45 / 65
石に花咲く
―8 years ago②―
しおりを挟む
ジェイドは、ディミトリスから、離れから出ないように言われているのか、日中のほとんどの時間をひとりで過ごしているようだった。
ラディスラウスの来訪に、困ったような顔をしながらも、ジェイドが最終的にはいつも優しく笑ってくれたのは、そういうわけだったのだろう。
だから、ラディスラウスは毎日、家庭教師との勉強の時間・稽古の時間が終わると、ジェイドのところへ出かけた。
使用人たちも、母も、お祖父様も、頻繁に姿を消すラディスラウスがどこに行っているのか、一週間も経てば気づき始めたようだったが、特に何も言わなかった。
見えるのに、見えないふりをしているようだな、とそのときは思った。
もしかすると、ジェイドは、ラディスラウスにしか見えない幽霊とか精霊のような存在ではないか、と考えたこともあった。
だから、ラディスラウスに誰も離れに暮らすジェイドのことを教えなかったのではないか、と。
だが、彼女に食事を運ぶ使用人もいたし、彼女は毎日異なる清潔な服を身に着けているのだから、ラディスラウスにしか見えないということはないだろう。
ジェイドはどうやら、ラディスラウスの国とは別の国で生まれ育ったらしい。
ラディスラウスとは、人種も違うのだと教えてもらった。
それからジェイドは、甘い菓子よりも、果物の方が好きらしい。
中でも一番好きなのは無花果だ。
ラディスラウスは、見た目から食べず嫌いをしていた無花果だったが、ジェイドが半分に割った無花果の片方を食べさせてもらってから、好きになった。
ラディスラウスが彼女の元を訪れるときは、花を一輪、もしくは、果物を持って行くようになった。
離れには、ナイフのようなものはないらしく、ラディスラウスが持って行く果物は、ナイフを使わずとも食べられるものに限定された。
他愛ない話をするだけだったが、とても楽しかったのを覚えている。
ずっと、ずっと、ジェイドがここにいてくれたらいい。
でも、離れから出てきてくれて、一緒にお祖父様の本邸で暮らせたらもっといいのに。
そんなことを考え始めたある日、その事件は起こったのだ。
ラディスラウスはいつも通り、使用人にお願いして果物を融通してもらい、ジェイドのいる離れに向かった。
今まで無花果に見向きもしなかったラディスラウスが、あまりに「無花果、無花果」言うので、使用人が用意してくれていたのだろう。
今日の果物は無花果だった。
ジェイドの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
そう、弾むような気持ちで、踊るような足取りで、ラディスラウスは離れへと向かったのだ。
いつもの窓から、ひょこりと室内を覗き込み――…。
ラディスラウスは瞠目した。
声を上げたかったが、声が喉に張り付いて出なかった。
あまりの衝撃に、ハンカチーフに包んで大切に抱えていた無花果を、取り落としてしまう。
そうすれば、無花果が草の上に落ちる、かさかさかさ、という音に気づいたのだろう。
床にジェイドを押し伏せて、のしかかるようにしながら首を絞めていたディミトリスの顔が、こちらに向いた。
ラディスラウスだって、非現実的な現実を前に、顔面蒼白だったかもしれない。
だが、ディミトリスの表情は、恐怖に引きつっており、歯の根も合わずに、まるで幽鬼のようだった。
ディミトリスは、慌てたようにジェイドの首から手を離したかと思うと、ぐったりとして動かないジェイドを見、窓の外にいるラディスラウスを見、自分の手を見下ろす。
「っ…!!」
そして、ジェイドから離れ、開けた扉を閉めることもせずに、転がるようにして飛び出していく。
「まっ…」
逃げるように転がり出ていって、廊下の角を曲がり、もう姿の見えなくなった叔父に声を掛けかけて、やめた。
そちらは、どうでもいい。
今優先させなければならないのは、そこで下肢を剥き出しにしてぐったりとした様子で倒れている、ジェイドの方だ。
今まで、この窓はラディスラウスにとって、異界と繋がる入口、のような位置づけだったのだと思う。
向こうの世界のジェイドと話はしても、向こうの世界に行こうとは思わなかった。
ごく、と口の中のつばを飲み込んで、呼吸をひとつし、窓枠に手をついて、地面を蹴り上げる。
ラディスラウスの身体は、腕の力と脚力によって、軽々と窓枠に足を乗せることができた。
とん、と室内に降り立ったラディスラウスは、慌ててジェイドに駆け寄ったが、ぎくり、として足を止めた。
窓の外にいるときから、ジェイドの下肢が剥き出しになっていることには気づいていた。
その下肢が、ドロワーズを穿いていないのもわかっていたが、どうして、こんなに、包帯だらけなのだろう。
右太腿に巻かれた、白い包帯。
左太腿にも、何か所かガーゼが当てられている。
ジェイドが、痛そうにしていることがあったのは知っているけれど、いずれも彼女は、「ぶつけた」とか「転んだ」とか言っていた。
けれど、これは、本当に、ぶつけたり、転んだりしてできた怪我なのだろうか。
それから気になったのが、絨毯の上で横たわる、ジェイドの脚の間から…だろうか、白い液体が出て、深紅の絨毯を汚してしまっていることだ。
気になりはしたが、そちらは後回しにすることにした。
女性のジェイドが下半身丸見えでは恥ずかしいだろう。
なんとかスカートを下ろして整えたところで、ラディスラウスはようやくジェイドの首から上を見て、息が止まるかと思った。
ジェイドの首には、赤く、くっきりと指の跡がついていて、微動だにしない。
胸が、上下している気配もないのだ。
ラディスラウスは、恐る恐る、問いかけた。
「ジェイド…?」
応じる声がなくて、軽く頬を叩いてみるが、身じろぎもしない。
「ジェイド」
サーッと血の気が引くような感じがした。
そんな、まさか。
ドッドッと大きな音で心臓が駆け出す。
心臓が、痛い。
確かめるのが、怖い。
けれど。
ラディスラウスは、思い切って、ジェイドの薄く開いた唇に、耳を寄せてみる。
呼吸の音は、聞こえなかった。
ラディスラウスの来訪に、困ったような顔をしながらも、ジェイドが最終的にはいつも優しく笑ってくれたのは、そういうわけだったのだろう。
だから、ラディスラウスは毎日、家庭教師との勉強の時間・稽古の時間が終わると、ジェイドのところへ出かけた。
使用人たちも、母も、お祖父様も、頻繁に姿を消すラディスラウスがどこに行っているのか、一週間も経てば気づき始めたようだったが、特に何も言わなかった。
見えるのに、見えないふりをしているようだな、とそのときは思った。
もしかすると、ジェイドは、ラディスラウスにしか見えない幽霊とか精霊のような存在ではないか、と考えたこともあった。
だから、ラディスラウスに誰も離れに暮らすジェイドのことを教えなかったのではないか、と。
だが、彼女に食事を運ぶ使用人もいたし、彼女は毎日異なる清潔な服を身に着けているのだから、ラディスラウスにしか見えないということはないだろう。
ジェイドはどうやら、ラディスラウスの国とは別の国で生まれ育ったらしい。
ラディスラウスとは、人種も違うのだと教えてもらった。
それからジェイドは、甘い菓子よりも、果物の方が好きらしい。
中でも一番好きなのは無花果だ。
ラディスラウスは、見た目から食べず嫌いをしていた無花果だったが、ジェイドが半分に割った無花果の片方を食べさせてもらってから、好きになった。
ラディスラウスが彼女の元を訪れるときは、花を一輪、もしくは、果物を持って行くようになった。
離れには、ナイフのようなものはないらしく、ラディスラウスが持って行く果物は、ナイフを使わずとも食べられるものに限定された。
他愛ない話をするだけだったが、とても楽しかったのを覚えている。
ずっと、ずっと、ジェイドがここにいてくれたらいい。
でも、離れから出てきてくれて、一緒にお祖父様の本邸で暮らせたらもっといいのに。
そんなことを考え始めたある日、その事件は起こったのだ。
ラディスラウスはいつも通り、使用人にお願いして果物を融通してもらい、ジェイドのいる離れに向かった。
今まで無花果に見向きもしなかったラディスラウスが、あまりに「無花果、無花果」言うので、使用人が用意してくれていたのだろう。
今日の果物は無花果だった。
ジェイドの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
そう、弾むような気持ちで、踊るような足取りで、ラディスラウスは離れへと向かったのだ。
いつもの窓から、ひょこりと室内を覗き込み――…。
ラディスラウスは瞠目した。
声を上げたかったが、声が喉に張り付いて出なかった。
あまりの衝撃に、ハンカチーフに包んで大切に抱えていた無花果を、取り落としてしまう。
そうすれば、無花果が草の上に落ちる、かさかさかさ、という音に気づいたのだろう。
床にジェイドを押し伏せて、のしかかるようにしながら首を絞めていたディミトリスの顔が、こちらに向いた。
ラディスラウスだって、非現実的な現実を前に、顔面蒼白だったかもしれない。
だが、ディミトリスの表情は、恐怖に引きつっており、歯の根も合わずに、まるで幽鬼のようだった。
ディミトリスは、慌てたようにジェイドの首から手を離したかと思うと、ぐったりとして動かないジェイドを見、窓の外にいるラディスラウスを見、自分の手を見下ろす。
「っ…!!」
そして、ジェイドから離れ、開けた扉を閉めることもせずに、転がるようにして飛び出していく。
「まっ…」
逃げるように転がり出ていって、廊下の角を曲がり、もう姿の見えなくなった叔父に声を掛けかけて、やめた。
そちらは、どうでもいい。
今優先させなければならないのは、そこで下肢を剥き出しにしてぐったりとした様子で倒れている、ジェイドの方だ。
今まで、この窓はラディスラウスにとって、異界と繋がる入口、のような位置づけだったのだと思う。
向こうの世界のジェイドと話はしても、向こうの世界に行こうとは思わなかった。
ごく、と口の中のつばを飲み込んで、呼吸をひとつし、窓枠に手をついて、地面を蹴り上げる。
ラディスラウスの身体は、腕の力と脚力によって、軽々と窓枠に足を乗せることができた。
とん、と室内に降り立ったラディスラウスは、慌ててジェイドに駆け寄ったが、ぎくり、として足を止めた。
窓の外にいるときから、ジェイドの下肢が剥き出しになっていることには気づいていた。
その下肢が、ドロワーズを穿いていないのもわかっていたが、どうして、こんなに、包帯だらけなのだろう。
右太腿に巻かれた、白い包帯。
左太腿にも、何か所かガーゼが当てられている。
ジェイドが、痛そうにしていることがあったのは知っているけれど、いずれも彼女は、「ぶつけた」とか「転んだ」とか言っていた。
けれど、これは、本当に、ぶつけたり、転んだりしてできた怪我なのだろうか。
それから気になったのが、絨毯の上で横たわる、ジェイドの脚の間から…だろうか、白い液体が出て、深紅の絨毯を汚してしまっていることだ。
気になりはしたが、そちらは後回しにすることにした。
女性のジェイドが下半身丸見えでは恥ずかしいだろう。
なんとかスカートを下ろして整えたところで、ラディスラウスはようやくジェイドの首から上を見て、息が止まるかと思った。
ジェイドの首には、赤く、くっきりと指の跡がついていて、微動だにしない。
胸が、上下している気配もないのだ。
ラディスラウスは、恐る恐る、問いかけた。
「ジェイド…?」
応じる声がなくて、軽く頬を叩いてみるが、身じろぎもしない。
「ジェイド」
サーッと血の気が引くような感じがした。
そんな、まさか。
ドッドッと大きな音で心臓が駆け出す。
心臓が、痛い。
確かめるのが、怖い。
けれど。
ラディスラウスは、思い切って、ジェイドの薄く開いた唇に、耳を寄せてみる。
呼吸の音は、聞こえなかった。
0
お気に入りに追加
80
あなたにおすすめの小説
ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
蓮恭
恋愛
恋人に裏切られ、傷心のヒロイン杏子は勤め先の美容室を去り、人気の老舗美容室に転職する。
そこで真面目に培ってきた技術を買われ、憧れのヘアケアブランドの社長である統一郎の自宅を訪問して施術をする事に……。
しかも統一郎からどうしてもと頼まれたのは、その後の杏子の人生を大きく変えてしまうような事で……⁉︎
杏子は過去の臆病な自分と決別し、統一郎との新しい一歩を踏み出せるのか?
【サクサク読める現代物溺愛系恋愛ストーリーです】

最低な出会いから濃密な愛を知る
あん蜜
恋愛
グレイン伯爵家の次女――私ソフィア・グレインは18歳になっても恋愛に興味がなく、苦手な社交活動もなんとか避けて生きてきた。しかしこのまま生きていけるはずもく、娘の今後を心配した父の計らいによって”お相手探しの会”へ参加する羽目に。しぶしぶ参加した私は、そこで出会ったベン・ブラウニー伯爵令息に強引なアプローチを受けるのだが、第一印象は本当に最悪だった……! これ以上関わりたくないと逃げようとするも、猛烈なアプローチからは逃れられず……――――。

【完結】あわよくば好きになって欲しい(短編集)
野村にれ
恋愛
番(つがい)の物語。
※短編集となります。時代背景や国が違うこともあります。
※定期的に番(つがい)の話を書きたくなるのですが、
どうしても溺愛ハッピーエンドにはならないことが多いです。

私の全てを奪ってくれた
うみすけ
恋愛
大好きな人といることで心が安らぐ。そう思い続けていた渡辺まちかは日々それだけを糧に過ごす一般人。少しばかり顔が整っているだけの彼はある日、彼女に振られ、まるで心に穴が空いたように、自分の存在の意味がわからなくなり、全てを投げ出したくなっていた。
そんな彼を救うような、そんなお話。

毎週金曜日、午後9時にホテルで
狭山雪菜
恋愛
柳瀬史恵は、輸入雑貨の通販会社の経理事務をしている28歳の女だ。
同期入社の内藤秋人は営業部のエースで、よく経費について喧嘩をしていた。そんな二人は犬猿の仲として社内でも有名だったけど、毎週金曜日になると二人の間には…?
不定期更新です。
こちらの作品は「小説家になろう」にも掲載しております。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。

皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。

俺様系和服社長の家庭教師になりました。
蝶野ともえ
恋愛
一葉 翠(いつは すい)は、とある高級ブランドの店員。
ある日、常連である和服のイケメン社長に接客を指名されてしまう。
冷泉 色 (れいぜん しき) 高級和食店や呉服屋を国内に展開する大手企業の社長。普段は人当たりが良いが、オフや自分の会社に戻ると一気に俺様になる。
「君に一目惚れした。バックではなく、おまえ自身と取引をさせろ。」
それから気づくと色の家庭教師になることに!?
期間限定の生徒と先生の関係から、お互いに気持ちが変わっていって、、、
俺様社長に翻弄される日々がスタートした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる