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エドゥアール、5歳 ③
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一瞬、ブラッドベル卿の眉間に皺が寄ったが、父はそれを見なかったことにするらしく、リシェーナを見た。
「で、夫人はどうしたい?」
リシェーナは、父に話を振られるとは思わなかったのだろう。
少し考えた後で、先程ブラッドベル卿に問われ、返せずにいた答えを、ぽつ、ぽつ、と語り始めた。
「お家のことも、したいから、毎日は、難しい、です。 でも、お受けしたい、です」
ゆっくりとした、発音。 不自然なところで、途切れる言葉。
それは恐らく、国王を前に、失礼にならない――苦手だという敬語の――言い方について考えを巡らせながら、言葉を紡いでいるからだろう。
そして、エドゥアールの見立てではあるが、リシェーナの夫であるブラッドベル卿は、リシェーナが教師をすることに反対らしい。 眉間にわずかだか皺が寄り、難しい表情になっている。
だが、リシェーナは恐らく、夫の表情に気づいていないのだろう。
リシェーナの手がそっと動いて、ブラッドベル卿の膝に触れた。
ブラッドベル卿は、眉間の皺も、難しい表情も一瞬できれいに消して、リシェーナに顔を向ける。
リシェーナの顔は、父に向いたままで、でも、はにかんだように微笑んでいた。
「お仕事している、彼…、いえ、主…人、の大変なこと、理解できたら嬉しいから」
それを、どんな気持ちでブラッドベル卿は聞いたのだろう。
リシェーナに向けられる視線が温かくて、とても優しい表情をしている。
エドゥアールは、リシェーナのことを、優しいひとなんだろうな、と思った。
それから、もし、ここでリシェーナが自分の教師になってくれなければ、次にいつリシェーナに会えるかわからない、とも。
そう思ったら、唇が勝手に動いていた。
「ぼくも」
エドゥアールの声に、リシェーナだけではなく、父や、ブラッドベル卿の目も、エドゥアールに向いた。
三対の目に見つめられて、多少緊張したけれど、エドゥアールは背筋を伸ばして声を張る。
「ぼくも、リシェーナがいいです」
ぎゅっと膝の上で握った手の中が、汗で湿っているような感じがする。
自分の心臓の音が、聞こえてきそうな気すら。
でも、目の前で微笑んでくれるリシェーナを見たら、ほっとして、手の平の汗も心臓の音も気にならなくなった。
代わりに、全身がぽかぽかと温かいような感じがする。
「エドも夫人の方がいいそうだ。 諦めろ、ジオーク」
エドゥアールの隣に座った父が、ブラッドベル卿を諭しているようだが、そちらを気にする余裕はエドゥアールにはなかった。
真正面に座ったリシェーナが、唇だけを笑みの形にして、綺麗な淡い緑の瞳で、じぃぃ~っとエドゥアールを見つめていたからだ。
視線に力などないだろうに、何だか身体がむずむずするような、落ち着かない気分だ。
エドゥアールが、そっと膝の上で握った拳に視線を落としてそわそわしていると、リシェーナの可愛い声が聞こえた。
「王子様はとっても可愛いから、【こあくま】ね?」
リシェーナの発言の後で、奇妙な沈黙があった。
それにつられてエドゥアールは顔を上げたのだが、リシェーナはエドゥアールに話しかけたわけではなく、ブラッドベル卿に耳打ちしていたらしい。
耳慣れない単語に、エドゥアールは首を傾げる。
「【こあくま】? それはディストニアごか?」
そうすると、リシェーナはエドゥアールに向き直って、笑顔で説明してくれる。
「フレンティア語です、よ? とっても可愛くて困るくらいに可愛くて、困ってもやっぱり可愛い生き物を【こあくま】って言うんですって」
それは、エドゥアールの知らない単語だったので、ひとつ勉強になった、と思う。
「…お前の夫人のあの理解は?」
だが、エドゥアールの横で、父は不思議そうにブラッドベル卿に尋ねている。
ということは、【こあくま】の意味は、リシェーナの理解とは違うのだろうか。
そう疑問を抱くエドゥアールをよそに、ブラッドベル卿は何もおかしなことはないとばかりに、頷いている。
「おれとマリーのせいです」
母国語なので知ったつもりでいたが、エドゥアールはきっと、知らないフレンティア語も多いのだろう。
たくさん、学ばなければいけない。
それで、リシェーナにディストニア語を学ぶのと同じく、リシェーナが知らないフレンティア語を、リシェーナに教えられるようになったらいいな、と思う。
でも、それよりも何よりも先に、これだけは伝えておかねばなるまい。
そう思って、エドゥアールは口を開いた。
「リシェーナ、ぼくはかわいいじゃなくて、かっこいいがうれしい」
エドゥアールは、真剣に言ったつもりだったのだが、リシェーナはきょとんとしている。
「でも、王子様は可愛い」
母に、「可愛い」と言われるのは抵抗がなかった。
母にとって、「可愛い」は至上の褒め言葉だからだ。
今まで、周りの大人たちに言われる「可愛い」にも、特に反論したことはなかった。
ではなぜ、今リシェーナに言われた「可愛い」には、「かっこいい」の方が嬉しい、と言ったのだろう。
考えてもわからなくて、エドゥアールは、リシェーナに訊いた。
「…リシェーナはかわいいがすき?」
上目遣いに、窺うようになったかもしれない。
リシェーナは、ほとんど真を置かずに、答えてくれた。
「はい、可愛いは好きです」
リシェーナは、エドゥアールのことを「好き」と言ったわけではないのに、ぽぽぽ、と頬が熱くなるような感じがする。
何だか落ち着かなくて、リシェーナから再び視線を逸らし、膝の上の拳を見つめて、ぽそぽそと口の中で呟いた。
「…じゃあぼくは、かわいいでいい」
「で、夫人はどうしたい?」
リシェーナは、父に話を振られるとは思わなかったのだろう。
少し考えた後で、先程ブラッドベル卿に問われ、返せずにいた答えを、ぽつ、ぽつ、と語り始めた。
「お家のことも、したいから、毎日は、難しい、です。 でも、お受けしたい、です」
ゆっくりとした、発音。 不自然なところで、途切れる言葉。
それは恐らく、国王を前に、失礼にならない――苦手だという敬語の――言い方について考えを巡らせながら、言葉を紡いでいるからだろう。
そして、エドゥアールの見立てではあるが、リシェーナの夫であるブラッドベル卿は、リシェーナが教師をすることに反対らしい。 眉間にわずかだか皺が寄り、難しい表情になっている。
だが、リシェーナは恐らく、夫の表情に気づいていないのだろう。
リシェーナの手がそっと動いて、ブラッドベル卿の膝に触れた。
ブラッドベル卿は、眉間の皺も、難しい表情も一瞬できれいに消して、リシェーナに顔を向ける。
リシェーナの顔は、父に向いたままで、でも、はにかんだように微笑んでいた。
「お仕事している、彼…、いえ、主…人、の大変なこと、理解できたら嬉しいから」
それを、どんな気持ちでブラッドベル卿は聞いたのだろう。
リシェーナに向けられる視線が温かくて、とても優しい表情をしている。
エドゥアールは、リシェーナのことを、優しいひとなんだろうな、と思った。
それから、もし、ここでリシェーナが自分の教師になってくれなければ、次にいつリシェーナに会えるかわからない、とも。
そう思ったら、唇が勝手に動いていた。
「ぼくも」
エドゥアールの声に、リシェーナだけではなく、父や、ブラッドベル卿の目も、エドゥアールに向いた。
三対の目に見つめられて、多少緊張したけれど、エドゥアールは背筋を伸ばして声を張る。
「ぼくも、リシェーナがいいです」
ぎゅっと膝の上で握った手の中が、汗で湿っているような感じがする。
自分の心臓の音が、聞こえてきそうな気すら。
でも、目の前で微笑んでくれるリシェーナを見たら、ほっとして、手の平の汗も心臓の音も気にならなくなった。
代わりに、全身がぽかぽかと温かいような感じがする。
「エドも夫人の方がいいそうだ。 諦めろ、ジオーク」
エドゥアールの隣に座った父が、ブラッドベル卿を諭しているようだが、そちらを気にする余裕はエドゥアールにはなかった。
真正面に座ったリシェーナが、唇だけを笑みの形にして、綺麗な淡い緑の瞳で、じぃぃ~っとエドゥアールを見つめていたからだ。
視線に力などないだろうに、何だか身体がむずむずするような、落ち着かない気分だ。
エドゥアールが、そっと膝の上で握った拳に視線を落としてそわそわしていると、リシェーナの可愛い声が聞こえた。
「王子様はとっても可愛いから、【こあくま】ね?」
リシェーナの発言の後で、奇妙な沈黙があった。
それにつられてエドゥアールは顔を上げたのだが、リシェーナはエドゥアールに話しかけたわけではなく、ブラッドベル卿に耳打ちしていたらしい。
耳慣れない単語に、エドゥアールは首を傾げる。
「【こあくま】? それはディストニアごか?」
そうすると、リシェーナはエドゥアールに向き直って、笑顔で説明してくれる。
「フレンティア語です、よ? とっても可愛くて困るくらいに可愛くて、困ってもやっぱり可愛い生き物を【こあくま】って言うんですって」
それは、エドゥアールの知らない単語だったので、ひとつ勉強になった、と思う。
「…お前の夫人のあの理解は?」
だが、エドゥアールの横で、父は不思議そうにブラッドベル卿に尋ねている。
ということは、【こあくま】の意味は、リシェーナの理解とは違うのだろうか。
そう疑問を抱くエドゥアールをよそに、ブラッドベル卿は何もおかしなことはないとばかりに、頷いている。
「おれとマリーのせいです」
母国語なので知ったつもりでいたが、エドゥアールはきっと、知らないフレンティア語も多いのだろう。
たくさん、学ばなければいけない。
それで、リシェーナにディストニア語を学ぶのと同じく、リシェーナが知らないフレンティア語を、リシェーナに教えられるようになったらいいな、と思う。
でも、それよりも何よりも先に、これだけは伝えておかねばなるまい。
そう思って、エドゥアールは口を開いた。
「リシェーナ、ぼくはかわいいじゃなくて、かっこいいがうれしい」
エドゥアールは、真剣に言ったつもりだったのだが、リシェーナはきょとんとしている。
「でも、王子様は可愛い」
母に、「可愛い」と言われるのは抵抗がなかった。
母にとって、「可愛い」は至上の褒め言葉だからだ。
今まで、周りの大人たちに言われる「可愛い」にも、特に反論したことはなかった。
ではなぜ、今リシェーナに言われた「可愛い」には、「かっこいい」の方が嬉しい、と言ったのだろう。
考えてもわからなくて、エドゥアールは、リシェーナに訊いた。
「…リシェーナはかわいいがすき?」
上目遣いに、窺うようになったかもしれない。
リシェーナは、ほとんど真を置かずに、答えてくれた。
「はい、可愛いは好きです」
リシェーナは、エドゥアールのことを「好き」と言ったわけではないのに、ぽぽぽ、と頬が熱くなるような感じがする。
何だか落ち着かなくて、リシェーナから再び視線を逸らし、膝の上の拳を見つめて、ぽそぽそと口の中で呟いた。
「…じゃあぼくは、かわいいでいい」
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