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エドゥアール、6歳
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「リシェーナ、かえるまえに、じかんはある? いっしょにおちゃをしよう」
「リシェーナ、なかにわの花がきれいなんだ。 いっしょにさんぽをしよう」
「リシェーナ、シェフがフィナンシェをたくさんつくってくれたから、おみやげにどうぞ」
あれから、一年余りが経つが、エドゥアールは相変わらず、「リシェーナ」「リシェーナ」「リシェーナ」だ。
それが、夫人について誰かに「語りたい」・「聞いてほしい」から、夫人と「一緒の時間を過ごしたい」になったのが、この一年余りでの変化だと、アルヴァートは思っている。
週に三日ほど、ブラッドベル夫人と過ごす二時間ほどを、エドゥアールはとても大切にしているし、待ち遠しく思っているようなのだ。
「…エドは本当に、夫人がお気に入りだね…」
アルヴァートとしては、嘆きの気持ちを口にしたのだが、エドゥアールにはそうは聞こえなかったのだろう。
嬉しそうに、きらきらにこにこの笑顔で口にする。
「はい、リシェーナはきれいでやさしいので大すきです」
「そうですか…、大好きですか…」
何とも言えない声を出したアンネローゼも、恐らくアルヴァートに近い気持ちを抱えているのだろう。
だが、エドゥアールとまだ幼いフレンティーナはそんなことには気づかないらしい。
エドゥアールの隣にちょこんと座ったフレンティーナは、両手で持ったマドレーヌをかじりながらエドゥアールに訊いている。
「にーに、ちーなは? ちーなは、しゅき?」
「ティーナ、かわいいね。 大すきだよ」
にこにこと微笑み合っているフレンティーナとエドゥアールに、アンネローゼが顔面を両手で覆って天を仰いだ。
ふるふると小刻みに震えてはいるが、叫び出すことはなんとか自制しているようなので、まあいいだろう。
確かに、にこにこと微笑み合っているフレンティーナとエドゥアールは可愛くて、尊い。
これに勝る癒しは、オズワルドの微笑みくらいだろうとアルヴァートは思っている。
そんなわけで、アルヴァートはほっこり、と和んでいたのだが、「でも」と続けたエドゥアールの発言に固まることとなる。
「でも、ティーナへのすきと、リシェーナへのすきは、少しちがうんだよ。 ぼくが大きくなったら、リシェーナにおよめさんになってもらうんだ」
にこにこと笑顔で語るエドゥアールを、何とか傷つけない言い方を…と考えながら、アルヴァートは口を開く。
「…うーん、それは難しいんじゃないかな?」
途端に、エドゥアールの顔が曇った。
「どうしてですか?」
そこで、我に返ったらしいアンネローゼが、瞳を潤ませてキリッと表情を引き締めた。
高らかに、アンネローゼは声を上げる。
「母様も反対です! ブラッドベル夫人は儚げでお綺麗だけれども、人妻なのよ?」
どこから取り出したのか、ハンカチーフをぎゅうっと握って、涙ながらに声を震わせるアンネローゼに、エドゥアールは何か母が困って悲しんでいることはわかったのだろう。
けれど、なぜ母が困って、悲しんでいるかはわからないのか、今度はエドゥアールが困った顔になってしまった。
「リシェーナと、【くれないのしし】がふうふなのはしっています。 でも、父上は母上のほかにも【ひ】がいました。 けっこんはなんにんとでもできるものではないのですか?」
無垢な瞳で訊いてくるエドゥアールに、アルヴァートは目を逸らしたくなった。
「…これはわたくしのせいではなくてよ」
隣に座るアンネローゼの目が、ひやぁ~っとしているのがわかる。 見なくてもわかる。
視線にはきっと力があるのだろう。
アンネローゼの側から、チクチクと無数の針で刺されるような痛みがあるような気さえする。
そうか、これが、針の筵か。
「…ああ、わかっている。 私のせいだ」
アルヴァートは両手で顔を覆ってうなだれた。
深く長く溜息をついて、アルヴァートは覚悟をする。
エドゥアールの、婚姻に対する間違った知識は、アルヴァートのせいで植え付けられてしまったものらしい。
だとすれば、これはアルヴァートが釈明して、真実を告げなければならないことだ。
顔から手を外して顔を上げたアルヴァートは、姿勢を正してキリッと表情を引き締めた。
だが、口を開こうとしたアルヴァートを押しのけるようにして、エドゥアールに言い聞かせ始めたのはアンネローゼだった。
アンネローゼの自由奔放ぶりには、さすがのアルヴァートも閉口せざるをえない。 何を言っても無駄なのだ。
「よいですか、エド。 よくお聞きなさい。 伴侶を複数持てるのは、フレンティアでは王族の男児のみに限られているのです。 ですから、ブラッドベル夫人がエドのお嫁さんになることは、今のところありえません」
その瞬間の、エドゥアールの顔は、まるで雷に撃たれたかのようだった。
瞳が大きく見開かれて、唇は薄く開き、身動きが取れない。
だが、それもつかの間。 薄く開いた唇がわななき、眉が下がって眉間に皺が寄る。
瞳には、うっすらと涙のようなものが滲んでいた。
「…そんな…」
エドゥアールの唇から、呟きが漏れたのだが、それをかき消すかのような勢いで、アンネローゼが声を上げた。
「あああああ、そんなに可愛い顔をしたってだめなものはだめなのですぅぅぅ!」
「アンネ、少し黙ろう」
ぎゅっと目を瞑ってエドゥアールから顔を逸らしながら叫ぶアンネローゼに、アルヴァートは溜息を禁じえない。
だがそうすれば、今度はエドゥアールの顔がアルヴァートへと向いた。
「父上、ほんとうですか…?」
くりっとした大きな目を潤ませて、しょぼん顔のエドゥアールが、上目遣いにアルヴァートを窺い見ている。
この顔を前に、「本当だ。 ブラッドベル夫人がエドのお嫁さんになることはない」と断言し、絶望の淵に追いやることができるだろうか。
アルヴァートは痛む胸を押さえるために衣装の胸の部分をぎゅっと握り、目を瞑って顔を背けた。
「あああああ、そんなに可愛い顔をしたってだめなものはだめなんだぁぁぁ!」
「陛下、少しお黙りになって。 ティーナが驚いています」
ぴしゃりとアルヴァートを叱咤するアンネローゼに、アルヴァートは口を噤む。
喉から出かかった、つい先ほどの君の声の方が大きかったぞ、という言葉を呑み込むことに無事、成功したのである。
「リシェーナ、なかにわの花がきれいなんだ。 いっしょにさんぽをしよう」
「リシェーナ、シェフがフィナンシェをたくさんつくってくれたから、おみやげにどうぞ」
あれから、一年余りが経つが、エドゥアールは相変わらず、「リシェーナ」「リシェーナ」「リシェーナ」だ。
それが、夫人について誰かに「語りたい」・「聞いてほしい」から、夫人と「一緒の時間を過ごしたい」になったのが、この一年余りでの変化だと、アルヴァートは思っている。
週に三日ほど、ブラッドベル夫人と過ごす二時間ほどを、エドゥアールはとても大切にしているし、待ち遠しく思っているようなのだ。
「…エドは本当に、夫人がお気に入りだね…」
アルヴァートとしては、嘆きの気持ちを口にしたのだが、エドゥアールにはそうは聞こえなかったのだろう。
嬉しそうに、きらきらにこにこの笑顔で口にする。
「はい、リシェーナはきれいでやさしいので大すきです」
「そうですか…、大好きですか…」
何とも言えない声を出したアンネローゼも、恐らくアルヴァートに近い気持ちを抱えているのだろう。
だが、エドゥアールとまだ幼いフレンティーナはそんなことには気づかないらしい。
エドゥアールの隣にちょこんと座ったフレンティーナは、両手で持ったマドレーヌをかじりながらエドゥアールに訊いている。
「にーに、ちーなは? ちーなは、しゅき?」
「ティーナ、かわいいね。 大すきだよ」
にこにこと微笑み合っているフレンティーナとエドゥアールに、アンネローゼが顔面を両手で覆って天を仰いだ。
ふるふると小刻みに震えてはいるが、叫び出すことはなんとか自制しているようなので、まあいいだろう。
確かに、にこにこと微笑み合っているフレンティーナとエドゥアールは可愛くて、尊い。
これに勝る癒しは、オズワルドの微笑みくらいだろうとアルヴァートは思っている。
そんなわけで、アルヴァートはほっこり、と和んでいたのだが、「でも」と続けたエドゥアールの発言に固まることとなる。
「でも、ティーナへのすきと、リシェーナへのすきは、少しちがうんだよ。 ぼくが大きくなったら、リシェーナにおよめさんになってもらうんだ」
にこにこと笑顔で語るエドゥアールを、何とか傷つけない言い方を…と考えながら、アルヴァートは口を開く。
「…うーん、それは難しいんじゃないかな?」
途端に、エドゥアールの顔が曇った。
「どうしてですか?」
そこで、我に返ったらしいアンネローゼが、瞳を潤ませてキリッと表情を引き締めた。
高らかに、アンネローゼは声を上げる。
「母様も反対です! ブラッドベル夫人は儚げでお綺麗だけれども、人妻なのよ?」
どこから取り出したのか、ハンカチーフをぎゅうっと握って、涙ながらに声を震わせるアンネローゼに、エドゥアールは何か母が困って悲しんでいることはわかったのだろう。
けれど、なぜ母が困って、悲しんでいるかはわからないのか、今度はエドゥアールが困った顔になってしまった。
「リシェーナと、【くれないのしし】がふうふなのはしっています。 でも、父上は母上のほかにも【ひ】がいました。 けっこんはなんにんとでもできるものではないのですか?」
無垢な瞳で訊いてくるエドゥアールに、アルヴァートは目を逸らしたくなった。
「…これはわたくしのせいではなくてよ」
隣に座るアンネローゼの目が、ひやぁ~っとしているのがわかる。 見なくてもわかる。
視線にはきっと力があるのだろう。
アンネローゼの側から、チクチクと無数の針で刺されるような痛みがあるような気さえする。
そうか、これが、針の筵か。
「…ああ、わかっている。 私のせいだ」
アルヴァートは両手で顔を覆ってうなだれた。
深く長く溜息をついて、アルヴァートは覚悟をする。
エドゥアールの、婚姻に対する間違った知識は、アルヴァートのせいで植え付けられてしまったものらしい。
だとすれば、これはアルヴァートが釈明して、真実を告げなければならないことだ。
顔から手を外して顔を上げたアルヴァートは、姿勢を正してキリッと表情を引き締めた。
だが、口を開こうとしたアルヴァートを押しのけるようにして、エドゥアールに言い聞かせ始めたのはアンネローゼだった。
アンネローゼの自由奔放ぶりには、さすがのアルヴァートも閉口せざるをえない。 何を言っても無駄なのだ。
「よいですか、エド。 よくお聞きなさい。 伴侶を複数持てるのは、フレンティアでは王族の男児のみに限られているのです。 ですから、ブラッドベル夫人がエドのお嫁さんになることは、今のところありえません」
その瞬間の、エドゥアールの顔は、まるで雷に撃たれたかのようだった。
瞳が大きく見開かれて、唇は薄く開き、身動きが取れない。
だが、それもつかの間。 薄く開いた唇がわななき、眉が下がって眉間に皺が寄る。
瞳には、うっすらと涙のようなものが滲んでいた。
「…そんな…」
エドゥアールの唇から、呟きが漏れたのだが、それをかき消すかのような勢いで、アンネローゼが声を上げた。
「あああああ、そんなに可愛い顔をしたってだめなものはだめなのですぅぅぅ!」
「アンネ、少し黙ろう」
ぎゅっと目を瞑ってエドゥアールから顔を逸らしながら叫ぶアンネローゼに、アルヴァートは溜息を禁じえない。
だがそうすれば、今度はエドゥアールの顔がアルヴァートへと向いた。
「父上、ほんとうですか…?」
くりっとした大きな目を潤ませて、しょぼん顔のエドゥアールが、上目遣いにアルヴァートを窺い見ている。
この顔を前に、「本当だ。 ブラッドベル夫人がエドのお嫁さんになることはない」と断言し、絶望の淵に追いやることができるだろうか。
アルヴァートは痛む胸を押さえるために衣装の胸の部分をぎゅっと握り、目を瞑って顔を背けた。
「あああああ、そんなに可愛い顔をしたってだめなものはだめなんだぁぁぁ!」
「陛下、少しお黙りになって。 ティーナが驚いています」
ぴしゃりとアルヴァートを叱咤するアンネローゼに、アルヴァートは口を噤む。
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