葉が飛び込んできた。
いつもの定型文すらない一方的な問いかけ。けれど誰が相手だとかそんな疑問は一切ない。表示されていた名前はもちろんのこと、電話越しでもこんな透き通るような声は一人しか心当たりはない。
『ありませんが……何がありましたか?アイさん』
平静を保ちながら答えるもここまで一方的な彼女も珍しい。
その声色からただごとでないと判断した俺は、返事を待つことなくベッドから立ち上がり、片手でクローゼットから適当な服を取り出していく。
『その……エレナが風邪を引いてしまいまして……』
『エレナが!?』
つい信じられずに聞き返すと肯定の返事が返ってきた。
エレナが風邪……バカは風邪引かないなんて事を言うつもりは無いが、あの元気と我が道を地で行く彼女が風邪を引く姿は全く想像ができない。もしかしたらドッキリかなにかかとも思ったが、この慌てようから察するにそれも違うようだ。
『今も苦しそうに寝込んでいてつきっきりで看病してあげたいのですが、私達はこれから揃って仕事で……』
『……そこで手が空いているであろう俺に任せたいと』
これまた肯定の返事が。
なるほど事態は理解した。それは確かにただ事ではない。
紗也には悪いが今日のゲームは延期だな。
『ただの風邪なのですがあの子が寝込むのは随分久しぶりのことでして……それに私達も頼れるのが慎也さんしかおらず……』
『気にしないでください。今から向かいますが鍵はどうすれば?』
『っ……!ありがとうございます!今からなら合流して合鍵をお渡しできると思いますので!』
それから手短に駅で合流するよう打ち合わせをする。
通話を終える頃には既に準備も全て終え、大急ぎで部屋を飛び出した。
―――――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
――――そうして無事アイさんと合流して駅からマンションまで走っているのが現在。
家を出る頃は曇り空だった空も、駅を出る頃にはここにきて本降りに。
こんなことならアイさんの乗っていった車に積んでもらって引き返して貰えばよかった……いや、そんなことしたら仕事に間に合わなくなるだろう。だからこれが正解なんだ。
水を跳ねながらダッシュで見慣れてきた道をゆく。
雨がなんだ。中学の頃は散々プールという名の水に触れてきたじゃないか。肌に服が張り付く不快感を感じながらひたすら足を動かしていくと、ようやく目的地となる高いマンションが見えてきた。
「はっはっ……。やっとついた……!」
ノンストップで走り続けたおかげで予想よりずいぶん早くたどり着けた。
服は川に飛び込んだんじゃないかと思う程びしょ濡れだが、こればっかりは些事として切り捨てる。
オートロック式の自動ドアはアイさんに借りた鍵で…………無事空いてくれた。
他の住民がいたら怪訝な目で見られてしまう格好で不安だったがすれ違う人もおらずそのままエレベーターに乗り込んだ俺は、お見舞いの品とともに買ったタオルで全身を拭きながら到着を待つ。
エレベーターが着いた頃には全身を拭き終わる……こともなくまだまだ身体はしっとりと濡れていた。
今回ばかりは高速すぎるエレベーターが恨めしい。だからといってあまり一人にもさせたくないと水気を取るのもそこそこに、手にした鍵をエレナの部屋の前で使う。
カチャッと―――――
少しの電子音とともに鍵の開く音がする。よかった、もしかしたら違う鍵かもと一瞬不安なったが問題ないようだ。
「お邪魔しまー……うっ!」
そんなこんなで数度目となるエレナの部屋へ訪問…………しようとした所、目の前の光景を見て思わず足を止めてしまった。
足を踏み入れようとした玄関。そこには靴がバラバラに散乱し、なんとか通り抜けても玄関から続く廊下には服やら鞄やら様々なものが散らばっていた。以前来た時はすごい綺麗だったのに……あのときとは打って変わって酷い惨状も顔をしかめる。
「エレ……ナ……?」
まるでどこぞのイライラ棒のように床にあるものを踏まないよう、ゆっくりゆっくりと隙間を縫うように歩みを進めていく。
そして廊下を曲がって正面に見えるリビング――――その手前の扉が大きく開け放たれていた。
思わず目に入ったそこには廊下とは別世界のように整理整頓されている部屋だった。モノクロの家具で構成された、面積に対して家具の少ない部屋。そしてその最奥にあるベッドから金髪の女の子の姿が。
「エレナ!!」
ベッドに横たわる少女を見た俺は思わずその部屋に飛び込んだ
慌てて駆け寄れば間違いなくエレナが。彼女を見て居ても立っても居られなくなり、着の身着のままでそばまで駆け寄っていく。
「エレナ、大丈夫!?」
「んん……」
大急ぎで呼びかけたけれど反応は薄い。どうやら眠っているみたいだ。
しかしその表情は安寧から程遠く、紅く苦しそう。これは確かに深刻だ。
なにか無いかと辺りを見渡せば、近くの棚にはアイさんが置いていったであろう冷却シートやドリンク、体温計など看病セットが。
「んっ……あ、アイ……? まだ、行って無かったの……? 遅れたら大変、よ……」
人の気配に気づいたエレナは目を開けることなく苦しそうにしながらもここには居ないアイさんへ向かって叱る。
彼女の綺麗な金髪は所々跳ねていて息も絶え絶え。相当辛いはずなのに、アイさんの心配をするなんて……
「アイさんじゃないよ。 俺、慎也だよ」
「慎……也……? あぁ……ついに風邪が幻覚を見せてきたのね……本物だったらどれだけ嬉しかったことか……」
幻覚であることを確かめるためか、彼女は震えながら手をゆっくりとこちらに動かしてきた。
しかしその手は突然力が抜け、空を切ったところで俺がその手を両手で受け止める。
「幻覚なんかじゃないよ。ほら、感触あるでしょ?」
「あっ……ホント…………えっ、えぇ!? な、なんで……!?」
来ることを全く予期していなかったのか、本当に居ると自覚してからの彼女は慌てて起き上がろうと試みる。
しかしその腕には全く力が入っておらず、起きようとしたもののすぐに肘を折って再びベッドへと崩れ落ちてしまう。
「風邪引いてるんだから無理しないで!アイさんに呼ばれたんだよ。一人にさせないでほしいって」
「そんなの私聞いて……!……いえ、もしかしたらボーッとしてるときに聞いたのかも……」
駅で会った彼女からは伝えたと言っていたが、どうやら伝達に不備が発生していたようだ。
こんな状態なんだ。聞き逃すのも無理ないだろう。俺は道中買ってきた品々を棚に並べていく。
「色々と買ってきたから必要なものがあったから言って」
「ありがと……助かるわ……」
買ってきたものはスポーツドリンクにゼリー、のど飴にレトルトのお粥など。
とりあえずは一日これで持つだろう。持たなかったらまた買いに行けばいい。
「ねぇ……」
「ん?」
「ちょっとこっち……来て頂戴……」
「?」
なんだかよくわからないがとりあえず従うためにベッド横で跪き、顔を手招きしている彼女に近づける。
するとその行動が正解だったのか、紅く火照った彼女に笑みが浮かんで招いていた手をゆっくり俺の頭に乗せてきた。
「お姉ちゃんのピンチに駆けつけるなんて……流石は自慢の弟ね……」
「エレナ…………」
そっと頭に触れたそれは、優しいナデナデだった。
まったく、風邪引いて辛いはずなのにこの姉ったら…………。
「いい子ね……」
「……あぁ。でも病気の姉はちゃんと休んでくれよ?」
「――――」
「……? エレナ?」
人のことよりまず自分のことだろうに。そう思って相槌をうったものの彼女はそのまま黙りこくってしまった。もしかしたら眠ってしまったかとも思ったが、手は動かしたまま。
反応のない彼女に妙だと思って名を呼ぶと、突然頭に乗せていた手が顔の至るところに動かしはじめ、ついには俺の服をギュッと握りしめる。
「えっと……エレナ?なにかあった?」
「なんで、濡れてるの?」
「へ?」
「なんで髪も、それに服も……そんなに濡れてるの?」
それは不安気な。そして深刻さを伴った問いかけだった。
そうか。この部屋は音がない。今隅で動いている空気清浄機以外静寂に包まれている。
窓もカーテンも締め切ってる上、防音性能が高いから、雨が降っていることなど気づきようがないのか。
「ちょっと来るときに雨にね……」
「お風呂……入って行きなさい」
「そんなの平気だよ。 部活で濡れるのはいつものことだったし、これくらいすぐ乾くから」
「駄目よ。お姉ちゃん命令……だから、ちゃんと身体温めてきな……さい」
彼女は今度こそ震えながらなものの身体を持ち上げ正面切って俺と向き合う。
その眼は至って真剣。しかし俺としては気にする必要はない。真っ向から対立する意見ながらその目に怯んでふと目を逸らしてしまう。
すると、思わず目に入ったのは下方向で――――
「あっ、うん。わかった……。すぐ入ってくる!!」
そこからは自分でも驚くくらいの変わり身の速さだった。
"それ"を見た俺は多少カクつきつつもロボットのような動作で部屋を出ていく。
そんな俺を見送った彼女はベッドから上半身だけを起こしながらポカンと不思議そうな顔で見送っていた。
「どうしたのかしら……?素直なのはいいことだけど……。……そういえばあの子、出ていく前に下の方向いてたわね。なにか変なモノでも出……て――――」
しかし俺が部屋を出た瞬間、"それ"がなにか彼女も理解したのだろう。
踵を返して部屋を出ていき、閉めた扉からはボフン!と何かがぶつかる音がする。
きっと直ぐ側にあった枕やクッションを投げつけたのだろう。
戻るのが怖いが、まずは彼女に言われた通りお風呂入らないと許してもらえない。
俺はお風呂場の場所を確認するためにアイさんへメッセージを送る。
文面を打った後、頭の中で大半を占めている先程の光景を忘れるため頭を振り払った。
思い浮かんだのは彼女の姿。さっき起き上がって布団が捲れた時、パジャマが目に入った。白の生地にハートマークがあしらわれた可愛らしいもの。
可愛らしいパジャマの存在。乙女の寝間着姿を見るのはギルティだが、それ自体は風邪を引いていたし不可抗力として許してくれるだろう。
問題はその後。その服は前開きで脱ぎ着するタイプだったのだ。
おそらく体温計を使うためにそうしたのだろう。俺の見た"それ"…………上部のボタンが外され胸元まで大きく開かれていたパジャマの先の光景は、絶対に忘れることができない光景となってしまった――――
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