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石に花咲く
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馬車、というものに乗るのは、人生で三度目だった。
一度目は、初めて客を取ると同時に、身請けをされたとき。
二度目は、里に戻ってきたとき。
そして、三度目が、今日だ。
以前に乗った馬車は、もう少し座面が硬かったような気がするのだが、今日の馬車は寝台を連想させるくらいには柔らかく、座り心地がいい。
だが、以前乗った馬車と違うのは、向き合う形で座席があるのではなく、片側に二人乗るようになっているところ、だろうか。
ついさっき会ったばかりの人間と、どうして隣り合わせで座らなければならないのだろう、とシィーファはまた憂鬱になっているところだった。
ついさっき会ったばかりの人間と、ナニをする仕事に就いておいて何が憂鬱なのだ、という批判は甘んじて受けよう。 だが、シィーファは元来、人見知りなのだ。
こういうときに、何を話していいのかわからない。
こう言ってはあれだが、何をするのか決まっていた方が、気が楽というものなのである。
苦し紛れに、小さな窓の向こうに見える、代わり映えのしない緑を睨むように見つめていると、ぴと、と頬に肌が触れた。
驚いて見ると、客人がシィーファの頬に、手の甲を当てたらしい。
一体何がしたいのだろう、と考えていると、客人は心配そうにシィーファの瞳を覗き込んだ。
「大丈夫? 乗り慣れないと、具合が悪くなることもあるらしい。 気分は?」
案じる光しか、その紫紺の瞳に見えなくて、シィーファは慌てて首を横に振った。
「いえ、今のところは」
強いて言うなら、隣り合わせに座っているせいで、触れ合う身体――そのぬくもりに居心地が悪くなっている。
だが、それを口に出せるわけもない。
客人は、シィーファの返答に安堵したらしく、目を細めて微笑んだ。
「よかった。 迷惑でなければ、話をしよう? 気が紛れた方が、気分が悪くならないと思うよ」
そのように、持ちかけられれば、疑問がシィーファの口をついて出る。
「どこに向かっていらっしゃるのですか?」
「内緒」
まともに取り合う気がないとしか思えない返答に、シィーファは言葉を失くす。
目眩がするような気がして、目を閉じた。
これで、どうやって話をしろと言うのだろう。
だから、初対面の人間は苦手なのだ。
手探りの状態で何を話せというのだろう。
このまま、居心地が悪い思いをするくらいなら、寝てしまった方がいいのでは…?
シィーファがそんな風に考え始めたときだった。 唐突に、問われた。
「名前を、訊いても?」
その言葉が意外で、シィーファは目を開き、自分の左側に座る客人を見た。
てっきり、ユエンからシィーファの名前を聞いているものだと思っていた。
だが、今の問いが出るということは、シィーファの名前は、話題には上らなかったのだろうか。
そう考えて、シィーファは自嘲の笑みを浮かべる。
兄のユエンはシィーファを可愛がってくれたが、族長のユエンにとってシィーファは一族の女のひとりでしかない。
つまりは、【あれ】【これ】【それ】で呼ぶことが可能な、【もの】となるのだ。
客人の中にも、名前を必要としない者は多いと聞く。
そう考えると、名前を聞いてくれるだけでも、【個】を認めてくれる証のように思えて、シィーファは素直に答えることができた。
「…シィーファ、と申します」
「シィーファ」
彼が、自分の名前を呼んだ。
そう感じたから、シィーファは返事をする。
「はい」
そこで、シィーファはハッとする。
呼ばれた、と思ったけれど、彼はただ単にシィーファの名前を繰り返しただけかもしれない。
変に思われただろうか。
ちらと視線を上げたシィーファは、目を見張る。
彼が、目を細めて微笑んでいたからだ。
彼が微笑んでいるということは、「呼ばれた」と認識し、シィーファが返事をしたのは間違いではなかったのだろうか。
「シィーファ」
もう一度、彼が自分の名を口にする。
今度は、ゆっくりと、味わうように発音された、と感じた。
「きれいな音だね」
微笑んだ客人は、そのようにシィーファの名前を褒めてくれる。
含みのない、笑顔だったからこそ、複雑な気分になったのだと思う。
褒められるような名前ではない、という、反発心が湧いたのかもしれない。
「石なのに、花を売る。 …そんな意味の名前らしいです」
自分で意図したよりも、静かな声が出た。
彼は、驚いたように軽く目を見張っている。
水面に、小さな小さな石が落ちて、波紋を描くような様子に似ているかもしれない。 そんなことを考えた。
シィーファの名は、産まれたのが女の子で、母が嘆いてつけた名だ。
母は、父に恋しただけであり、父の一族がどんな一族かなど知らなかったのである。
「こんなにきれいな音なのに? 信じがたいな。 どこの国の言葉?」
客人は、首を傾けてシィーファの目を覗き込むようにしながら、そんなことを訊いてくる。
信じがたい、と言ったのは、シィーファの名前がそのような意味であることに対してだろうか。
それとも、母親が、娘にそんな意味の名をつけたことに対して、だろうか。
だが、それが、シィーファにとっての真実なのである。
だから、「どこの国の言葉?」という問いにだけ、応じた。
「わかりません」
そこで、会話は一度途切れる。
流石に、とっつきにくいだとか、絡みづらいだとか、張り合いがないと思うだろう。
これで、シィーファとの会話を諦めるだろうとシィーファは思ったのだが、シィーファの予想は裏切られた。
「私のことは、ラディスとでも呼んで」
そんな風に、さらりと彼――改め、ラディスは言った。
どうやら、会話を終える気はないらしい。
微妙に気になる言い方をしたのが、いい証拠だ。
訊いてくれと言っているようなものではないか、と思いながらも、シィーファはラディスの策略――だとシィーファは思っている――に乗った。
「…本当のお名前ではないのですか?」
「名前の一部、かな。 愛称のようなもの。 自分の名前、好きではないから」
曖昧に微笑むラディスを見つめたシィーファは、舌で軽く唇を湿らせて、一呼吸置いた後で、言葉を舌に乗せた。
「なぜ、ですか?」
舌に乗せるのを躊躇わなかったとは言わない。
踏み込んだ問いだろうか、と思いながら問わずにおれなかった。
シィーファは、シィーファの名を好きではないと言ったわけではないが、それを読み取ったように、ラディスが自分の名前を好きではないと言ったからだろうか。
それだけで、理解り合えているような気分になるのだから、人間とは厄介な生き物だ。
ラディスの、整った唇が、ゆっくりと動く。
「誰かには意味のあるものでも、私には意味のないものだから」
寂しげで、哀しげで、それでも、その感情に染まりきってはいない、穏やかな表情だった。
本当に、ほのかで、うっすらとだが、微笑すら浮かべているように見える。
だから、気づいた。
きっと彼は、誰かには意味のあるものが、自分にとっては意味がないことを悲観しているわけではないのだ。
自分にとって意味のないものに、ほかの誰かが意味を持たせることを、皮肉だと思っているのかもしれない。
いずれにせよ、シィーファには、何を指して彼がそのように言っているのかまではわからない。
だから、ただ静かに、相槌を打つつもりで、言った。
「…謎かけのようですね」
その相槌をどのように受け取ったのか、目を丸くした後で、ラディスはふっと笑った。
吹き出す、まではいかない、思わず漏れたような笑みだった。
身体をわずかに折って楽しそうにしばらく肩を揺らしていたかと思ったら、ラディスは目や唇を笑みの形にしたままで、シィーファを見上げてきた。
「貴女には、この謎が解ける?」
一度目は、初めて客を取ると同時に、身請けをされたとき。
二度目は、里に戻ってきたとき。
そして、三度目が、今日だ。
以前に乗った馬車は、もう少し座面が硬かったような気がするのだが、今日の馬車は寝台を連想させるくらいには柔らかく、座り心地がいい。
だが、以前乗った馬車と違うのは、向き合う形で座席があるのではなく、片側に二人乗るようになっているところ、だろうか。
ついさっき会ったばかりの人間と、どうして隣り合わせで座らなければならないのだろう、とシィーファはまた憂鬱になっているところだった。
ついさっき会ったばかりの人間と、ナニをする仕事に就いておいて何が憂鬱なのだ、という批判は甘んじて受けよう。 だが、シィーファは元来、人見知りなのだ。
こういうときに、何を話していいのかわからない。
こう言ってはあれだが、何をするのか決まっていた方が、気が楽というものなのである。
苦し紛れに、小さな窓の向こうに見える、代わり映えのしない緑を睨むように見つめていると、ぴと、と頬に肌が触れた。
驚いて見ると、客人がシィーファの頬に、手の甲を当てたらしい。
一体何がしたいのだろう、と考えていると、客人は心配そうにシィーファの瞳を覗き込んだ。
「大丈夫? 乗り慣れないと、具合が悪くなることもあるらしい。 気分は?」
案じる光しか、その紫紺の瞳に見えなくて、シィーファは慌てて首を横に振った。
「いえ、今のところは」
強いて言うなら、隣り合わせに座っているせいで、触れ合う身体――そのぬくもりに居心地が悪くなっている。
だが、それを口に出せるわけもない。
客人は、シィーファの返答に安堵したらしく、目を細めて微笑んだ。
「よかった。 迷惑でなければ、話をしよう? 気が紛れた方が、気分が悪くならないと思うよ」
そのように、持ちかけられれば、疑問がシィーファの口をついて出る。
「どこに向かっていらっしゃるのですか?」
「内緒」
まともに取り合う気がないとしか思えない返答に、シィーファは言葉を失くす。
目眩がするような気がして、目を閉じた。
これで、どうやって話をしろと言うのだろう。
だから、初対面の人間は苦手なのだ。
手探りの状態で何を話せというのだろう。
このまま、居心地が悪い思いをするくらいなら、寝てしまった方がいいのでは…?
シィーファがそんな風に考え始めたときだった。 唐突に、問われた。
「名前を、訊いても?」
その言葉が意外で、シィーファは目を開き、自分の左側に座る客人を見た。
てっきり、ユエンからシィーファの名前を聞いているものだと思っていた。
だが、今の問いが出るということは、シィーファの名前は、話題には上らなかったのだろうか。
そう考えて、シィーファは自嘲の笑みを浮かべる。
兄のユエンはシィーファを可愛がってくれたが、族長のユエンにとってシィーファは一族の女のひとりでしかない。
つまりは、【あれ】【これ】【それ】で呼ぶことが可能な、【もの】となるのだ。
客人の中にも、名前を必要としない者は多いと聞く。
そう考えると、名前を聞いてくれるだけでも、【個】を認めてくれる証のように思えて、シィーファは素直に答えることができた。
「…シィーファ、と申します」
「シィーファ」
彼が、自分の名前を呼んだ。
そう感じたから、シィーファは返事をする。
「はい」
そこで、シィーファはハッとする。
呼ばれた、と思ったけれど、彼はただ単にシィーファの名前を繰り返しただけかもしれない。
変に思われただろうか。
ちらと視線を上げたシィーファは、目を見張る。
彼が、目を細めて微笑んでいたからだ。
彼が微笑んでいるということは、「呼ばれた」と認識し、シィーファが返事をしたのは間違いではなかったのだろうか。
「シィーファ」
もう一度、彼が自分の名を口にする。
今度は、ゆっくりと、味わうように発音された、と感じた。
「きれいな音だね」
微笑んだ客人は、そのようにシィーファの名前を褒めてくれる。
含みのない、笑顔だったからこそ、複雑な気分になったのだと思う。
褒められるような名前ではない、という、反発心が湧いたのかもしれない。
「石なのに、花を売る。 …そんな意味の名前らしいです」
自分で意図したよりも、静かな声が出た。
彼は、驚いたように軽く目を見張っている。
水面に、小さな小さな石が落ちて、波紋を描くような様子に似ているかもしれない。 そんなことを考えた。
シィーファの名は、産まれたのが女の子で、母が嘆いてつけた名だ。
母は、父に恋しただけであり、父の一族がどんな一族かなど知らなかったのである。
「こんなにきれいな音なのに? 信じがたいな。 どこの国の言葉?」
客人は、首を傾けてシィーファの目を覗き込むようにしながら、そんなことを訊いてくる。
信じがたい、と言ったのは、シィーファの名前がそのような意味であることに対してだろうか。
それとも、母親が、娘にそんな意味の名をつけたことに対して、だろうか。
だが、それが、シィーファにとっての真実なのである。
だから、「どこの国の言葉?」という問いにだけ、応じた。
「わかりません」
そこで、会話は一度途切れる。
流石に、とっつきにくいだとか、絡みづらいだとか、張り合いがないと思うだろう。
これで、シィーファとの会話を諦めるだろうとシィーファは思ったのだが、シィーファの予想は裏切られた。
「私のことは、ラディスとでも呼んで」
そんな風に、さらりと彼――改め、ラディスは言った。
どうやら、会話を終える気はないらしい。
微妙に気になる言い方をしたのが、いい証拠だ。
訊いてくれと言っているようなものではないか、と思いながらも、シィーファはラディスの策略――だとシィーファは思っている――に乗った。
「…本当のお名前ではないのですか?」
「名前の一部、かな。 愛称のようなもの。 自分の名前、好きではないから」
曖昧に微笑むラディスを見つめたシィーファは、舌で軽く唇を湿らせて、一呼吸置いた後で、言葉を舌に乗せた。
「なぜ、ですか?」
舌に乗せるのを躊躇わなかったとは言わない。
踏み込んだ問いだろうか、と思いながら問わずにおれなかった。
シィーファは、シィーファの名を好きではないと言ったわけではないが、それを読み取ったように、ラディスが自分の名前を好きではないと言ったからだろうか。
それだけで、理解り合えているような気分になるのだから、人間とは厄介な生き物だ。
ラディスの、整った唇が、ゆっくりと動く。
「誰かには意味のあるものでも、私には意味のないものだから」
寂しげで、哀しげで、それでも、その感情に染まりきってはいない、穏やかな表情だった。
本当に、ほのかで、うっすらとだが、微笑すら浮かべているように見える。
だから、気づいた。
きっと彼は、誰かには意味のあるものが、自分にとっては意味がないことを悲観しているわけではないのだ。
自分にとって意味のないものに、ほかの誰かが意味を持たせることを、皮肉だと思っているのかもしれない。
いずれにせよ、シィーファには、何を指して彼がそのように言っているのかまではわからない。
だから、ただ静かに、相槌を打つつもりで、言った。
「…謎かけのようですね」
その相槌をどのように受け取ったのか、目を丸くした後で、ラディスはふっと笑った。
吹き出す、まではいかない、思わず漏れたような笑みだった。
身体をわずかに折って楽しそうにしばらく肩を揺らしていたかと思ったら、ラディスは目や唇を笑みの形にしたままで、シィーファを見上げてきた。
「貴女には、この謎が解ける?」
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