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【3】キアラの過去への手がかり
4.交配
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「ヒヴェル」
レノーの研究室を後にして、研究棟の廊下を歩いていたヒヴェルディアだったが、呼ぶ声に足を止めた。
ぴょこぴょこと耳を揺らして、小走りに追いかけてきたのは、つい先ごろ別れたばかりのマリンだった。
「マリン。 どうした?」
ヒヴェルディアが問うと、マリンはきょろきょろと周囲を見回した上で、付近の一室――資料室と書かれた扉を開けて中を覗く。
誰もいないことを確認したのだろう、くいと顎でしゃくるような動きをした。
「ちょっとこっち」
「?」
よくわからないながらに、ヒヴェルディアはマリンに言われるまま、資料室とやらに入る。
そこは、扉を除く四方をぐるりと棚に囲まれた部屋だった。
ヒヴェルディアが入った感覚では、ほとんど正方形に近い。中央にも棚が置かれていて、そのいずれにもファイルがぎっちりと詰まっている。
資料室というよりもほとんど物置や倉庫に近い印象だ。
棚と棚の間に、人が背を向け合って立つには十分だが、すれ違うには十分でない。
ここにあるのは、特に重要な資料ではないのだろうとは思いながらも、念のためヒヴェルディアは問う。
「部外者を入れて大丈夫なのか?」
「ここにあるのは、ほとんど価値のないような資料ばかりよ」
扉を閉めて、鍵をかけたマリンからは、やはり、ヒヴェルディアの想像した通りの答えが返ってきた。
そうすると、マリンはこの資料室の資料について話があってヒヴェルディアを呼び止めたわけではなく、ヒヴェルディア自身に用があって追いかけてきたと見るべきだ。
その場合、次に問題となるのは、どうしてわざわざヒヴェルディアを追いかけてきたのか、どうして研究室でその話を出さなかったのか、という点だ。
「…研究室ではできない話か?」
静かに、ヒヴェルディアが問うと、マリンはぴく、と耳を動かした。
すいと目を逸らしたマリンは、是とも否とも言わない。
しばしの沈黙は、マリンの迷いを表しているように感じられる。
けれど、マリンは、口を開いた。
「…あの、イヴィルガルドって奴、気を付けた方がいいわ」
意外なことを言われて、ヒヴェルディアは目を見張る。
胸騒ぎが、するとは、思った。
言葉にできない、違和感があった。
けれど、その理由がわからずに、ヒヴェルディアはキアラの叔父だという彼が、ヒヴェルディアからキアラを奪っていく存在のように思えたからそのように感じるのだろうと結論付けた。
胸騒ぎは、違和感は、その為だろうと思っていたのに。
マリンは、ヒヴェルディアに何を伝えようとしているのか?
「ヒヴェル、前、わたしに、わたしがキアラちゃんに過保護なの、どうしてかって聞いたわね」
唐突な、話題転換だ、と思った。
けれど、すぐに違う、と気づく。
マリンの表情は、不自然に強張ったままだ。
自身の左腕を掴んだ右手が、小刻みに震えている。
まるで、身の内に渦巻く激情をやり過ごそうとするかのように。
マリンは、こういった場面で、意味のない話題転換をするような女ではない。 とすると、イヴィルガルド卿という存在に、何かしらの形で繋がるのだろう。
そう受け止めて、ヒヴェルディアはマリンの話に耳を傾けることにしたのだが、続く言葉もまた、ヒヴェルディアの予想を裏切った。
「何となく、似てるのよ、キアラちゃん。 わたしの妹に」
「妹?」
もっとシリアスな話題かと身構えていた分、拍子抜けしたヒヴェルディアは瞬きをする。
だが、シリアスなのはそこからだった。
マリンの視線が、右へ左へと動く。
ピンと立った耳も、周囲の音を聞き逃すまいと厳戒態勢で絶えず細かに向きを変えている。
マリンの声が潜められ、トーンが低くなった。
「かどわかされたの、あいつらに」
マリンの表情が、硬いのはそのまま。
その目には、憎悪が滲んで見えた。
「あいつら?」
問いながら、ヒヴェルディアが想像したのは、人買いや人売りだった。
実際、そういった現場を押さえたこともあれば、オークション会場にも乗り込んだことのあるヒヴェルディアだから、そのように連想した。
だが、マリンの口から飛び出したのは、ヒヴェルディアの想像とは全く違う名称だった。
「保護観察所の奴ら」
瞠目、した。
言葉も出なかった。
だって、それは、人獣族を保護する施設のことだ。
身寄りのいない人獣族などが、保護されている、場所。
どうして、保護観察所の人間が、人獣族を連れ去らなければならないのか。
そう考えつつも、心のどこか、冷静な部分で納得している自分もいた。
人獣族は、基本的に身体能力が人間よりも遥かに高い。
魔法が使える人間ならまだしも、そうでない人間にやすやすと捕まることなど、本来はありえない。
だが、人獣族が攫われ、高値で取引されるケースは確かに存在する。
もしも、保護観察所が関わっており、人獣族にのみ影響するような薬物が開発されていたとしたら…?
辻褄が、合ってしまう。
運動したわけでもないのに、呼吸が苦しい。
背筋を、冷たいものが伝っていくような気さえ、する。
ああ、なんてことだ。
ありえない、ことではない。
マリンは静かに、低く、低く、まるで呪詛でも唱えるように言葉を紡ぐ。
「あいつら、黒い毛並みと赤い目の人兎族を探してたみたい。 同じく、黒い毛並みと赤い目の、人兎族の雄と…、交配、させるために」
一度、言葉を切った後、マリンはほとんど呻くように、その単語を絞り出した。
【交配】。
その単語を、マリンはどんな気持ちで使ったのだろう。
それは本来、人間同士、人獣族同士では使わない言葉だ。
意思のある、個体である、尊重されるべき存在には、使うことなど許されない、言葉。
様々な情報で、ヒヴェルディアの頭の中はいっぱいになる。
意味が、わからない。
わかっているけれど、わかりたくないのだろうか。
【交配】という言葉は、つい先ほどキアラの件をマリンに相談したとき、マリンから聞いた、【番う】という言葉から最もかけ離れた言葉だと、思えたから。
レノーの研究室を後にして、研究棟の廊下を歩いていたヒヴェルディアだったが、呼ぶ声に足を止めた。
ぴょこぴょこと耳を揺らして、小走りに追いかけてきたのは、つい先ごろ別れたばかりのマリンだった。
「マリン。 どうした?」
ヒヴェルディアが問うと、マリンはきょろきょろと周囲を見回した上で、付近の一室――資料室と書かれた扉を開けて中を覗く。
誰もいないことを確認したのだろう、くいと顎でしゃくるような動きをした。
「ちょっとこっち」
「?」
よくわからないながらに、ヒヴェルディアはマリンに言われるまま、資料室とやらに入る。
そこは、扉を除く四方をぐるりと棚に囲まれた部屋だった。
ヒヴェルディアが入った感覚では、ほとんど正方形に近い。中央にも棚が置かれていて、そのいずれにもファイルがぎっちりと詰まっている。
資料室というよりもほとんど物置や倉庫に近い印象だ。
棚と棚の間に、人が背を向け合って立つには十分だが、すれ違うには十分でない。
ここにあるのは、特に重要な資料ではないのだろうとは思いながらも、念のためヒヴェルディアは問う。
「部外者を入れて大丈夫なのか?」
「ここにあるのは、ほとんど価値のないような資料ばかりよ」
扉を閉めて、鍵をかけたマリンからは、やはり、ヒヴェルディアの想像した通りの答えが返ってきた。
そうすると、マリンはこの資料室の資料について話があってヒヴェルディアを呼び止めたわけではなく、ヒヴェルディア自身に用があって追いかけてきたと見るべきだ。
その場合、次に問題となるのは、どうしてわざわざヒヴェルディアを追いかけてきたのか、どうして研究室でその話を出さなかったのか、という点だ。
「…研究室ではできない話か?」
静かに、ヒヴェルディアが問うと、マリンはぴく、と耳を動かした。
すいと目を逸らしたマリンは、是とも否とも言わない。
しばしの沈黙は、マリンの迷いを表しているように感じられる。
けれど、マリンは、口を開いた。
「…あの、イヴィルガルドって奴、気を付けた方がいいわ」
意外なことを言われて、ヒヴェルディアは目を見張る。
胸騒ぎが、するとは、思った。
言葉にできない、違和感があった。
けれど、その理由がわからずに、ヒヴェルディアはキアラの叔父だという彼が、ヒヴェルディアからキアラを奪っていく存在のように思えたからそのように感じるのだろうと結論付けた。
胸騒ぎは、違和感は、その為だろうと思っていたのに。
マリンは、ヒヴェルディアに何を伝えようとしているのか?
「ヒヴェル、前、わたしに、わたしがキアラちゃんに過保護なの、どうしてかって聞いたわね」
唐突な、話題転換だ、と思った。
けれど、すぐに違う、と気づく。
マリンの表情は、不自然に強張ったままだ。
自身の左腕を掴んだ右手が、小刻みに震えている。
まるで、身の内に渦巻く激情をやり過ごそうとするかのように。
マリンは、こういった場面で、意味のない話題転換をするような女ではない。 とすると、イヴィルガルド卿という存在に、何かしらの形で繋がるのだろう。
そう受け止めて、ヒヴェルディアはマリンの話に耳を傾けることにしたのだが、続く言葉もまた、ヒヴェルディアの予想を裏切った。
「何となく、似てるのよ、キアラちゃん。 わたしの妹に」
「妹?」
もっとシリアスな話題かと身構えていた分、拍子抜けしたヒヴェルディアは瞬きをする。
だが、シリアスなのはそこからだった。
マリンの視線が、右へ左へと動く。
ピンと立った耳も、周囲の音を聞き逃すまいと厳戒態勢で絶えず細かに向きを変えている。
マリンの声が潜められ、トーンが低くなった。
「かどわかされたの、あいつらに」
マリンの表情が、硬いのはそのまま。
その目には、憎悪が滲んで見えた。
「あいつら?」
問いながら、ヒヴェルディアが想像したのは、人買いや人売りだった。
実際、そういった現場を押さえたこともあれば、オークション会場にも乗り込んだことのあるヒヴェルディアだから、そのように連想した。
だが、マリンの口から飛び出したのは、ヒヴェルディアの想像とは全く違う名称だった。
「保護観察所の奴ら」
瞠目、した。
言葉も出なかった。
だって、それは、人獣族を保護する施設のことだ。
身寄りのいない人獣族などが、保護されている、場所。
どうして、保護観察所の人間が、人獣族を連れ去らなければならないのか。
そう考えつつも、心のどこか、冷静な部分で納得している自分もいた。
人獣族は、基本的に身体能力が人間よりも遥かに高い。
魔法が使える人間ならまだしも、そうでない人間にやすやすと捕まることなど、本来はありえない。
だが、人獣族が攫われ、高値で取引されるケースは確かに存在する。
もしも、保護観察所が関わっており、人獣族にのみ影響するような薬物が開発されていたとしたら…?
辻褄が、合ってしまう。
運動したわけでもないのに、呼吸が苦しい。
背筋を、冷たいものが伝っていくような気さえ、する。
ああ、なんてことだ。
ありえない、ことではない。
マリンは静かに、低く、低く、まるで呪詛でも唱えるように言葉を紡ぐ。
「あいつら、黒い毛並みと赤い目の人兎族を探してたみたい。 同じく、黒い毛並みと赤い目の、人兎族の雄と…、交配、させるために」
一度、言葉を切った後、マリンはほとんど呻くように、その単語を絞り出した。
【交配】。
その単語を、マリンはどんな気持ちで使ったのだろう。
それは本来、人間同士、人獣族同士では使わない言葉だ。
意思のある、個体である、尊重されるべき存在には、使うことなど許されない、言葉。
様々な情報で、ヒヴェルディアの頭の中はいっぱいになる。
意味が、わからない。
わかっているけれど、わかりたくないのだろうか。
【交配】という言葉は、つい先ほどキアラの件をマリンに相談したとき、マリンから聞いた、【番う】という言葉から最もかけ離れた言葉だと、思えたから。
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