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石に花咲く
9.
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居間なのか客間なのか、シィーファには判別できない部屋へと通された。
椅子を引いたラディスに、腰かけるよう勧められて腰を下ろすと、その右隣にラディスが腰かける。
すると、タイミングを見計らったように、象牙の肌に、漆黒の髪と瞳の色の男性が、荷台のようなものを押して入ってきた。
髪は短く、精悍で、戦士のような印象なのだが、そのひとはラディスと似たような服装をしていて、手には白い手袋をはめている。
その手が、丸いテーブルにグラスや果物の乗ったお皿を置き始める。
お皿の上に、大好物の無花果や、緑や紫の宝石――葡萄を見つけて、シィーファは嬉しくなった。
「お茶だと言っていたのに、がっかりした?」
目を細めたラディスが、そんな風に尋ねてくるので、シィーファは慌てて首を横に振る。
彼が言っているのは、お茶だと言っていたのに、透明なグラスに入っているのがお茶ではなくて、がっかりした?ということだろう。
「いえ、普段飲み慣れないので、実はお茶類はあまり得意ではありません。 正直、お水でほっとしました。 果物も好きなので、嬉しいです」
「そう、よかった」
微笑んだラディスが頷くと、先程の男性が、ラディスの右側に立った。
シィーファの視線がそちらに向いたから、ラディスは気づいたのだろう。
ラディスが顔を自身の右側に向けると、男性は腰から上体を折るようにして、ラディスにそっと耳打ちをした。
「殿下、申し訳ありません…」
「いや、浮かれていて、きちんと説明をしていかなかった私が悪い。 気にしなくていい」
詳細はわからなかったが、彼が何かをしでかして、それに対してラディスがお咎めなしだ、と言っているのだろう。
シィーファが見ていることに気づいたのか、ラディスは口を開いた。
「シィーファ、彼はウーア、先程いた女性がセネウ。 彼は私の従者で…、友人のようなものだ」
シィーファが、ウーアと紹介された男性に会釈をすると、彼は小さく微笑んで頷いた。
精悍で、戦士のような印象、というのは、少し怖いという感情を含んでいたのだが、微笑むとぐっと優しい印象になるらしい。
頭を下げられたから下げ返した、というよりも、彼らの感覚だと頷かれたから頷き返した、というところなのかもしれない。
「…因みに、貴方の本当のお名前は?」
「…ラディスラウス」
シィーファが興味本位でラディスに訊くと、言いたくなさそうにしながら、彼は口にした。
一度言葉を切ったラディスだったが、訊かれる前に、と思ったのだろうか。 矢継ぎ早に続けた。
「王、とか、王に相応しい、とか、そういう意味らしい」
その言葉に、シィーファの頭の中には、馬車の中でのやり取りが浮かんだ。
――誰かには意味のあるものでも、私には意味のないものだから
あれはもしかすると、殿下、という敬称で呼ばれはしても、第五王子で、王位継承権第五位の自分が、【ラディスラウス】なんて、という皮肉だったのかもしれない。
それに、「宝の持ち腐れ」と返したのは、無意識とはいえ、失礼だったのではないか…、そんな考えが浮かんだのだが、同時にシィーファは思い出す。
そういえば、あのとき、ラディスは笑っていたような気がする。
ということは、シィーファの発言自体は、好意的に受け取られた、ということなのだろう。
第五王子だから、【ラディスラウス】という名なんて名前負けだよね、ということではなく、王座に興味のない私が【ラディスラウス】なんて、という意味だったのかもしれない。
そんな風に考えていると、ウーアが、ラディスに白い布を手渡した。
ラディスはその布を受け取って、軽く手を拭い、折り畳んでテーブルに置く。
ウーアはシィーファにも同じように白い布を手渡してきたので、受け取った。
渡された白い布は、濡れていた。 恐らく、濡れ布巾のようなものなのだろう。
ラディスを真似て、濡れ布巾を折り畳んでテーブルに置くと、ラディスはグラスを手に取って、促すように首を少しだけ傾けた。
だから、シィーファもグラスを手に取ったのだが、ラディスはシィーファが手に取ったグラスに、自分のグラスを近づけてきて、グラスの縁にグラスの縁を合わせた。
チン、と軽くて高い音がして、まるでグラス同士にキスをさせたようだな、とシィーファは考えていたのだが、ラディスにそんな意図はなかったのだろう。
「乾杯」
微笑んで短く告げると、ラディスはグラスに口をつけた。
そういう作法らしい、ということを理解して、シィーファもグラスに口をつけ、透明な液体を口に含み、驚いた。
「…!」
その液体を嚥下し、グラスから口を離して、グラスの中の液体を見る。
水だと思ったけれど、水ではなかったのだ。
「どう?」
微笑んだラディスに問われて、思わずシィーファは興奮気味に口を開いていた。
「美味しい、です。 果実の香りと、酸味と、甘味がほのかにありますね」
多少、前のめりになった感も否めないが、衝撃だったのだ。
ほとんど水なのに、水ではない。
口に含んだ瞬間、ふわっと果実の香りが鼻に抜け、舌に本当にほのかな酸味と甘みが広がる。
飲みやすくて、好きな味だ。
「そう、果実水っていうんだよ。 きっと、好きだと思った」
何をもって、彼が「シィーファが好きだと思う」と思ったのかはわからないが、事実シィーファが好きだと思ったのは間違いない。
それでも、ラディスの思い通りになっている感じがなんとなく面白くない。
シィーファが再びグラスに口をつけ、無心を装ってこくこくと果実水を飲んでいると、ラディスが果物の盛られたお皿を、シィーファの方に寄せた。
「果物もどうぞ。 これは、皮ごと食べられる葡萄だよ」
そんなものがあるのか、とシィーファは目を瞬かせた。
シィーファは葡萄も好きだが、もう少し手軽に食べられたらいいなぁ、と思ったことは何度もある。
皮を剥くのは手間だし、指がべたべたになるだけでなく、紫色になるのだ。
それでも、好きなものは好きなので、食べないという選択肢はないけれど。
「あの、では、いただきます」
まずは、緑の葡萄を一粒手に取り、口に運ぶ。
しゃくり、と歯を立てて、皮ごと咀嚼する。
少しだけ、皮の渋みが舌に残るような感じがしたが、気にしなければ気にならない程度だ。 甘くて、美味しい。
シィーファは続けて、紫の葡萄を口にする。 先程の、緑の葡萄よりも、甘味が強い。
個体差もあるのかもしれないが、同じ果物でも品種によって味や香りに違いがあるのが面白い、とも思う。
果実水で一度、口の中をさっぱりさせて、今度は、大好物の無花果に手を伸ばす。
実を半分に割くと香りがふわっと鼻孔を擽って、途端に口の中に唾液が満ちた。
皮が薄いから、これは皮ごと食べても問題のない無花果だ。
赤く、熟れた果実を、ぱくりと口にする。
「…!」
無花果の中は、やわらかくてとろけるようだと、いつもシィーファは思う。
なのに、小さな種の食感が楽しい。
「美味しそうに食べるね」
耳に届いた声に、シィーファはハッとする。
誰かがいるところで何かを食べたり飲んだりするのなど久しぶりなので、いつものようにもくもくと食べてしまっていた。
ラディスはにこにこしているが、無作法だったのかもしれない。
口の中の甘い果実を飲み込んだ後で、慌てて尋ねた。
「召し上がらないのですか?」
「美味しそうに食べるのを見ている方が好きかな」
そう言って、【喉が渇いた】と言っていたはずのラディスは、グラスの果実水に口をつける程度だ。
「でも、わたしだけいただくのも気が引けます」
シィーファが訴えると、ラディスはふっと笑って、皿の果物に手を伸ばした。
「じゃあ、ひとつずついただこうかな」
ぽいと緑の葡萄を一粒口に入れ、咀嚼し、飲み込み、グラスの果実水で口を潤す。
次に、紫の葡萄を一粒口に放り込み、同じようにし、最後に無花果も半分に割って口に入れる。
「美味しい、ですよね?」
「そうだね。 けれど、私の育てた無花果や葡萄の方が美味しい」
シィーファの問いを肯定した後のラディスの言葉に、シィーファは面食らう。
「え? 育てていらっしゃるのですか?」
殿下が、手づから? と訊く勇気はなかった。
理由はわからないが、恐らくラディスは、自分が王子であるということを、シィーファに隠しておきたかったのだ。
隠しておきたかったはずの呼び方で、わざわざシィーファがラディスを呼んで、彼を不機嫌にする必要もないだろう。
「そうだね、王都に帰ったらご馳走するよ。 無花果は私も一等好きな果実だから」
微笑んで、当たり前の未来の話を、ラディスはする。
ああ、住む世界が違うんだな、とシィーファは感じ、少しだけ、寂しくなった。
シィーファは、当たり前に来る未来を想像できない。
明日は来ないかもしれない、と考える方が、シィーファには容易だ。
あるいは、明日は来ても、その明日にシィーファ以外の誰も存在しない、と考える方が。
何が言いたいかというと、ラディスがどこぞの王都に帰るというその日、随行する者の中に、シィーファがいるという保証はどこにもないのだということ。
少なくともシィーファは、どこぞの王都に行く気はない。
自分と、ラディスは、未来のない関係だと思っているからだ。
お皿の上の、最後の葡萄を、シィーファは口に運ぶ。
濡れ布巾で手を拭って、グラスの中の果実水を飲み干し、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
それを見届けて、ラディスは立ち上がる。
「少し疲れたから、午睡にしよう。 シィーファだって疲れたでしょう」
王子様らしい、と言ってはあれだが、突飛な発言に、シィーファはまたもや面食らう。
「でも、食べてすぐお昼寝なんて、牛になりますよ」
そういったことを、この方に注意するような大人は、周りにいなかったのだろうか。
考えて、すぐにシィーファは結論を出した。
恐らく、いなかったのだろう。
落ち着いてはいるが、発想が突飛なところや、ふわふわとあどけない様子を見ていると、のびのびと育てられたのだろうということが想像できた。
親――王と妃は息子に関心がなかったか溺愛していたかのどちらかで、周囲の大人たちも同様だったのだろう。
シィーファにそのように思われているラディスは、シィーファをじっと見つめて、またよくわからない発言をする。
「私一人で牛になるのは嫌だけど、シィーファと一緒だったら牛になってもいいよ」
「わたしはひとりでも、誰といっしょでも牛になるのはいやです」
ふるふると首を振ったシィーファの手を取って、ラディスは首をこてんと傾げる。
「では、果物は水と一緒だから、牛にはならない。 ねぇ、午睡しよう」
そんな滅茶苦茶な理論を振りかざしたラディスは、きらきらな笑顔で、じっとシィーファの目を見つめてくる。
見つめ続けると石になると言われた、シィーファの琥珀の瞳を、だ。
どうにも、シィーファは、これに弱い。
「…わかりました」
色々と言いたいことがないわけではなかったが、最終的に、シィーファはラディスの前に屈した。
顔面がいいって得だな、と思いつつ。
椅子を引いたラディスに、腰かけるよう勧められて腰を下ろすと、その右隣にラディスが腰かける。
すると、タイミングを見計らったように、象牙の肌に、漆黒の髪と瞳の色の男性が、荷台のようなものを押して入ってきた。
髪は短く、精悍で、戦士のような印象なのだが、そのひとはラディスと似たような服装をしていて、手には白い手袋をはめている。
その手が、丸いテーブルにグラスや果物の乗ったお皿を置き始める。
お皿の上に、大好物の無花果や、緑や紫の宝石――葡萄を見つけて、シィーファは嬉しくなった。
「お茶だと言っていたのに、がっかりした?」
目を細めたラディスが、そんな風に尋ねてくるので、シィーファは慌てて首を横に振る。
彼が言っているのは、お茶だと言っていたのに、透明なグラスに入っているのがお茶ではなくて、がっかりした?ということだろう。
「いえ、普段飲み慣れないので、実はお茶類はあまり得意ではありません。 正直、お水でほっとしました。 果物も好きなので、嬉しいです」
「そう、よかった」
微笑んだラディスが頷くと、先程の男性が、ラディスの右側に立った。
シィーファの視線がそちらに向いたから、ラディスは気づいたのだろう。
ラディスが顔を自身の右側に向けると、男性は腰から上体を折るようにして、ラディスにそっと耳打ちをした。
「殿下、申し訳ありません…」
「いや、浮かれていて、きちんと説明をしていかなかった私が悪い。 気にしなくていい」
詳細はわからなかったが、彼が何かをしでかして、それに対してラディスがお咎めなしだ、と言っているのだろう。
シィーファが見ていることに気づいたのか、ラディスは口を開いた。
「シィーファ、彼はウーア、先程いた女性がセネウ。 彼は私の従者で…、友人のようなものだ」
シィーファが、ウーアと紹介された男性に会釈をすると、彼は小さく微笑んで頷いた。
精悍で、戦士のような印象、というのは、少し怖いという感情を含んでいたのだが、微笑むとぐっと優しい印象になるらしい。
頭を下げられたから下げ返した、というよりも、彼らの感覚だと頷かれたから頷き返した、というところなのかもしれない。
「…因みに、貴方の本当のお名前は?」
「…ラディスラウス」
シィーファが興味本位でラディスに訊くと、言いたくなさそうにしながら、彼は口にした。
一度言葉を切ったラディスだったが、訊かれる前に、と思ったのだろうか。 矢継ぎ早に続けた。
「王、とか、王に相応しい、とか、そういう意味らしい」
その言葉に、シィーファの頭の中には、馬車の中でのやり取りが浮かんだ。
――誰かには意味のあるものでも、私には意味のないものだから
あれはもしかすると、殿下、という敬称で呼ばれはしても、第五王子で、王位継承権第五位の自分が、【ラディスラウス】なんて、という皮肉だったのかもしれない。
それに、「宝の持ち腐れ」と返したのは、無意識とはいえ、失礼だったのではないか…、そんな考えが浮かんだのだが、同時にシィーファは思い出す。
そういえば、あのとき、ラディスは笑っていたような気がする。
ということは、シィーファの発言自体は、好意的に受け取られた、ということなのだろう。
第五王子だから、【ラディスラウス】という名なんて名前負けだよね、ということではなく、王座に興味のない私が【ラディスラウス】なんて、という意味だったのかもしれない。
そんな風に考えていると、ウーアが、ラディスに白い布を手渡した。
ラディスはその布を受け取って、軽く手を拭い、折り畳んでテーブルに置く。
ウーアはシィーファにも同じように白い布を手渡してきたので、受け取った。
渡された白い布は、濡れていた。 恐らく、濡れ布巾のようなものなのだろう。
ラディスを真似て、濡れ布巾を折り畳んでテーブルに置くと、ラディスはグラスを手に取って、促すように首を少しだけ傾けた。
だから、シィーファもグラスを手に取ったのだが、ラディスはシィーファが手に取ったグラスに、自分のグラスを近づけてきて、グラスの縁にグラスの縁を合わせた。
チン、と軽くて高い音がして、まるでグラス同士にキスをさせたようだな、とシィーファは考えていたのだが、ラディスにそんな意図はなかったのだろう。
「乾杯」
微笑んで短く告げると、ラディスはグラスに口をつけた。
そういう作法らしい、ということを理解して、シィーファもグラスに口をつけ、透明な液体を口に含み、驚いた。
「…!」
その液体を嚥下し、グラスから口を離して、グラスの中の液体を見る。
水だと思ったけれど、水ではなかったのだ。
「どう?」
微笑んだラディスに問われて、思わずシィーファは興奮気味に口を開いていた。
「美味しい、です。 果実の香りと、酸味と、甘味がほのかにありますね」
多少、前のめりになった感も否めないが、衝撃だったのだ。
ほとんど水なのに、水ではない。
口に含んだ瞬間、ふわっと果実の香りが鼻に抜け、舌に本当にほのかな酸味と甘みが広がる。
飲みやすくて、好きな味だ。
「そう、果実水っていうんだよ。 きっと、好きだと思った」
何をもって、彼が「シィーファが好きだと思う」と思ったのかはわからないが、事実シィーファが好きだと思ったのは間違いない。
それでも、ラディスの思い通りになっている感じがなんとなく面白くない。
シィーファが再びグラスに口をつけ、無心を装ってこくこくと果実水を飲んでいると、ラディスが果物の盛られたお皿を、シィーファの方に寄せた。
「果物もどうぞ。 これは、皮ごと食べられる葡萄だよ」
そんなものがあるのか、とシィーファは目を瞬かせた。
シィーファは葡萄も好きだが、もう少し手軽に食べられたらいいなぁ、と思ったことは何度もある。
皮を剥くのは手間だし、指がべたべたになるだけでなく、紫色になるのだ。
それでも、好きなものは好きなので、食べないという選択肢はないけれど。
「あの、では、いただきます」
まずは、緑の葡萄を一粒手に取り、口に運ぶ。
しゃくり、と歯を立てて、皮ごと咀嚼する。
少しだけ、皮の渋みが舌に残るような感じがしたが、気にしなければ気にならない程度だ。 甘くて、美味しい。
シィーファは続けて、紫の葡萄を口にする。 先程の、緑の葡萄よりも、甘味が強い。
個体差もあるのかもしれないが、同じ果物でも品種によって味や香りに違いがあるのが面白い、とも思う。
果実水で一度、口の中をさっぱりさせて、今度は、大好物の無花果に手を伸ばす。
実を半分に割くと香りがふわっと鼻孔を擽って、途端に口の中に唾液が満ちた。
皮が薄いから、これは皮ごと食べても問題のない無花果だ。
赤く、熟れた果実を、ぱくりと口にする。
「…!」
無花果の中は、やわらかくてとろけるようだと、いつもシィーファは思う。
なのに、小さな種の食感が楽しい。
「美味しそうに食べるね」
耳に届いた声に、シィーファはハッとする。
誰かがいるところで何かを食べたり飲んだりするのなど久しぶりなので、いつものようにもくもくと食べてしまっていた。
ラディスはにこにこしているが、無作法だったのかもしれない。
口の中の甘い果実を飲み込んだ後で、慌てて尋ねた。
「召し上がらないのですか?」
「美味しそうに食べるのを見ている方が好きかな」
そう言って、【喉が渇いた】と言っていたはずのラディスは、グラスの果実水に口をつける程度だ。
「でも、わたしだけいただくのも気が引けます」
シィーファが訴えると、ラディスはふっと笑って、皿の果物に手を伸ばした。
「じゃあ、ひとつずついただこうかな」
ぽいと緑の葡萄を一粒口に入れ、咀嚼し、飲み込み、グラスの果実水で口を潤す。
次に、紫の葡萄を一粒口に放り込み、同じようにし、最後に無花果も半分に割って口に入れる。
「美味しい、ですよね?」
「そうだね。 けれど、私の育てた無花果や葡萄の方が美味しい」
シィーファの問いを肯定した後のラディスの言葉に、シィーファは面食らう。
「え? 育てていらっしゃるのですか?」
殿下が、手づから? と訊く勇気はなかった。
理由はわからないが、恐らくラディスは、自分が王子であるということを、シィーファに隠しておきたかったのだ。
隠しておきたかったはずの呼び方で、わざわざシィーファがラディスを呼んで、彼を不機嫌にする必要もないだろう。
「そうだね、王都に帰ったらご馳走するよ。 無花果は私も一等好きな果実だから」
微笑んで、当たり前の未来の話を、ラディスはする。
ああ、住む世界が違うんだな、とシィーファは感じ、少しだけ、寂しくなった。
シィーファは、当たり前に来る未来を想像できない。
明日は来ないかもしれない、と考える方が、シィーファには容易だ。
あるいは、明日は来ても、その明日にシィーファ以外の誰も存在しない、と考える方が。
何が言いたいかというと、ラディスがどこぞの王都に帰るというその日、随行する者の中に、シィーファがいるという保証はどこにもないのだということ。
少なくともシィーファは、どこぞの王都に行く気はない。
自分と、ラディスは、未来のない関係だと思っているからだ。
お皿の上の、最後の葡萄を、シィーファは口に運ぶ。
濡れ布巾で手を拭って、グラスの中の果実水を飲み干し、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
それを見届けて、ラディスは立ち上がる。
「少し疲れたから、午睡にしよう。 シィーファだって疲れたでしょう」
王子様らしい、と言ってはあれだが、突飛な発言に、シィーファはまたもや面食らう。
「でも、食べてすぐお昼寝なんて、牛になりますよ」
そういったことを、この方に注意するような大人は、周りにいなかったのだろうか。
考えて、すぐにシィーファは結論を出した。
恐らく、いなかったのだろう。
落ち着いてはいるが、発想が突飛なところや、ふわふわとあどけない様子を見ていると、のびのびと育てられたのだろうということが想像できた。
親――王と妃は息子に関心がなかったか溺愛していたかのどちらかで、周囲の大人たちも同様だったのだろう。
シィーファにそのように思われているラディスは、シィーファをじっと見つめて、またよくわからない発言をする。
「私一人で牛になるのは嫌だけど、シィーファと一緒だったら牛になってもいいよ」
「わたしはひとりでも、誰といっしょでも牛になるのはいやです」
ふるふると首を振ったシィーファの手を取って、ラディスは首をこてんと傾げる。
「では、果物は水と一緒だから、牛にはならない。 ねぇ、午睡しよう」
そんな滅茶苦茶な理論を振りかざしたラディスは、きらきらな笑顔で、じっとシィーファの目を見つめてくる。
見つめ続けると石になると言われた、シィーファの琥珀の瞳を、だ。
どうにも、シィーファは、これに弱い。
「…わかりました」
色々と言いたいことがないわけではなかったが、最終的に、シィーファはラディスの前に屈した。
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