【R18】白百合の女王

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 それから、国王のおとないはなかった。

 数日後、月が廻って、アイシェリアは月が廻り終え次第、城を出ることとなった。
 月が廻る、というのは、月のもののことだ。
 国王の子を妊娠していないことが、明白になったからだろう。


 フレイディア・ハルヴェールの、妻になる。


 幼い頃からの夢だったというのに、それが、今、こんなにも胸を締めつけて痛い。
 国王の妻になるときは、何も思わなかった。
 自分の人生を受け容れたつもりでいた。
 なのに、どうして、今、愛したひとと、愛されない結婚をしなければいけないのだろう。

 愛のない結婚、という言葉が浮かばなかったのは、自分が彼を、未だに、愛しているから。
 それが、とても、辛かった。
 そして、正直、今も辛い。

 揺れる馬車の中で、アイシェリアは考える。
 どうして、なぜ、アイシェリアはハルヴェール侯爵家家紋入りの馬車に、フレイディアと対面で乗っているのだろう。

 正面の、近衛騎士団の制服に身を包んだフレイディアを直視するのが辛くて、アイシェリアは膝の上でぎゅっと握った手に視線を注ぐ。 かといって、狭い密室での沈黙が、辛くないわけではない。
 更には、長年想い続けてきた初恋の相手を前に、どうしたらいいのかわからないし、フレイディアからいい匂いがするのも辛い。 片思い歴は長く堂に入ってすらいるけれど、異性に慣れているわけでもないのだ。
 こういうときにさっと話題を提供するための、社交性も話術も身についていたはずなのだが、今は全く浮かばない。 気の利いた言葉ひとつ口に出せない自分に、がっかりする以外にない。
 国王の妃となってからの四年間で、【白百合の女王】とまで言われた自分は、本当に枯れたらしい。

 聞きたい。 のに、聞けない。
 わたくしを、覚えている? なんて。
 だって、覚えていない、なんて答えられたら、どうすればいいのかわからない。

 ふと、視線を上げれば、フレイディアの綺麗な碧の瞳がアイシェリアに向けられていて、ドキリとする。
 何か、言わなければ、と思い、アイシェリアは無意識のうちに口を開いていた。


「…災難でしたね」


 思わず、そんな言葉が自分の唇から零れて、ハッとするも後の祭りだ。
 フレイディアは、表情を変えぬままに緩く首を揺らした。
「…何を、災難、と?」

 低く、心地の良い声だった。
 立ち居振る舞いも優雅で、大人の男性の落ち着いた色気を感じずにはおれない。
 フロックコート風の、深い紅の上衣の裾からすらりと伸びた足は組まれ、その膝の上に組んだ手が置かれている。

 本当に、素敵で、アイシェリアはほぅと小さく溜息をついた。 フレイディアの周囲の空気まできらきらして見える。 アイシェリアは自分が彼の妻になることが信じられない。
 だから、余計に思うのだ。 思わずには、いられない。

「陛下の気まぐれで、わたくしを押し付けられたことです」
 本当に、彼にすれば【災難】という言葉以外では語れないだろう。
 これだけ素敵な男性なのだ。 望めば、誰だって妻に出来ただろう。
 国王に妹君はいないが、王家筋の姫君や、社交界の華たちが放っておかないはずだ。
 それが、自分である必要はなかった。

 そう思ってアイシェリアは、嬉しいはずなのに、手放しで喜べないもやもやの原因のうちの、一つを知る。
 きっとアイシェリアは、彼に対して負い目を感じているのだろう。
 申し訳なさに、堪えるように目を閉じれば、ふっと笑むような音が耳に届いて、アイシェリアは目を開く。 目を開いて、飛び込んできたものに、目を奪われた。


「…どうやら貴女は、陛下を誤解しているようだ」


 穏やかに、言葉を載せる、声。 微笑した、顔。
 公務に当たる際の近衛騎士団かれらが微笑むことなどないから、アイシェリアは近衛騎士のフレイディアが微笑むところを初めて見た。
 整った顔立ちは、微笑むとぐっと甘く、優しい印象になるらしい。

 しばし見惚れていた自分に気づいて、アイシェリアはフレイディアからぱっと顔を逸らす。 そうすることでしか、目の前の抗いがたい誘惑から、逃れる術を知らなかったから。
「…わざわざ、お迎えなど、来ていただかなくてもよかったのに。 お仕事の最中だったのでしょう?」
 続いた言葉は、自分でもがっかりするくらいに可愛げがなくなった。 見惚れていたことの、照れ隠しや誤魔化しにしたって、あまりにも可愛げがなさすぎる。
 悪印象だっただろう、とアイシェリアは内心で落ち込む。

 落ち込んだことで、気づく。
 自分はまだ、彼に、好印象を持ってほしいと思っているらしい。
 ますます辛くなった沈黙に、アイシェリアがじっと耐えていると、訝るような声が聞こえた。
「…それは、何かの冗談?」

「え」

 問われた内容に、アイシェリアはフレイディアを見る。
 フレイディアの碧の瞳は、やはり真っ直ぐにアイシェリアを見つめていた。 その視線を受け止めるのが恥ずかしく、居たたまれなくなるほどに。

「貴女がどういう認識でいるかは知らないが、貴女を王家の馬車でひとり送らせるわけにはいかない。 余計な詮索をされる」
 ああ、なるほど、王家の紋章入りの馬車などでアイシェリアを送らせれば、恐らくアイシェリアは傍目にも明らかに【押しつけられた妻】になるのだ。
 ハルヴェール卿は、妻を迎えに来る、あるいは妻に迎えを寄越す価値もないと思っている、と。

 そこで、アイシェリアはようやく気づいた。 アイシェリアをわざわざ国王が見送りに来てくれたこと、そして、宰相である叔父まで、そこにいてくれたこと。
 全てが、皆が合意で円満に決定したこと、というアピールのためのことだったのだろう。 ただ単にアイシェリアをフレイディアに下げ渡したのでは、また国王一派と宰相一派の不仲が疑われる。
 そうまでして、国王・アルヴァートがアイシェリアの夢を――アイシェリアの望む形かどうかは別だ――叶えてくれたというのは、頭の下がる思いだ。

「不作法で申し訳ありません…」
 謝罪をすると共に、頭を下げる。 これで、赤くなった顔が隠せればいい。
 そんなことを考えていると、くす、と笑うような音が聞こえて、アイシェリアはきょとんとした。
 何を笑われたのかわからなくて、しばし羞恥も忘れて顔を上げ、フレイディアに問う。

「…何か、おかしなことでも?」
「…ああ、いや。 …貴女のような身分の方が、そのように殊勝な態度で謝ることなど、滅多に見ないもので…、新鮮で、嬉しい」
 おかしなことを言うものだ、とアイシェリアは思った。

 フレイディアがアイシェリアを、【貴女のような身分の方】と言うのは、アイシェリアが【国王】の【妃】になったから生じたことだろう。 アイシェリアが片田舎の男爵家の娘のままだったなら、次男坊とは言え、侯爵家の直系であるフレイディアに、そのようには言われなかっただろう。

 フレイディアの微笑んだ顔に、アイシェリアは昔の面影を重ねる。
 ああ、だから、先程フレイディアが微笑んだときにも、あんなに素敵に見えたのか。
 心臓がとくりと音を立てると共に、悲しくなり、泣きたくなった。

 距離を、感じずにはおれない。
 こんなに、近くにいるのに。



 ×●×●×●×●×●×●×



 目の前で、「お帰りなさいませ、旦那様」と言った従僕らしき若者は、アイシェリアを目にすると、その榛色の瞳をクッと見張った。


「っ…旦那様が本当に、『白百合の姫』様を連れ帰られたっ…!」


 そう、叫んだ従僕がばたばたと駆けだしていくので、アイシェリアは呆気にとられる。
 アイシェリアとフレイディアの帰宅は、フレイディアの邸に、小さな嵐を運んだらしかった。
 それにしても、誰かから【白百合の姫】なんて呼ばれたのは久しぶりだ。

 アイシェリアが呆然と従僕の消えた方角を見つめていると、フレイディアがアイシェリアを振り返った。
「不作法で申し訳ない。 …女主人にあの態度とは…」
 はぁ、と疲れた静かな溜息に、若干の苛立ちを感じ取ったアイシェリアは慌てて首を横に振る。
「いえ、驚かれるのも無理はありません」

 アイシェリアを【白百合の姫】と認識しているなら、アイシェリアが国王の二番目の妃であることも知っているはずだ。
 そんな人物が、ある日急に邸に訪れたときの驚きは、想像に難くない。
 アイシェリアの答えに頷いたフレイディアが歩き始めるので、アイシェリアはフレイディアの後について、邸に足を踏み入れる。
「お邪魔します…」
 ふっと振り返ったフレイディアの視線が物言いたげで、アイシェリアは目を瞬かせる。

「あの、何か?」
「…貴女は、ご自分の屋敷いえに帰るとき、その言葉を使われる?」
 一体どうしてそんなことを問われるのかわからなくて、アイシェリアがフレイディアを見つめ返していると、フレイディアはサッと前を向いて歩き始めた。
 だから、アイシェリアはその後をついていく。
 そうすれば途中で、先ほどの従僕がメイドらしき女性を捕まえているところが目に入った。

「だから、急ぎ、奥様の部屋を」
「奥様? 何を言っているの? 旦那様に奥様はいらっしゃらないわ」
 メイドは腰に手を当てて、従僕の主張をハッと鼻で笑い飛ばしている。

 もしかすると、彼女もフレイディアのことが好きなのだろうか。
 そんなことを思って落ち込んでいると、さっとフレイディアが歩み出て、従僕とメイドの視線がフレイディアに向いた。
「…ならば、今日このときから、その認識を正してくれ。 彼女はアイシェリア。 私の妻だ」
 フレイディアが手でアイシェリアを示した。
「アイシェリアと申します。よろしくお願いいたします」
 心の準備も許さないほどの速攻だったが、アイシェリアは背筋を正して言葉を発し、笑むことができた。
 そのことに自分でも驚く。 伊達に、【白百合の女王】と呼ばれてはいなかったということか。
 そして、自分が以前と同じように【白百合の女王】になれないのは、どうやらこの、フレイディア・ハルヴェール卿に接するときだけのようだ、とも気づいた。

 アイシェリアをさっと見たメイドは、慌てたように礼をとる。
「奥様。 ご無礼をお許しくださいませ。 ただいま、お部屋の準備をさせていただきます」

 フレイディア・ハルヴェール卿の屋敷いえは、最近建てられたものだと国王から聞いた。 大きさだけなら、土地だけは豊富にあったアイシェリアの実家の方がだいぶ大きいが、それを言うならハルヴェール侯爵家の領地にある屋敷はいかほどのものかというところだ。
 余計な話をしてしまったが、フレイディア・ハルヴェール卿の屋敷の使用人は、元々はハルヴェール侯爵家で働いていた使用人だったということだ。
 流石、使用人の教育も行き届いている、と感心していると、傍らで低く短い応答が聞こえた。


「必要ない」


 目の前で、メイドと従僕が目を見張っている。
 アイシェリアも恐らく、彼らと同じような表情をしているのだろう。
 アイシェリアの部屋が必要ない、とは、どういう意味か?
 ゆっくりとアイシェリアがフレイディアを見上げると、フレイディアはその反応こそが不思議だ、とでも言うような顔をしていた。
「…? 何を驚いていらっしゃる? 貴女の部屋は私と同じだ」

 予想もしない返しに、アイシェリアは固まり、記憶を辿る。
 アイシェリアの世界はさほど広くない。
 その中で、ベッドルームのことまで知る範囲というのは、ごくわずかだ。

「…わたくしの両親は不仲ではありませんでしたが、お部屋は別でした。 陛下ともお部屋は別でしたし」
 言った後で、でも国王はそういう型にはあてはまらないか、とアイシェリアは気づいた。 国王とは、もちろん寝室も別々だった。
 ハルヴェール侯爵家夫妻は、もしかすると、寝室も一緒ならお部屋も一緒だったのだろうか。

 そう考えて、ふと顔を上げれば、メイドと従僕が微妙な顔をしてちらちらとフレイディアを気にしているのに気づいた。
「あ…あの、奥様」
「? 何か?」
 アイシェリアがメイドに問うと、メイドの視線がもう一度、ちらとフレイディアに向いた。
 これは、フレイディアを見ろと言うことだろうか、とアイシェリアはフレイディアを見上げる。

 フレイディアは、にっこりと笑っていた。
 だが、その貼り付けたような笑みに、アイシェリアが違和感を覚えてじっと見つめていると、彼の唇がゆっくりと動く。
「ここは貴女のご実家でも、王宮でもないので、ハルヴェール流の採用をお願いしたい」

 意識して、だろう。
 ゆっくりとした口調と、穏やかな声音で語られた言葉。 であるのに、どこかが強張って聞こえる。
 ああ、もしかしたら、これを噛んで含めるとか、言い聞かせるとかいうふうに使うのかもしれない。
 その理由を追究したいような気もしたが、アイシェリアが長年培ってきた社交性と処世術は、こういうときの反応が一つであることも知っている。

「…はい」
 そう、応じれば、フレイディアの貼り付けたような笑みが、柔らかい印象になる。
 どうやら、自分の判断は間違えていなかったようだ。
 アイシェリアがほっとしている間に、フレイディアはメイドに言葉を掛けている。
「エマ、彼女のことに関しては、デボラに任せてある。 君が余計な気を回す必要はない」

 エマと呼ばれたメイドは「畏まりました」と答えているが、フレイディアの指示にアイシェリアは若干の疑問を覚える。
 今の言葉はまるで、立ち入らせたくない、とでも言うかのようなものではないか。

 彼女エマだから立ち入らせたくないのか。 そうならば、その理由は?
 そこまで考えて、アイシェリアはハッとする。
 どうしてこう、醜い推測をしてしまうのだろう。

「では、シェフに料理を作り変えるよう言って参ります」
 サッとスカートの裾を翻したエマに、アイシェリアは思わず声を上げる。


「なさらなくて結構です」


 びく、とエマが動きを止めて、アイシェリアを振り返った。
 その表情は、若干の苛立ちと、怪訝さを含んでいるように見える。 だから、アイシェリアは自分の気持ちを伝えた。
「…これからは、ここがわたくしの家。 【今日限り】のことではありませんから、いつもどおりになさってください。 末永く、よろしくお願いいたします」

 一度、頭を下げる。
 アイシェリアが、フレイディア・ハルヴェールの屋敷にいるのは、これからずっとだ。
 要人をもてなすための、豪勢な料理など、いらない。
 アイシェリアがここにいることは、【お祝い事】ではないのだから。
 まあ、それも、フレイディアがアイシェリアを、【不要】あるいは【邪魔】としなければ、の話だけれど。
 告げたアイシェリアに、従僕とエマの向ける視線が、少しだけ変化した気がする。

「君たちは持ち場に戻るといい。 彼女のことは、私が案内するから」
 フレイディアが声をかけると、従僕とエマが一礼をして立ち去る。
 フレイディアは、それを見届けて歩き始めたので、アイシェリアはその後を追った。

「案内が、必要なのですか?」
「ここは、王宮でもハルヴェール領邸でもハルヴェール家の町邸タウン・ハウスでもなく、宮勤めの私の私邸なので、さほど広くないけれど」
 前を歩くフレイディアからはそんな言葉が返ってくる。
 どうしてだろう、とアイシェリアは前を行くフレイディアの男らしく逞しい背中を見ながら思う。 多少、棘がある気がしないでもない。

 もしかしたら、彼は、アイシェリアのことが苦手なのかもしれない。
 苦手、ならまだいい。
 もしも彼に、嫌われていたら…?
 そんなふうに考えていた時だ。

「…貴女は、私のことがお嫌いか?」

 自分が考えていた内容がそのまま耳に届いて、アイシェリアはドキリとした。 ただし、その声の主はアイシェリアではない。
 邸の中を一通り見て回り、「ここが私と貴女の私室です」と扉を開けたフレイディアに小さく問われて、アイシェリアは目を丸くする。
「え」
 彼のことを「好きか」と問われるならまだしも、どうして「嫌いか」という問いが投げられたのか、全くの謎で、アイシェリアはフレイディアの横顔を凝視する。

「…私には、『末永くよろしく』など、仰らなかった」
 そう、落とすように告げたフレイディアが、先に室内に入る。 室内をぐるりと見回した上でアイシェリアを見るから、アイシェリアは彼が近衛騎士だということを思い出した。
 今の彼の無意識の動作は、近衛騎士が国王や妃たちの警護で見せるものだ。 だからアイシェリアは、フレイディアと自分の婚姻が、政治的な思惑と全く無関係でないのではと気づく。

 きっと彼にとっては、この婚姻は、業務の一環。

 それを思えば、すーっと身体が冷え、思考が冷静になる。 今までの自分は、やはりどこか冷静でなかったのだ。
 初恋の王子様の妻になれることに、浮かれていた。
 アイシェリアのために、扉を押さえてくれているフレイディアの横をすり抜けて室内に入りながら、告げる。 感情を込めないようにと、意識しながら。

「…男女の、約束のようなものは、あまり信じておりませんので」

 室内のほのかな香りは、フレイディアの香りなのだろう。
 馬車の中でも感じた香りだった。
 それを吸い込むのが、辛い。

 数歩進んで振り返れば、フレイディアは綺麗な碧の目を軽く見張っている。
 その目を、アイシェリアはまっすぐに見つめて、微笑んだ。

 だって、幼い頃の約束は、果たされなかった。
 いや、あれは、約束とも呼べない約束で、アイシェリアの一方的な願いだったのかもしれない。
 その願いは国王が余計な気を回してくれたおかげで叶ったが、アイシェリアの望む形とは別だった。

 一度、床に視線を落としたフレイディアが、目元に哀愁を漂わせて、アイシェリアに問う。
「…【結婚】という、法的拘束力のある約束でさえも?」
「紙一枚の上のことでしょう? それに、あれは、男性におおらかに出来ているものです」
 アイシェリアが言えば、フレイディアの瞼が、ピクリと震えた気がした。
 その後、間を置かずに現れたデボラというメイド頭のおかげで、気まずい空気にならずには済んで、アイシェリアはほっとしたのだけれど。

 フレイディア・ハルヴェールの邸には、執事とメイド頭、従僕とメイド、シェフがおり、執事と「奥様のご感想を知りたい」というシェフの同席により、夕食は楽しく終えることが出来た。

 そして、最も恐れていた夜だったが、アイシェリアは早々に湯を終えて、一人ベッドに潜り込む。
 洗い立てのシーツからは清潔な石けんの香り、干し立ての寝具からはお日様の匂いしかしなくて、アイシェリアはほっとした。
 このベッドからも、フレイディアの香りがするのではないかと、怖れていたのだ。

 ほっとしたのと、久々の馬車での移動、環境の変化…と色々と疲れていたアイシェリアは、新婚初夜だということも忘れて眠りこけたのである。
 その事実に気づいたのは、言わずもがな、ではあるが、翌朝目を覚ましたときだった。
 何たること、と全身から血の気が引くも、後の祭りだ。

 アイシェリアは目覚めは良いし、朝寝坊というわけでもないのだが、王宮の近衛騎士団所属のフレイディアは、朝が早いらしく既にアイシェリアの隣はもぬけの殻。
 この、複雑な気持ちを、何と呼べばいいのかわからない。

 はっきりしたのは、フレイディアがアイシェリアを、本当の意味で【妻】とする気はないのだということ。

 わかっていた、つもりではあるけれど。
 目の前にそれを用意されて、理解させられると、辛い。

「はぁぁ~…」
 アイシェリアは、顔を両手で覆って、一人きりのベッドの中で深く、長く、溜息をついた。
 そして、ぐっと顔を上げる。 切替えなければ。

 昨日夕食を摂った食堂に行くも、そこにはメイド頭のデボラがいるのみだ。
「奥様、お早いのですね。 すぐにお食事を召し上がりますか?」
「いただきます。 クロゼットから勝手にお借りしたのですけれど…よろしかったでしょうか」

 アイシェリアは自分が身につけている衣装を気にした。 王宮にいた頃に身につけていたものとは違い、誰かの手を借りずとも身につけられる衣装がクロゼットには並んでいた。
 男爵家じっかにいた頃も、アイシェリアは貴族の令嬢なのか、裕福な家の娘なのか判断に困るような衣装を好んだものだ。 夜会や茶会に呼ばれるときはそれなりの格好をしたものだが、まあ、アイシェリアの実家である男爵家には湯水のようにお金があったわけではないのも理由だ。 一番の理由は、アイシェリアが窮屈なコルセットや他者の手を借りることを煩わしいと感じていたことにあるのだが。

 事後報告だけれど、と思いながらアイシェリアが言えば、デボラは軽やかに笑った。
「よろしいも何も、あのクロゼットの中の衣装は、旦那様が奥様のためにご用意なさったものですよ」
「…え」
 ここは、フレイディアの私邸だということで聞いてはいたが、アイシェリアはてっきり、フレイディアのお母様のものか、お姉様や妹君のものなのだろうと考えていたのだ。

 アイシェリアが驚きのままにデボラを見つめ返すと、悪戯っぽくデボラは笑った。
「過去は、全て、置いてこられたのでしょう? それは、そのように、旦那様が望まれたからです。 貴女は、旦那様の奥様ですもの」

 デボラの言っていることが、アイシェリアにはわからない。
 けれど、だからといって今のアイシェリアには、その疑問を夫であるフレイディア・ハルヴェールに、直接ぶつける勇気もないのだった。

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