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石に咲いた花は
縁は異なもの味なもの
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あの日のことを、忘れることは、ないだろう。
「母上、どこ、母上っ…!」
息子の、泣きそうな声に、エルモニカは、刺繍をしていた手を止めた。
息子――ラディスラウスは、弟が離れに囲っている女性を気に入り、ここのところ毎日のように彼女のところに通っている。
本人は、必死に隠している風だが、あれでどうして気づかれていないと思うのだろう。
そんなところも、ラディスラウスは可愛いのだけれど。
さて、そのラディスラウスは、今日も「無花果」「無花果」と言って、使用人に用意してもらった無花果を大切にハンカチーフに包み出かけていったはずなのだが…。
果物よりお菓子の方が好きだったラディスラウスが、果物を口にするようになったのはあの女性のおかげだ。
中でも、とりわけ苦手だった、無花果を口にするようになったのは、あの女性の功績と言っても差し支えないだろう。
そんなことを考えていると、バンッ! と勢いよく扉が開いたかと思えば、泣きそうな顔のラディスラウスが、転がり込んできた。
「母上っ…!」
「どうしたのです?」
息を乱して、足をもつれさせながら駆け寄ってきた息子に、膝を折って目線を合わせる。
そのとき、エルモニカの頭をよぎったのは、あの離れに囲われた女性に、何か淫らなことを教えられたり、されたりしたのではないかということだった。
ラディスラウスが頻繁に離れに行き、離れの女性と会っているのは知っていた。
けれど、離れの女性はラディスラウスを室内に引き込むことはなかったし、ラディスラウスも室内に入ることはなかった。
二人の逢瀬――と言ってはあれだが――本邸から目の届く範囲でのことだったので、誰も気にしていなかったのだ。
使用人の中には、彼女を良く言わない者もおり、ラディスラウスが彼女の元に通うことに、苦言を呈されてもいた。
それでも、エルモニカは、ラディスラウスの人を見る目を信じて、ラディスラウスの好きにさせていた。
その判断は、間違いだったのだろうか。
例えば、ラディスラウスが何か害されたのだとすれば、許すわけにはいかない。
そう、怒りの炎を、心の中で燃やしかけたときだった。
「…い…」
ぽそり、とラディスラウスが呟いた。
「…ラウ?」
ラディスラウスは、顔を上げると、真っ直ぐにエルモニカの顔を見つめた。
ぎゅっと眉間に皺を寄せて、泣きそうになるのを我慢しながら、ラディスラウスは、言った。
「…ジェイドが、息してない」
声を、喉に張り付かせて告げたラディスラウスは、我慢していたものが緩んだのだろう。
ぼたぼたと、瞳から大粒の涙が溢れ、しゃくり上げて泣き出した。
「どうしよう。 ジェイドが息してない。 ジェイドが…」
「ラウ、大丈夫ですから」
言いながらも、エルモニカはエルモニカで、混乱の極みにいた。
ラディスラウスが、【ジェイド】と呼ぶのは恐らく、あの離れの女性のことだろう。
ラディスラウスが嘘をつくとは思えないけれど、あの方が、息をしていない、なんて。
ラディスラウスを宥めながら、エルモニカが懸命に考えているときだった。
「どうした、モニカ」
「お父様」
室内に入ってきた父――ベネディクトに、エルモニカはほっと安堵した。
厳しいけれど、優しいお祖父様が大好きなラディスラウスは、その姿を認めると、泣きながら駆け寄って訴える。
「お祖父様、ジェイドが息してない」
ラディスラウスのために膝を折った父が、目を見張った。
「落ち着きなさい。 何があった?」
目線を合わせた父が、胸ポケットからハンカチーフを出して、ラディスラウスの涙に濡れた顔を拭きながらも、厳しい調子で問う。
ラディスラウスは、それには気づかないようだ。
一度、涙を引っこめて、懸命に何があったかを説明しようとしている。
「お…、叔父上が、ジェイドの首を、絞めて、それで、ジェイドは、息、してなくて…」
そこで言葉を途切れさせたラディスラウスは、ラディスラウスの言う【ジェイド】の姿を思い出してしまったのだろう。
再び、じわりと瞳に涙が滲む。
「…ジェイド、し…。 しんじゃった、の…?」
また、ぼたぼたと涙を零し始めたラディスラウスにハンカチーフを押しつけると、父はサッと立ち上がった。
「離れだ」
何事か、使用人たちに指示しながら父が出ていく。
エルモニカは、ラディスラウスの手を引いて、ソファに座らせると、また膝を折ってラディスラウスの涙に濡れた瞳を覗き込んだ。
「いい? ラウ。 貴方はここにいるのですよ。 貴方の【ジェイド】は、処置次第では息を吹き返すかもしれません。 ここで待っているのですよ」
「…はい…」
ラディスラウスは、ジッとエルモニカを見つめていたが、最後にはこくんと頷いてくれた。
だから、エルモニカも、ラディスラウスを自室に残して、離れへと急ぐ。
エルモニカが離れに到着したとき、丁度、ごほっと咳き込むような音が、立て続けに聞こえた。
ラディスラウスが、いつも訪れていた部屋にエルモニカが飛び込むと、床に倒れたその女性は、ぼんやりと焦点の定まらない瞳で虚空を見つめていた。
生きていた。
そのことに安堵したのは、彼女の命の安否と言うよりも、弟を殺人犯にしなくて済んだ、という安堵だったのかもしれない。
身内から、殺人犯を出さずに済んでよかった、という。
ラウの【ジェイド】の傍に膝をついて、その顔を覗き込む。
「よかった、聞こえる?」
ぼんやりと虚空を見つめて、微動だにしない【ジェイド】の様子から、半廃人にでもなってしまったか、と思った。
だが、その瞳の焦点が、ゆっくりとエルモニカの瞳に合って、色を失った唇から掠れた声が漏れる。
「…おくさま…」
身体だけでなく、脳も生きているらしい、とエルモニカがほっとしていると、【ジェイド】の瞳が陰った。
「ああ、ここは、ひとのよなのね…」
ほとんど吐息のような声でそう漏らすとと共に、ゆるゆると瞼が降りて、閉じた。
エルモニカには、彼女が「もう、生きるのに疲れた」と言ったように聞こえて、固まる。
「お礼の一つも言えないのでしょうか」
「止めろ。 この娘の声が聞こえなかったのか」
もともと、彼女に良い感情を持っていなかったのだろう。
使用人のひとりが零した言葉を、父が、静かだけれど有無を言わせぬ力を持った声で、制した。
「申し訳ありません」
使用人がそう返したのは、反射でしかない。
主人に咎められたから謝罪したのであり、何を咎められたのかわかっていないような顔をしている。
父は、ふらふらとした足取りで、鏡台のところまで行くと、椅子を引きずり出して、脱力するようにして腰を下ろす。 そして、右手でぎゅっと、左右の目頭を押さえた。
「…私には、死んだ方がましだったのに、と聞こえた」
父が、声を詰まらせるようにしながら、そう言ったことは、きっと、一生忘れないだろう。
父の中に、彼女――ジェイドに対する、激しい慚愧の念を見た瞬間だった。
その後、父がその女性に慰謝料と見舞金だという口実で、援助をするようになったのは知っている。
エルモニカは、父が誰かに対してあそこまで配慮をするのを、初めて見た。
彼女の存在が…、あの一件が、よほど、堪えたのだろう。
エルモニカは、もう二度と、会うことのない女性だと、思っていた。
どこかで、健勝でいてくれれば、と。
その女性が今、また、ラディスラウスの妻になる身として、目の前にいるというのは、とても不思議な気分だ。
「シィーファ、髪が伸びたね」
ラディスラウスは、ようやく髪が肩につくくらいに伸びた、自身の未来の花嫁――シィーファの毛先に触れながら、微笑む。
緩みきったでれでれの顔で、我が息子ながら情けない…、と思うのだが、これが使用人たちにはウケがいいらしい。
曰く、「若旦那様は本当にシィーファ様がお好きですのねぇ」だ。
ラディスラウスは現在、ヴァルハール公爵邸で、【若旦那様】と呼ばれている。
ラディスラウスが、王位継承権を放棄した一件では、王位継承権の放棄は認められたが、宮廷への残存を望む声が多かった。
特に、ラディスラウスの異母兄にあたる王太子殿下の諦めが悪かったのだが、父が「ラディスラウスは次期ヴァルハール公爵である」の一言で黙らせた。
よって、ラディスラウスは今、自由の身、ではあるのだが、ラディスラウスの次の次期公爵には、また、親族の誰かを選任しなければならないだろう。
そして、エルモニカの憶測でしかないが、現ヴァルハール公爵は、そのままヴァルハール公爵家が途絶えてもいいと考えているように思えるのだ。
話は逸れたが、ラディスラウスは、エルモニカの元で初めての花嫁修業に四苦八苦するシィーファの元へ、一日必ず一回はやって来る。
晩から朝まで一緒にいるだけでは、飽き足らないらしい。
エルモニカの、「けじめはけじめです」という言葉をラディスラウスは聞き流し、婚前だというのに同じ寝室を使っている。
シィーファが何度か客間への逃亡を試みたのにも関わらず、客間で一緒に寝るか、自室に連れ戻すかするのだから、すごい執着だと言えるだろう。
因みに、言ってはなんだが、婚前にも関わらず、やることはやっているのだという確信が、エルモニカにはある。
ウーアをそれとなく問い詰めたら、そっと視線を逸らしたのだ。わかりやすすぎる。
「婚礼衣装はできたのかな。 早く見たい気もするけれど、もっとずっと取っておきたい気もする。 もったいないもの」
ラディスラウスは、母親の眼前であるにも関わらず、臆面もなく、未来の花嫁を熱心に口説いている。
これはウーア情報だが、ラディスラウスは、エルモニカがシィーファを虐めるのではないかと心配しているらしい。
だから、時折こっそりと現れては、抜き打ちチェックをしつつ、どれだけラディスラウスがシィーファを好きか、大切に想っているのか、殊更にアピールし、牽制しているらしい。
まるで、エルモニカなどそこにいないかのように振舞うラディスラウスを横目に見つつ、エルモニカはそっと水を差した。
「まだですよ。 もう少しお待ちなさいな」
「では、職人を急がせないといけないね。 私と、祖父と、母と、屋敷のものだけで式を挙げようね。 私は、婚礼衣装を着たシィーファが見られたらなんだっていいんだ」
エルモニカの存在など忘れたかのように、うっとりと微笑むラディスラウスとは違い、シィーファはエルモニカを気にして、何も言えないのだろう。
ほのかに頬を染めて、困ったように視線を揺らす姿が、可愛らしい。
それに、困ってはいても、嫌がってはいないのが読み取れたから、エルモニカも微笑む。
「シィーファ、貴女、今、幸せ?」
意図せず、唇からはそんな言葉が漏れた。
自分でも驚いたが、問いを投げられたシィーファは、もっと驚いたのだろう。
しどろもどろになりながらも、姿勢を正した。
「え、その…、はい。 こんなに幸せで、いいのかな、って…たまに心配になるくらい、幸せです」
ちら、とラディスラウスを見、すぐに視線を逸らして、けれど、シィーファは断言した。
ラディスラウスがいるので、照れているのかもしれないが、彼女は言葉を偽らない。
だから、エルモニカはもう一度、今度はラディスラウスに微笑む。
「可愛いお嫁さんですねぇ、ラウ」
「でしょう?」
シィーファを褒めれば、ラディスラウスもまた、我がことのように誇らしげに胸を張るのだ。
だから、思った。
あのときの、あの子が、生きていてくれてよかった、と。
弟のためでも、一族のためでもなく、ラディスラウスと、彼女自身のために。
「母上、どこ、母上っ…!」
息子の、泣きそうな声に、エルモニカは、刺繍をしていた手を止めた。
息子――ラディスラウスは、弟が離れに囲っている女性を気に入り、ここのところ毎日のように彼女のところに通っている。
本人は、必死に隠している風だが、あれでどうして気づかれていないと思うのだろう。
そんなところも、ラディスラウスは可愛いのだけれど。
さて、そのラディスラウスは、今日も「無花果」「無花果」と言って、使用人に用意してもらった無花果を大切にハンカチーフに包み出かけていったはずなのだが…。
果物よりお菓子の方が好きだったラディスラウスが、果物を口にするようになったのはあの女性のおかげだ。
中でも、とりわけ苦手だった、無花果を口にするようになったのは、あの女性の功績と言っても差し支えないだろう。
そんなことを考えていると、バンッ! と勢いよく扉が開いたかと思えば、泣きそうな顔のラディスラウスが、転がり込んできた。
「母上っ…!」
「どうしたのです?」
息を乱して、足をもつれさせながら駆け寄ってきた息子に、膝を折って目線を合わせる。
そのとき、エルモニカの頭をよぎったのは、あの離れに囲われた女性に、何か淫らなことを教えられたり、されたりしたのではないかということだった。
ラディスラウスが頻繁に離れに行き、離れの女性と会っているのは知っていた。
けれど、離れの女性はラディスラウスを室内に引き込むことはなかったし、ラディスラウスも室内に入ることはなかった。
二人の逢瀬――と言ってはあれだが――本邸から目の届く範囲でのことだったので、誰も気にしていなかったのだ。
使用人の中には、彼女を良く言わない者もおり、ラディスラウスが彼女の元に通うことに、苦言を呈されてもいた。
それでも、エルモニカは、ラディスラウスの人を見る目を信じて、ラディスラウスの好きにさせていた。
その判断は、間違いだったのだろうか。
例えば、ラディスラウスが何か害されたのだとすれば、許すわけにはいかない。
そう、怒りの炎を、心の中で燃やしかけたときだった。
「…い…」
ぽそり、とラディスラウスが呟いた。
「…ラウ?」
ラディスラウスは、顔を上げると、真っ直ぐにエルモニカの顔を見つめた。
ぎゅっと眉間に皺を寄せて、泣きそうになるのを我慢しながら、ラディスラウスは、言った。
「…ジェイドが、息してない」
声を、喉に張り付かせて告げたラディスラウスは、我慢していたものが緩んだのだろう。
ぼたぼたと、瞳から大粒の涙が溢れ、しゃくり上げて泣き出した。
「どうしよう。 ジェイドが息してない。 ジェイドが…」
「ラウ、大丈夫ですから」
言いながらも、エルモニカはエルモニカで、混乱の極みにいた。
ラディスラウスが、【ジェイド】と呼ぶのは恐らく、あの離れの女性のことだろう。
ラディスラウスが嘘をつくとは思えないけれど、あの方が、息をしていない、なんて。
ラディスラウスを宥めながら、エルモニカが懸命に考えているときだった。
「どうした、モニカ」
「お父様」
室内に入ってきた父――ベネディクトに、エルモニカはほっと安堵した。
厳しいけれど、優しいお祖父様が大好きなラディスラウスは、その姿を認めると、泣きながら駆け寄って訴える。
「お祖父様、ジェイドが息してない」
ラディスラウスのために膝を折った父が、目を見張った。
「落ち着きなさい。 何があった?」
目線を合わせた父が、胸ポケットからハンカチーフを出して、ラディスラウスの涙に濡れた顔を拭きながらも、厳しい調子で問う。
ラディスラウスは、それには気づかないようだ。
一度、涙を引っこめて、懸命に何があったかを説明しようとしている。
「お…、叔父上が、ジェイドの首を、絞めて、それで、ジェイドは、息、してなくて…」
そこで言葉を途切れさせたラディスラウスは、ラディスラウスの言う【ジェイド】の姿を思い出してしまったのだろう。
再び、じわりと瞳に涙が滲む。
「…ジェイド、し…。 しんじゃった、の…?」
また、ぼたぼたと涙を零し始めたラディスラウスにハンカチーフを押しつけると、父はサッと立ち上がった。
「離れだ」
何事か、使用人たちに指示しながら父が出ていく。
エルモニカは、ラディスラウスの手を引いて、ソファに座らせると、また膝を折ってラディスラウスの涙に濡れた瞳を覗き込んだ。
「いい? ラウ。 貴方はここにいるのですよ。 貴方の【ジェイド】は、処置次第では息を吹き返すかもしれません。 ここで待っているのですよ」
「…はい…」
ラディスラウスは、ジッとエルモニカを見つめていたが、最後にはこくんと頷いてくれた。
だから、エルモニカも、ラディスラウスを自室に残して、離れへと急ぐ。
エルモニカが離れに到着したとき、丁度、ごほっと咳き込むような音が、立て続けに聞こえた。
ラディスラウスが、いつも訪れていた部屋にエルモニカが飛び込むと、床に倒れたその女性は、ぼんやりと焦点の定まらない瞳で虚空を見つめていた。
生きていた。
そのことに安堵したのは、彼女の命の安否と言うよりも、弟を殺人犯にしなくて済んだ、という安堵だったのかもしれない。
身内から、殺人犯を出さずに済んでよかった、という。
ラウの【ジェイド】の傍に膝をついて、その顔を覗き込む。
「よかった、聞こえる?」
ぼんやりと虚空を見つめて、微動だにしない【ジェイド】の様子から、半廃人にでもなってしまったか、と思った。
だが、その瞳の焦点が、ゆっくりとエルモニカの瞳に合って、色を失った唇から掠れた声が漏れる。
「…おくさま…」
身体だけでなく、脳も生きているらしい、とエルモニカがほっとしていると、【ジェイド】の瞳が陰った。
「ああ、ここは、ひとのよなのね…」
ほとんど吐息のような声でそう漏らすとと共に、ゆるゆると瞼が降りて、閉じた。
エルモニカには、彼女が「もう、生きるのに疲れた」と言ったように聞こえて、固まる。
「お礼の一つも言えないのでしょうか」
「止めろ。 この娘の声が聞こえなかったのか」
もともと、彼女に良い感情を持っていなかったのだろう。
使用人のひとりが零した言葉を、父が、静かだけれど有無を言わせぬ力を持った声で、制した。
「申し訳ありません」
使用人がそう返したのは、反射でしかない。
主人に咎められたから謝罪したのであり、何を咎められたのかわかっていないような顔をしている。
父は、ふらふらとした足取りで、鏡台のところまで行くと、椅子を引きずり出して、脱力するようにして腰を下ろす。 そして、右手でぎゅっと、左右の目頭を押さえた。
「…私には、死んだ方がましだったのに、と聞こえた」
父が、声を詰まらせるようにしながら、そう言ったことは、きっと、一生忘れないだろう。
父の中に、彼女――ジェイドに対する、激しい慚愧の念を見た瞬間だった。
その後、父がその女性に慰謝料と見舞金だという口実で、援助をするようになったのは知っている。
エルモニカは、父が誰かに対してあそこまで配慮をするのを、初めて見た。
彼女の存在が…、あの一件が、よほど、堪えたのだろう。
エルモニカは、もう二度と、会うことのない女性だと、思っていた。
どこかで、健勝でいてくれれば、と。
その女性が今、また、ラディスラウスの妻になる身として、目の前にいるというのは、とても不思議な気分だ。
「シィーファ、髪が伸びたね」
ラディスラウスは、ようやく髪が肩につくくらいに伸びた、自身の未来の花嫁――シィーファの毛先に触れながら、微笑む。
緩みきったでれでれの顔で、我が息子ながら情けない…、と思うのだが、これが使用人たちにはウケがいいらしい。
曰く、「若旦那様は本当にシィーファ様がお好きですのねぇ」だ。
ラディスラウスは現在、ヴァルハール公爵邸で、【若旦那様】と呼ばれている。
ラディスラウスが、王位継承権を放棄した一件では、王位継承権の放棄は認められたが、宮廷への残存を望む声が多かった。
特に、ラディスラウスの異母兄にあたる王太子殿下の諦めが悪かったのだが、父が「ラディスラウスは次期ヴァルハール公爵である」の一言で黙らせた。
よって、ラディスラウスは今、自由の身、ではあるのだが、ラディスラウスの次の次期公爵には、また、親族の誰かを選任しなければならないだろう。
そして、エルモニカの憶測でしかないが、現ヴァルハール公爵は、そのままヴァルハール公爵家が途絶えてもいいと考えているように思えるのだ。
話は逸れたが、ラディスラウスは、エルモニカの元で初めての花嫁修業に四苦八苦するシィーファの元へ、一日必ず一回はやって来る。
晩から朝まで一緒にいるだけでは、飽き足らないらしい。
エルモニカの、「けじめはけじめです」という言葉をラディスラウスは聞き流し、婚前だというのに同じ寝室を使っている。
シィーファが何度か客間への逃亡を試みたのにも関わらず、客間で一緒に寝るか、自室に連れ戻すかするのだから、すごい執着だと言えるだろう。
因みに、言ってはなんだが、婚前にも関わらず、やることはやっているのだという確信が、エルモニカにはある。
ウーアをそれとなく問い詰めたら、そっと視線を逸らしたのだ。わかりやすすぎる。
「婚礼衣装はできたのかな。 早く見たい気もするけれど、もっとずっと取っておきたい気もする。 もったいないもの」
ラディスラウスは、母親の眼前であるにも関わらず、臆面もなく、未来の花嫁を熱心に口説いている。
これはウーア情報だが、ラディスラウスは、エルモニカがシィーファを虐めるのではないかと心配しているらしい。
だから、時折こっそりと現れては、抜き打ちチェックをしつつ、どれだけラディスラウスがシィーファを好きか、大切に想っているのか、殊更にアピールし、牽制しているらしい。
まるで、エルモニカなどそこにいないかのように振舞うラディスラウスを横目に見つつ、エルモニカはそっと水を差した。
「まだですよ。 もう少しお待ちなさいな」
「では、職人を急がせないといけないね。 私と、祖父と、母と、屋敷のものだけで式を挙げようね。 私は、婚礼衣装を着たシィーファが見られたらなんだっていいんだ」
エルモニカの存在など忘れたかのように、うっとりと微笑むラディスラウスとは違い、シィーファはエルモニカを気にして、何も言えないのだろう。
ほのかに頬を染めて、困ったように視線を揺らす姿が、可愛らしい。
それに、困ってはいても、嫌がってはいないのが読み取れたから、エルモニカも微笑む。
「シィーファ、貴女、今、幸せ?」
意図せず、唇からはそんな言葉が漏れた。
自分でも驚いたが、問いを投げられたシィーファは、もっと驚いたのだろう。
しどろもどろになりながらも、姿勢を正した。
「え、その…、はい。 こんなに幸せで、いいのかな、って…たまに心配になるくらい、幸せです」
ちら、とラディスラウスを見、すぐに視線を逸らして、けれど、シィーファは断言した。
ラディスラウスがいるので、照れているのかもしれないが、彼女は言葉を偽らない。
だから、エルモニカはもう一度、今度はラディスラウスに微笑む。
「可愛いお嫁さんですねぇ、ラウ」
「でしょう?」
シィーファを褒めれば、ラディスラウスもまた、我がことのように誇らしげに胸を張るのだ。
だから、思った。
あのときの、あの子が、生きていてくれてよかった、と。
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