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3.魔女の誘惑
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足早に来た道を戻り、婚約の宴が催されているはずの一室はもう目の前。
開け放たれた扉の向こうには、何人かが転がっているのが見える。
やはり、やけに静かだ。
もしかすると、今、この建物の中で意識を保ち、活動しているのは自分だけなのではないか。
そんな風に考えつつ、壁にぴたりと背を預け、室内を覗き込もうとしたときだ。
女の声が、耳を打った。
「わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」
驚いて、自分は思わず周囲を見回した。
だが、自分の周囲に女はいない。
というのは、今のは室内にいる何者かの会話なのか――…。
そんな思考から自分を呼び戻したのは、よく知った人物の声だった。
「御冗談を。 貴女は父の妻となる方ですよ」
瞠目し、耳を疑った。
今応じたのは、彼の方――フィン・マックールの息子の、アシーンの声だ。
当然、彼が【父】と呼ぶのは、彼の方唯一人。
ということは、先程、「わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」と要求したのは、今日の主役のひとり――エリンの上王コーマックの娘だということになる。
怒りで、目の前が真っ赤になるような気がした。
もちろん、怒りを向ける矛先は、アシーンではない。
あの女だ。
どうして、自身の婚約の宴が執り行われているその日に、未来の夫となるべき相手の息子に、自身を連れて逃げろなどと迫れるのか。
理解しがたい。
理解など、できようはずもない。
それなのに、女の声は、不思議そうに問うのだ。
「どうして冗談だと思うの?」
「少々召され過ぎたのではないですか? それに、結婚前の女性は、不安定になりがちだと聞いたことがあります」
「わたくしが不安定に見えるの?」
純粋に、不思議がっているのだろうか。
尚も問う女に、アシーンの声はきっぱりと言い切った。
「そうですね。 私の感覚では貴女が今仰っていることは普通ではありません」
不快感が滲んでいなかったのは流石としか言いようがないが、明確な拒絶の感じ取れる声音であり、口調だった。
「…わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」
それでも尚、女は問う。
最終的な意思確認をするが如く。
そんなこと、聞かずとも明白だろうに。
「生憎と、私は父の女を奪わないという禁忌を立てていますから」
アシーンの声は、常のようにやわらかく、穏やかだった。
もしかすると、微笑んでさえいるのかもしれない。
女の気の迷いを、まるで【赦す】とでも言うかのように。
自分は、ほっと胸を撫で下ろした。
恐らく、あのアシーンがこの件を口外することはないだろう。
あとは、女が迷いを断ち切って、彼の方の【良き妻】となってくれればいい。
そんな希望を抱いた自分の耳に、吐き捨てるような声が届いた。
「忌々しいこと」
目を見張った。
それは、女が吐いた言葉だった。
そこまで聞いて、自分は踵を返した。
アシーンはきっと大丈夫だ。
あれ以上、女がアシーンにちょっかいを出すことはないだろうと確信が持てたことと。
恐らく、これ以上その場で、女の醜悪さを見聞きしていたくなかったのだと思う。
あんな女が、彼の方の妻となるのだということに苛立ち、納得できず、消化もできない。
あのとき、自分は心の底から思ったものだ。
なぜ、ディアリンはこのような魔女の如き女を彼の方の妻になどと薦めたのだろう、と。
開け放たれた扉の向こうには、何人かが転がっているのが見える。
やはり、やけに静かだ。
もしかすると、今、この建物の中で意識を保ち、活動しているのは自分だけなのではないか。
そんな風に考えつつ、壁にぴたりと背を預け、室内を覗き込もうとしたときだ。
女の声が、耳を打った。
「わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」
驚いて、自分は思わず周囲を見回した。
だが、自分の周囲に女はいない。
というのは、今のは室内にいる何者かの会話なのか――…。
そんな思考から自分を呼び戻したのは、よく知った人物の声だった。
「御冗談を。 貴女は父の妻となる方ですよ」
瞠目し、耳を疑った。
今応じたのは、彼の方――フィン・マックールの息子の、アシーンの声だ。
当然、彼が【父】と呼ぶのは、彼の方唯一人。
ということは、先程、「わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」と要求したのは、今日の主役のひとり――エリンの上王コーマックの娘だということになる。
怒りで、目の前が真っ赤になるような気がした。
もちろん、怒りを向ける矛先は、アシーンではない。
あの女だ。
どうして、自身の婚約の宴が執り行われているその日に、未来の夫となるべき相手の息子に、自身を連れて逃げろなどと迫れるのか。
理解しがたい。
理解など、できようはずもない。
それなのに、女の声は、不思議そうに問うのだ。
「どうして冗談だと思うの?」
「少々召され過ぎたのではないですか? それに、結婚前の女性は、不安定になりがちだと聞いたことがあります」
「わたくしが不安定に見えるの?」
純粋に、不思議がっているのだろうか。
尚も問う女に、アシーンの声はきっぱりと言い切った。
「そうですね。 私の感覚では貴女が今仰っていることは普通ではありません」
不快感が滲んでいなかったのは流石としか言いようがないが、明確な拒絶の感じ取れる声音であり、口調だった。
「…わたくしを連れて、逃げてはくださらない?」
それでも尚、女は問う。
最終的な意思確認をするが如く。
そんなこと、聞かずとも明白だろうに。
「生憎と、私は父の女を奪わないという禁忌を立てていますから」
アシーンの声は、常のようにやわらかく、穏やかだった。
もしかすると、微笑んでさえいるのかもしれない。
女の気の迷いを、まるで【赦す】とでも言うかのように。
自分は、ほっと胸を撫で下ろした。
恐らく、あのアシーンがこの件を口外することはないだろう。
あとは、女が迷いを断ち切って、彼の方の【良き妻】となってくれればいい。
そんな希望を抱いた自分の耳に、吐き捨てるような声が届いた。
「忌々しいこと」
目を見張った。
それは、女が吐いた言葉だった。
そこまで聞いて、自分は踵を返した。
アシーンはきっと大丈夫だ。
あれ以上、女がアシーンにちょっかいを出すことはないだろうと確信が持てたことと。
恐らく、これ以上その場で、女の醜悪さを見聞きしていたくなかったのだと思う。
あんな女が、彼の方の妻となるのだということに苛立ち、納得できず、消化もできない。
あのとき、自分は心の底から思ったものだ。
なぜ、ディアリンはこのような魔女の如き女を彼の方の妻になどと薦めたのだろう、と。
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