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石に花咲く
―8 years ago②―
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ジェイドは、ディミトリスから、離れから出ないように言われているのか、日中のほとんどの時間をひとりで過ごしているようだった。
ラディスラウスの来訪に、困ったような顔をしながらも、ジェイドが最終的にはいつも優しく笑ってくれたのは、そういうわけだったのだろう。
だから、ラディスラウスは毎日、家庭教師との勉強の時間・稽古の時間が終わると、ジェイドのところへ出かけた。
使用人たちも、母も、お祖父様も、頻繁に姿を消すラディスラウスがどこに行っているのか、一週間も経てば気づき始めたようだったが、特に何も言わなかった。
見えるのに、見えないふりをしているようだな、とそのときは思った。
もしかすると、ジェイドは、ラディスラウスにしか見えない幽霊とか精霊のような存在ではないか、と考えたこともあった。
だから、ラディスラウスに誰も離れに暮らすジェイドのことを教えなかったのではないか、と。
だが、彼女に食事を運ぶ使用人もいたし、彼女は毎日異なる清潔な服を身に着けているのだから、ラディスラウスにしか見えないということはないだろう。
ジェイドはどうやら、ラディスラウスの国とは別の国で生まれ育ったらしい。
ラディスラウスとは、人種も違うのだと教えてもらった。
それからジェイドは、甘い菓子よりも、果物の方が好きらしい。
中でも一番好きなのは無花果だ。
ラディスラウスは、見た目から食べず嫌いをしていた無花果だったが、ジェイドが半分に割った無花果の片方を食べさせてもらってから、好きになった。
ラディスラウスが彼女の元を訪れるときは、花を一輪、もしくは、果物を持って行くようになった。
離れには、ナイフのようなものはないらしく、ラディスラウスが持って行く果物は、ナイフを使わずとも食べられるものに限定された。
他愛ない話をするだけだったが、とても楽しかったのを覚えている。
ずっと、ずっと、ジェイドがここにいてくれたらいい。
でも、離れから出てきてくれて、一緒にお祖父様の本邸で暮らせたらもっといいのに。
そんなことを考え始めたある日、その事件は起こったのだ。
ラディスラウスはいつも通り、使用人にお願いして果物を融通してもらい、ジェイドのいる離れに向かった。
今まで無花果に見向きもしなかったラディスラウスが、あまりに「無花果、無花果」言うので、使用人が用意してくれていたのだろう。
今日の果物は無花果だった。
ジェイドの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
そう、弾むような気持ちで、踊るような足取りで、ラディスラウスは離れへと向かったのだ。
いつもの窓から、ひょこりと室内を覗き込み――…。
ラディスラウスは瞠目した。
声を上げたかったが、声が喉に張り付いて出なかった。
あまりの衝撃に、ハンカチーフに包んで大切に抱えていた無花果を、取り落としてしまう。
そうすれば、無花果が草の上に落ちる、かさかさかさ、という音に気づいたのだろう。
床にジェイドを押し伏せて、のしかかるようにしながら首を絞めていたディミトリスの顔が、こちらに向いた。
ラディスラウスだって、非現実的な現実を前に、顔面蒼白だったかもしれない。
だが、ディミトリスの表情は、恐怖に引きつっており、歯の根も合わずに、まるで幽鬼のようだった。
ディミトリスは、慌てたようにジェイドの首から手を離したかと思うと、ぐったりとして動かないジェイドを見、窓の外にいるラディスラウスを見、自分の手を見下ろす。
「っ…!!」
そして、ジェイドから離れ、開けた扉を閉めることもせずに、転がるようにして飛び出していく。
「まっ…」
逃げるように転がり出ていって、廊下の角を曲がり、もう姿の見えなくなった叔父に声を掛けかけて、やめた。
そちらは、どうでもいい。
今優先させなければならないのは、そこで下肢を剥き出しにしてぐったりとした様子で倒れている、ジェイドの方だ。
今まで、この窓はラディスラウスにとって、異界と繋がる入口、のような位置づけだったのだと思う。
向こうの世界のジェイドと話はしても、向こうの世界に行こうとは思わなかった。
ごく、と口の中のつばを飲み込んで、呼吸をひとつし、窓枠に手をついて、地面を蹴り上げる。
ラディスラウスの身体は、腕の力と脚力によって、軽々と窓枠に足を乗せることができた。
とん、と室内に降り立ったラディスラウスは、慌ててジェイドに駆け寄ったが、ぎくり、として足を止めた。
窓の外にいるときから、ジェイドの下肢が剥き出しになっていることには気づいていた。
その下肢が、ドロワーズを穿いていないのもわかっていたが、どうして、こんなに、包帯だらけなのだろう。
右太腿に巻かれた、白い包帯。
左太腿にも、何か所かガーゼが当てられている。
ジェイドが、痛そうにしていることがあったのは知っているけれど、いずれも彼女は、「ぶつけた」とか「転んだ」とか言っていた。
けれど、これは、本当に、ぶつけたり、転んだりしてできた怪我なのだろうか。
それから気になったのが、絨毯の上で横たわる、ジェイドの脚の間から…だろうか、白い液体が出て、深紅の絨毯を汚してしまっていることだ。
気になりはしたが、そちらは後回しにすることにした。
女性のジェイドが下半身丸見えでは恥ずかしいだろう。
なんとかスカートを下ろして整えたところで、ラディスラウスはようやくジェイドの首から上を見て、息が止まるかと思った。
ジェイドの首には、赤く、くっきりと指の跡がついていて、微動だにしない。
胸が、上下している気配もないのだ。
ラディスラウスは、恐る恐る、問いかけた。
「ジェイド…?」
応じる声がなくて、軽く頬を叩いてみるが、身じろぎもしない。
「ジェイド」
サーッと血の気が引くような感じがした。
そんな、まさか。
ドッドッと大きな音で心臓が駆け出す。
心臓が、痛い。
確かめるのが、怖い。
けれど。
ラディスラウスは、思い切って、ジェイドの薄く開いた唇に、耳を寄せてみる。
呼吸の音は、聞こえなかった。
ラディスラウスの来訪に、困ったような顔をしながらも、ジェイドが最終的にはいつも優しく笑ってくれたのは、そういうわけだったのだろう。
だから、ラディスラウスは毎日、家庭教師との勉強の時間・稽古の時間が終わると、ジェイドのところへ出かけた。
使用人たちも、母も、お祖父様も、頻繁に姿を消すラディスラウスがどこに行っているのか、一週間も経てば気づき始めたようだったが、特に何も言わなかった。
見えるのに、見えないふりをしているようだな、とそのときは思った。
もしかすると、ジェイドは、ラディスラウスにしか見えない幽霊とか精霊のような存在ではないか、と考えたこともあった。
だから、ラディスラウスに誰も離れに暮らすジェイドのことを教えなかったのではないか、と。
だが、彼女に食事を運ぶ使用人もいたし、彼女は毎日異なる清潔な服を身に着けているのだから、ラディスラウスにしか見えないということはないだろう。
ジェイドはどうやら、ラディスラウスの国とは別の国で生まれ育ったらしい。
ラディスラウスとは、人種も違うのだと教えてもらった。
それからジェイドは、甘い菓子よりも、果物の方が好きらしい。
中でも一番好きなのは無花果だ。
ラディスラウスは、見た目から食べず嫌いをしていた無花果だったが、ジェイドが半分に割った無花果の片方を食べさせてもらってから、好きになった。
ラディスラウスが彼女の元を訪れるときは、花を一輪、もしくは、果物を持って行くようになった。
離れには、ナイフのようなものはないらしく、ラディスラウスが持って行く果物は、ナイフを使わずとも食べられるものに限定された。
他愛ない話をするだけだったが、とても楽しかったのを覚えている。
ずっと、ずっと、ジェイドがここにいてくれたらいい。
でも、離れから出てきてくれて、一緒にお祖父様の本邸で暮らせたらもっといいのに。
そんなことを考え始めたある日、その事件は起こったのだ。
ラディスラウスはいつも通り、使用人にお願いして果物を融通してもらい、ジェイドのいる離れに向かった。
今まで無花果に見向きもしなかったラディスラウスが、あまりに「無花果、無花果」言うので、使用人が用意してくれていたのだろう。
今日の果物は無花果だった。
ジェイドの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
そう、弾むような気持ちで、踊るような足取りで、ラディスラウスは離れへと向かったのだ。
いつもの窓から、ひょこりと室内を覗き込み――…。
ラディスラウスは瞠目した。
声を上げたかったが、声が喉に張り付いて出なかった。
あまりの衝撃に、ハンカチーフに包んで大切に抱えていた無花果を、取り落としてしまう。
そうすれば、無花果が草の上に落ちる、かさかさかさ、という音に気づいたのだろう。
床にジェイドを押し伏せて、のしかかるようにしながら首を絞めていたディミトリスの顔が、こちらに向いた。
ラディスラウスだって、非現実的な現実を前に、顔面蒼白だったかもしれない。
だが、ディミトリスの表情は、恐怖に引きつっており、歯の根も合わずに、まるで幽鬼のようだった。
ディミトリスは、慌てたようにジェイドの首から手を離したかと思うと、ぐったりとして動かないジェイドを見、窓の外にいるラディスラウスを見、自分の手を見下ろす。
「っ…!!」
そして、ジェイドから離れ、開けた扉を閉めることもせずに、転がるようにして飛び出していく。
「まっ…」
逃げるように転がり出ていって、廊下の角を曲がり、もう姿の見えなくなった叔父に声を掛けかけて、やめた。
そちらは、どうでもいい。
今優先させなければならないのは、そこで下肢を剥き出しにしてぐったりとした様子で倒れている、ジェイドの方だ。
今まで、この窓はラディスラウスにとって、異界と繋がる入口、のような位置づけだったのだと思う。
向こうの世界のジェイドと話はしても、向こうの世界に行こうとは思わなかった。
ごく、と口の中のつばを飲み込んで、呼吸をひとつし、窓枠に手をついて、地面を蹴り上げる。
ラディスラウスの身体は、腕の力と脚力によって、軽々と窓枠に足を乗せることができた。
とん、と室内に降り立ったラディスラウスは、慌ててジェイドに駆け寄ったが、ぎくり、として足を止めた。
窓の外にいるときから、ジェイドの下肢が剥き出しになっていることには気づいていた。
その下肢が、ドロワーズを穿いていないのもわかっていたが、どうして、こんなに、包帯だらけなのだろう。
右太腿に巻かれた、白い包帯。
左太腿にも、何か所かガーゼが当てられている。
ジェイドが、痛そうにしていることがあったのは知っているけれど、いずれも彼女は、「ぶつけた」とか「転んだ」とか言っていた。
けれど、これは、本当に、ぶつけたり、転んだりしてできた怪我なのだろうか。
それから気になったのが、絨毯の上で横たわる、ジェイドの脚の間から…だろうか、白い液体が出て、深紅の絨毯を汚してしまっていることだ。
気になりはしたが、そちらは後回しにすることにした。
女性のジェイドが下半身丸見えでは恥ずかしいだろう。
なんとかスカートを下ろして整えたところで、ラディスラウスはようやくジェイドの首から上を見て、息が止まるかと思った。
ジェイドの首には、赤く、くっきりと指の跡がついていて、微動だにしない。
胸が、上下している気配もないのだ。
ラディスラウスは、恐る恐る、問いかけた。
「ジェイド…?」
応じる声がなくて、軽く頬を叩いてみるが、身じろぎもしない。
「ジェイド」
サーッと血の気が引くような感じがした。
そんな、まさか。
ドッドッと大きな音で心臓が駆け出す。
心臓が、痛い。
確かめるのが、怖い。
けれど。
ラディスラウスは、思い切って、ジェイドの薄く開いた唇に、耳を寄せてみる。
呼吸の音は、聞こえなかった。
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