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第2章

037.乙女のヒミツ

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 バシャバシャと――――

 水の跳ねる音が室内に響く。
 偶に水が大きく跳ねたと思ったらタンッ――と、壁を蹴る音の後にほんの少しの静寂が訪れた。


 夏。猛暑……もはや酷暑。
 連日30度を超えるという、ここ暫くの暑さに耐えられなくなった俺は一人学校へと足を運んでいた。

 目的地は体育教員室、昔散々お世話になった古巣だ。
 全ては気温とともに増す不快感を癒やしにプールで泳ぐために。

 中学時代、俺はずっと水泳部だった。
 ここは中高一貫校、中学からエスカレーターだったが故に当然、部活のある日も熟知している。
 だから今日は誰もプールを使う予定が無いのはお見通しだ。
 そうして俺は使用予定の無いプールを独り占めして水の享受にあやかっていた。


 25メートル、50メートル、75メートル…………
 何度も何度もターンをしてただただノンビリと水を掻き続ける。
 適当にアップのつもりで泳ぎだしたが止め時を見失ってしまい、いつの間にかただ黙々と泳ぎ続けるだけになってしまった。
 もう1000メートルは過ぎたはずだ。だいぶリフレッシュも出来たし、このくらいにしておこう。

「ぷはっ!」

 正確にどれくらい泳いだかはわからないが時計を見ると短針長針の両方が天辺を示している。泳ぎ始めたのは11時だから1時間もひたすら泳いでいたみたいだ。
 気づけばお腹も鳴っていてそろそろ潮時だと身体が教えてくれている。早いところ上がってどこかお昼でも食べに行こうと予定を立てて、スタート台に手をかけ身体を持ち上げる。

「お疲れ様。 はい、タオル」
「おっ、ありがと」

 勢いをつけてプールサイドへと上がるやいなや、タオルが差し出された。
 あぁ、夏とはいえ水滴放置で身体が冷えるのは危険だからタオルはありがたい。フワフワで柔らかなタオルを大きく広げて髪や顔に付いた水滴を拭き取っていく。

「泳ぎ、かっこよかったよ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。偶には泳ぐのもいいもんだね」

 ここまで思い切り泳いだのは久しぶりだ。
 健全な精神は健全な肉体から。久しぶりの運動で心も晴れやかな気分。
 自分でも思った以上に気持ちがスッキリしてる。今なら大抵のことは許せるくらいに――――

「―――うん?」

 何故だろう。
 なんだか妙な違和感を覚えて更衣室まで伸ばそうとしていた足を止まらせる。

 このタオルは何だ?
 誰に貰った?
 誰が話しかけてきた?

 完全に油断していた頭を働かせ慌てて振り返ると、ちょこんと一人の少女がウチの制服姿で立っているのが目に入る。

「やっ。 水もしたたるいい男だね」
「…………リオ!?」

 なんてことのない様子で片手を上げ挨拶をするのは、どこからどう見てもリオだった。

 俺についてくるように歩いていた彼女は普段どおりの眠そうな半目をしており、この場だとまったく違和感のない我が校の制服が、逆にとんでもない違和感を引き出している。

「なんでここに!?」
「そりゃあ、慎也クンに会いに?」

 何を当たり前の事を――――そんな様子で疑問符をつけてくるリオ。
 いや、そうじゃなくって!

「なんでここに俺が居るってわかったの?」
「そりゃあ、お――――」

 お…………?

「――――いや、乙女のヒミツだよ。それより、泳ぎ上手かったんだねぇ」
「まぁ、元水泳部だからね……」

 わかった、学校侵入は仕方ないと、心のなかで決着をつける。
 以前もなんてことなく学校にやってきた彼女だ。もはや"リオだから"で片付けてしまおう。

「元?」
「あぁ」

 元……。
 あのときは随分と頑張ったものだ。頑張りすぎたせいで今も俺の髪は茶色だ。

「辞めちゃったんだ?」
「まぁ、ね」

 彼女の視線が射抜くように見つめて来るのを目を逸して誤魔化す。

 別に辞めたことに後悔は1つもない。周りには随分驚かれたし、何故だと追求もされて説明もきちんとした。
 ただ、聞くだけ聞いて『もったいない』の言葉の後に『逃げたんだ』というような目をされるのが怖かった。
 今まで何度もそういった目をされてきた。言葉にはしないが、勘違いかもしれないが、あの目が恐ろしかった。

 だから今回も彼女の顔を見ることが出来ず視線を合わすことができず目を逸らす。


「ふぅん……。む……」
「? リオ……?」

 俺が黙って視線を外しているうちに、気づけば彼女はスッと懐に潜り込んで上から下までジロジロと見つめてくる。
 それはもう足の先から頭まで、余すことが無いほど真剣に見つめてきていた。
 今、水着姿なんだけど……

「ふむ。 中々いい体しておりまする」
「ちょっ……! リオ!!」

 その謎行動に困惑し、恥ずかしくなっていると突然、彼女が俺の腹筋を触ったりつついたりするものだから反射的に後ろに後ずさりして回避する。
 いきなり俺が後ろに下がるものだから彼女の手は空を切り、触れることに失敗した彼女の頬は段々と膨らんでいくのが見て取れた。 

「む……触らせてくれたっていいのに」
「さすがに俺も恥ずかしいから勘弁して……」

 ダラダラと冷や汗をかきながら渡されたタオルで腹を隠す。
 不満げな様子で抗議の視線を飛ばしてくるリオ。それはもっと触らせろなのか、お眼鏡にかなうものではなかったのか……

 どちらにせよこれ以上触らせることは無いのだが、いつの間にかあの目ではなかったことに気づき、少し安心感を感じさせた。

「せめてもう10分だけ!」
「長すぎるから!……それに、あんまり男の人の身体触るもんじゃないよ」

 つい、何の警戒感も示さず心のままに触れてきた彼女の行動を注意する。
 しかしリオはその言葉が不思議だったのか、半開きだった目が開いていつしかのアイさんのように首を傾ける。

「どういうこと?」
「いやだから、そんな無防備に男の人を触ろうとすると、いつか痛い目に…………」
「? 私がこんなことするのは慎也クンだけだよ?」
「へ…………?」

 何をバカなことを――――
 そんな視線を込めて口を開くリオ。
 あまりにも自由だからどこでもそんな感じかと思っていたが、違うのだろうか。

「私があの公園で言ったこと、忘れたの?」

 積み重なるように質問を重ねられて俺もハッとさせられる。

 ――――忘れるものか。
 後にも先にも、あんな事を言われるのは彼女だけだろう。

 それ自体はありがたい。告白されたのは初めてだったしあの夜は俺も眠れなかった。
 しかし、だからこそわからないことが沢山あった。何故俺なのか、何故あの日なのか、何故……

「あの時、俺達は初対面だったよね……?」

 あの日から不思議だった事を問いかける。もしかしたら記憶違いでどこかで会ってるのかもしれない。
 でも、そんな記憶はずっと考えてもどこにも見当たらなかった。

「むぅ……!」
「えっ!? ちょ! リオ!?」

 何かが気に入らなかった彼女は俺の背中を押し、シャワールームへと押し込んでいく。
 ダンッ!と追い詰められたのはシャワー下。彼女はそのまま俺の目を真っ直ぐ見つめながら手だけを俺の後ろに回していく。

「…………本当に覚えてない?」
「…………いや」

 ザァァ…………。
 そんな音が辺りに響き渡る。
 頭上から降り注ぐは温かなシャワー。雨のような水滴の数々は俺はもちろん追い詰めているリオをも水に濡らしていく。

「本当に?」
「本当だ。……どこかで、会ったの?」

 まさか……そんなことは……。
 目を揺らしながら事実を応える。本当に知らない。覚えていない。

 ジッとこちらを見つめてくるリオ。
 服が濡れるのもいとわずに真っ直ぐ見つめていたが、俺の言葉は真実だと判断したのか一つ息を吐いて離れていく。

「リオ……………?」
「――――ヒミツ!女の子は謎が多いほうが輝くんだぜ!」

 ザッと滝のようなシャワーと共に髪を濡らした彼女の声が反響する。
 水しぶきの舞う中――――口元に人差し指を当ててウインクする姿はとても幻想的に映るのであった。
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