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石に花咲く
7.
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「着いたよ。 ここは、そうだね…。 仮住まい、と考えてもらったらいいかな」
シィーファの、どこに向かっているのかという問いに「内緒」と答えたラディスは、そんな風にシィーファに説明した。
馬車の小窓から、その建物を見上げたシィーファは、【仮住まい】という単語に違和感を覚える。
こんな立派な仮住まいがあるだろうか。
シィーファがひとりで暮らしていた家の数倍ではきかないし、邸と呼んで差し支えない建物だと思う。
邸の周囲はぐるりと塀で囲まれていて、門扉から玄関までは石畳が敷いてある。
思わず、シィーファの口からは声が零れた。
「仮住まい…」
これを【仮住まい】と呼べるなど、どういった水準の生活をしてきたのだ。
そんな思いが多分に滲んだ呟きだったと思う。
だが、声を潜めたラディスはシィーファの想像も及ばないような答えを返してきた。
「実は、私は今、逃亡中の身なんだ」
え???
我が耳を疑いもしたが、我が耳よりも疑うべきは、目の前のこの男ではないか、とすぐに気づく。
「…それは、本当ですか?」
恐る恐る、尋ねた。
どこかのお国流の冗句だったらいいな、という期待も、少しだけしていたのだと思う。
本当でなければいい、と祈りながら、ジッと待っていると、ラディスは視線を斜め上の宙に向けた。
そして、シィーファには何も見えない、その空間を眺めるようにしている。
何か見えるのだろうか、と同じ虚空を見つめたシィーファにはやはり何も見えないので、混乱しかけたときだった。
ラディスは、虚空を見つめたままで、緩く首を揺らして、零す。
「便宜上、かな」
「…べんぎじょう………?」
ラディスの言葉に、シィーファはますますわからなくなってしまった。
便宜上、「逃亡中の身」と言う、あるいは使う状況が、シィーファには思いつかない。
想像力の限界というものは、どうやら存在するようだ。
ただ、「逃亡中の身」であることが、「便宜上」だったのは、シィーファにとっては幸いだった。
今ですら、面倒ごとを押しつけられたと思っているのに、これ以上の面倒ごとは本当に御免だ。
彼が、便宜上と言うのなら、便宜上ということでいいだろう。
むやみに突いて、藪から蛇が出てきては堪らない。
【推定無罪】という言葉と同じだ。
だから、シィーファはひとつ大きく頷いた。
「わかりました」
「うん」
ラディスは微笑むと、ラディスの側の扉を開けて、颯爽と馬車から下りていく。
シィーファがラディスの出た側から外に出るべきなのか、自分の側の扉を開けた方がいいのか考えていると、シィーファの側の扉が開いて、ビクリとする。
「あ、驚かせた? ごめんね」
少し、気まずそうな顔をしたラディスの言葉に、馬車の中で小さくなったシィーファはまた驚いた。
身分の高いひとは、簡単に謝らないものだと思っていたけれど、どうやら目の前の彼は違うらしい。
「いえ」
シィーファがふるふると首を横に振ると、ラディスは安堵したように微笑んで、すっと手を差し出してくる。
「はい」
シィーファは、その大きくてきれいな手と、ラディスの顔を交互に見て、目を瞬かせた。
「え?」
ラディスは、何をしようと、あるいは、何をしてほしいと考えているのだろう。
その思いが伝わったのか、ラディスは付け加える。
「どうぞ」
シィーファは、もう一度、ラディスの手を見、顔を見た。
どうやらラディスは、シィーファが馬車を降りるために、手を貸してくれると言っているらしい。
通常なら、身分の高い方は、こういった従者の真似事のようなことはしないはずだ。
それなのに、どうしてか彼は、そういったことをやりたがるのだ。
だから、尋ねた。
「…これも、してみたかったこと、ですか?」
シィーファの問いに、ラディスは軽く目を見張ったあとで、微笑み、頷いた。
「そう。 だから、どうぞ」
そういうことなら、シィーファを身請けしてくれた【ご主人様】の要望に、従わぬわけにはいかないだろう。
掌を上にして差し出されたラディスの手に、シィーファはそっと、手を重ねる。
思ったよりも、掌の皮は厚くて、見た目よりもしっかりとした手だと思った。
シィーファは、ふわり、と地上へと降り立ったのだが、先程まで馬車に揺られていたためか、まだ足元がふわふわした感じがする。
そんなシィーファに気づいたわけでもないだろうに、馬車慣れしているらしいラディスは、くるりと身体を半回転させ、一度は離れたシィーファの手を、そっと握った。
しかも、ラディスの右腕は、シィーファの持ち物が入った平包を抱えてくれている。
くい、と強引でない力で、シィーファの手を引いたラディスはシィーファを促そうとしたのだろう。
だが、シィーファは、手を握られる意味がわからなくて、握られた手を見、ラディスの顔を見る。
丁度、ラディスも動かないシィーファを不審に思って振り返ったところだった。
「シィーファ?」
「あ、の?」
戸惑いを隠せないシィーファの表情に、だろう。
ラディスは、ふっと笑った。
「手を繋いで歩くのも、してみたかったこと」
微笑んだラディスにそう言われて、シィーファはまた、新しい気づきを得る。
馬車に揺られる間、ラディスはどうにもシィーファを、遊び相手のように扱うな、と思ってはいた。
この、【遊び相手】は特に含みなく、そのまま異性の友人という意味だ。
彼は、もしかすると、その【遊び相手】と、恋人ごっこをしたいのではないか、と。
どうせシィーファは、彼に買われた身だ。
それならば、彼の【一時的】な【退屈しのぎ】のこの【お遊び】に付き合ってもいいような気になった。
そして、【遊び相手】との【一時的】な【退屈しのぎ】の【お遊び】に彼が飽きた後は、彼のお邸で家人として仕えさせてもらえればいい。
これがシィーファにとっての【めでたしめでたし】だなぁ、と思ったのである。
シィーファの、どこに向かっているのかという問いに「内緒」と答えたラディスは、そんな風にシィーファに説明した。
馬車の小窓から、その建物を見上げたシィーファは、【仮住まい】という単語に違和感を覚える。
こんな立派な仮住まいがあるだろうか。
シィーファがひとりで暮らしていた家の数倍ではきかないし、邸と呼んで差し支えない建物だと思う。
邸の周囲はぐるりと塀で囲まれていて、門扉から玄関までは石畳が敷いてある。
思わず、シィーファの口からは声が零れた。
「仮住まい…」
これを【仮住まい】と呼べるなど、どういった水準の生活をしてきたのだ。
そんな思いが多分に滲んだ呟きだったと思う。
だが、声を潜めたラディスはシィーファの想像も及ばないような答えを返してきた。
「実は、私は今、逃亡中の身なんだ」
え???
我が耳を疑いもしたが、我が耳よりも疑うべきは、目の前のこの男ではないか、とすぐに気づく。
「…それは、本当ですか?」
恐る恐る、尋ねた。
どこかのお国流の冗句だったらいいな、という期待も、少しだけしていたのだと思う。
本当でなければいい、と祈りながら、ジッと待っていると、ラディスは視線を斜め上の宙に向けた。
そして、シィーファには何も見えない、その空間を眺めるようにしている。
何か見えるのだろうか、と同じ虚空を見つめたシィーファにはやはり何も見えないので、混乱しかけたときだった。
ラディスは、虚空を見つめたままで、緩く首を揺らして、零す。
「便宜上、かな」
「…べんぎじょう………?」
ラディスの言葉に、シィーファはますますわからなくなってしまった。
便宜上、「逃亡中の身」と言う、あるいは使う状況が、シィーファには思いつかない。
想像力の限界というものは、どうやら存在するようだ。
ただ、「逃亡中の身」であることが、「便宜上」だったのは、シィーファにとっては幸いだった。
今ですら、面倒ごとを押しつけられたと思っているのに、これ以上の面倒ごとは本当に御免だ。
彼が、便宜上と言うのなら、便宜上ということでいいだろう。
むやみに突いて、藪から蛇が出てきては堪らない。
【推定無罪】という言葉と同じだ。
だから、シィーファはひとつ大きく頷いた。
「わかりました」
「うん」
ラディスは微笑むと、ラディスの側の扉を開けて、颯爽と馬車から下りていく。
シィーファがラディスの出た側から外に出るべきなのか、自分の側の扉を開けた方がいいのか考えていると、シィーファの側の扉が開いて、ビクリとする。
「あ、驚かせた? ごめんね」
少し、気まずそうな顔をしたラディスの言葉に、馬車の中で小さくなったシィーファはまた驚いた。
身分の高いひとは、簡単に謝らないものだと思っていたけれど、どうやら目の前の彼は違うらしい。
「いえ」
シィーファがふるふると首を横に振ると、ラディスは安堵したように微笑んで、すっと手を差し出してくる。
「はい」
シィーファは、その大きくてきれいな手と、ラディスの顔を交互に見て、目を瞬かせた。
「え?」
ラディスは、何をしようと、あるいは、何をしてほしいと考えているのだろう。
その思いが伝わったのか、ラディスは付け加える。
「どうぞ」
シィーファは、もう一度、ラディスの手を見、顔を見た。
どうやらラディスは、シィーファが馬車を降りるために、手を貸してくれると言っているらしい。
通常なら、身分の高い方は、こういった従者の真似事のようなことはしないはずだ。
それなのに、どうしてか彼は、そういったことをやりたがるのだ。
だから、尋ねた。
「…これも、してみたかったこと、ですか?」
シィーファの問いに、ラディスは軽く目を見張ったあとで、微笑み、頷いた。
「そう。 だから、どうぞ」
そういうことなら、シィーファを身請けしてくれた【ご主人様】の要望に、従わぬわけにはいかないだろう。
掌を上にして差し出されたラディスの手に、シィーファはそっと、手を重ねる。
思ったよりも、掌の皮は厚くて、見た目よりもしっかりとした手だと思った。
シィーファは、ふわり、と地上へと降り立ったのだが、先程まで馬車に揺られていたためか、まだ足元がふわふわした感じがする。
そんなシィーファに気づいたわけでもないだろうに、馬車慣れしているらしいラディスは、くるりと身体を半回転させ、一度は離れたシィーファの手を、そっと握った。
しかも、ラディスの右腕は、シィーファの持ち物が入った平包を抱えてくれている。
くい、と強引でない力で、シィーファの手を引いたラディスはシィーファを促そうとしたのだろう。
だが、シィーファは、手を握られる意味がわからなくて、握られた手を見、ラディスの顔を見る。
丁度、ラディスも動かないシィーファを不審に思って振り返ったところだった。
「シィーファ?」
「あ、の?」
戸惑いを隠せないシィーファの表情に、だろう。
ラディスは、ふっと笑った。
「手を繋いで歩くのも、してみたかったこと」
微笑んだラディスにそう言われて、シィーファはまた、新しい気づきを得る。
馬車に揺られる間、ラディスはどうにもシィーファを、遊び相手のように扱うな、と思ってはいた。
この、【遊び相手】は特に含みなく、そのまま異性の友人という意味だ。
彼は、もしかすると、その【遊び相手】と、恋人ごっこをしたいのではないか、と。
どうせシィーファは、彼に買われた身だ。
それならば、彼の【一時的】な【退屈しのぎ】のこの【お遊び】に付き合ってもいいような気になった。
そして、【遊び相手】との【一時的】な【退屈しのぎ】の【お遊び】に彼が飽きた後は、彼のお邸で家人として仕えさせてもらえればいい。
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