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第一部
第二十七話「Stand by Me」
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◇
居るはずもない人が、そこに立っていた。
ひどく暗い影を背負って、今にも消え入りそうに佇んでいる。
そして気づく。あの朝、見たモノは幻覚なんかじゃなくて。
俺はあの時、彼女に出会っていたということに。
「……音無さん? なんで、ここに。っていうか、それ、まさか」
鉄骨に吊るされた太い首輪。足場にする為の四角い箱。……違うと思いたい。
だけどそこから想起できるものは一つしかない。でも、なんで。……なんで。
「……今日は別に、死ににきたわけじゃない」
冴え渡る月明りの下、低く透き通った声が響く。
――今日は? じゃあ、前は。
「高宮太志。お前と、話をしにきた」
顔をあげて、音無楓はそう言った。
◇
揺れるロープの下、転がっていた二つのパイプ椅子を持ち寄り、向かい合って座る。ぎこちない沈黙が続いた後、やがて音無さんが静かに口火を切った。
「高宮」
「は、はい」
「お前はなんで、音楽をやるんだ?」
急な質問に、戸惑ってしまう。
「なんでか、って言われると……なんでだろ。単純に、好きだからとか。楽しいからとか。そういうのだと思いますけど」
音無さんは「そうか」と小さく呟くと、それからまた黙り込む。
幾許かの沈黙が続き、今度は俺の方から質問を投げることにした。
「……なんで、音無さんは音楽をやっていたんですか」
やめた理由は、なんとなくわかる。やらない理由を、問い詰めるつもりはない。
だけど知りたかった。かつてこの人が、音楽の事をどう感じていたのか。
「……なんで、だろうな」
遠い過去を見るように、音無さんは目を細めて苦笑する。
「たぶん、お前と一緒だよ。ただそれが、楽しくて、……好きだったんだ」
自分を嘲るような、哀しい声で音無さんはそう呟く。
「……でも、今でも普通に音楽聞いたり、ギター弾いたりするんでしょう。だったら音楽の事、……まだ好きなんじゃないんですか?」
音無さんは、答えない。下唇を噛んで、拳をぎゅっと握りこむ。
「……だったら、なんだよ」
「え?」
「……好きだったら、なんなんだよ」
弱弱しい声は、今にも泣きそうなくらいに震えていた。
「……高宮」
「は、はい」
「お前は、――嫌にならないか。この世界のことが」
「……嫌に?」
また、言葉に詰まってしまう。
「嫌に……なったことなら、何度もありますよ。それこそ、ガキの頃から。ついこないだだって、何もかも嫌になって、もう少しで全部投げ出すところだったし」
「でも、投げ出さなかったんだろ」
「はい。止めてくれる奴も居たし、どうせ今更俺に出来ることなんか、一つしかなかったから。だから多分この先も、嫌になったり、落ち込む事とかあるんでしょうけど……好きですよ俺は。この世界のこと」
「そうか。……強いんだな、おまえは」
「え。いや、全然、そんなんじゃ」
「少なくとも、私よりは強いよ。それに優しい。私には、どっちも無理だった」
「……どういう、ことですか?」
深く息を吸い込むと、音無さんは絞り出すように言った。
「私は、憎い。この世界の事がずっと憎い。私が好きなものをみんなは嫌いで、私が嫌いなものを、みんなは好きで。――息苦しくて、腹が立つ」
両手を堅く重ねながら、音無さんは言葉を続ける。
「男に媚び売る女が嫌いだ。女を下に見る男が嫌いだ。街に流れる流行りの歌も、煩いだけのCM広告も。大勢で群れて粋がってる連中や、顔の見えない偉そうな連中も――みんなみんな、大嫌いだ。この世界は、私の嫌いなものばかりで溢れてる」
一言吐く度に、息が震える。重ねた両手の爪が肌に食い込む。
まるで自分を痛めつけるかのように、彼女は醜く口元を歪ませる。
「……でも。一番嫌いなのは、私自身なんだ」
そして最後に、音無さんは泣きそうな声でそう零した。
「人を平気で見下すくせに、見下されるのは大嫌いで。嫌われることの辛さを知ってるくせに、何かを嫌うことをやめられない。――気づいたんだよ。おかしいのは世界じゃない。私の方だ。私だけが、歪んでたんだ」
「……音無、さん」
「音楽を好きになった時。初めて自分の曲を作った時。多分私は何かをしたかった。だけど、何にもならなかった。――当たり前だ。嫌われて、孤立して、何もかもがズレていて。そんな奴の作るモノが、まともなわけがないもんな?」
違う。それは違う。そんなことは、決してない。
「音楽は、誰かの為にあるべきものなのに。私は自分の為だけに作ってしまってた。苦労して生み出して、何が起きたかといえば、結局自分に傷がついただけだったんだ。――そんなことがしたかったんじゃないのに。もっと別の何かを期待したはずなのに。作れば作るほど、自分に穴が空いていくみたいだった」
俺には想像もつかない。この人が一体、どんな絶望を味わったのか。
報われない努力の果てに、自信も、楽しさも、喜びも見失って。
何もなくなるまで自分を削り続ける――そんなのはもう、創作じゃない。
ただの――自傷行為じゃないのか。
「ランディみたいになりたかった。ジェイクでも、ザックでも、イングヴェイでも、誰でもいい。私は、ずっと。私以外の、誰かになりたかった。舞子や金子たちみたいに、私も、もっと、明るくて。誰かに好きになって貰えるような曲を作れるようになりたかった」
響の語っていた言葉が脳裏に蘇る。音無楓の人物像。
欠けていたピースが埋まり、そこに何が描かれていたのかを今、思い知る。
この人は。この人の、正体は――
「……でも、なれないんだ。何回練習しても。何回曲を書いても。結局私は――誰にも好かれない、私自身でしかないんだ」
小さな女の子が、泣いていた。
憧れたものさえも、呪うように。
「こんな奴の曲を、誰が聞くんだ? 一体、誰を救えるんだ。なあ、高宮。答えてみろよ。この世界に馴染めなくて、何もかもが辛くて。……そんなやつは、どうすればいい」
そんなことは決まっている。迷いなく正解を弾き出せる。
でも、間に合わない。溢れだす彼女の憎悪を、俺は止められない。
「……死ねよって、思わないか? うだうだ文句言うくらいなら死ねって、そう思うだろ? ……普通に生きてる奴は大勢いるのに。私は普通に生きられない。そんな奴、もう――殺すしか、ないだろ」
その時、俺の中の何かがぷつんと、切れる音がした。
座っていた椅子を倒す勢いで立ちあがる。全身の血が煮え滾り、目の前の人を殴り飛ばしてしまいたいほどの衝動に駆られる。
「――、」
吐きそうになった怒りの言葉を飲み込む。噛み締めた歯が軋む。そのまま砕いてしまいそうになる。この人が、大嫌いなはずのこの俺に全てを打ち明けようとした意味。それを考えただけで狂いそうになる。
そして、抑えられなかった。開いた両目から、涙が滲んで出てきてしまう。
怒り以上に、哀しかった。――そんな風に歪んでしまったこの人のことが。
憎くてたまらなかった。――だってそれは、いつかの自分に似ていたから。
目の前の箱。その上に揺れるロープを睨みつける。
箱の上に登り、俺はそれを引き寄せる。
「――? お前、何、やって」
俺が今、ここに居る意味がようやくわかった。
孤独。苦痛。自己嫌悪。心の弱さ。殺すべき全ての喉元に、食らいつく。
吠えるしかない負け犬の顎は、いつだってその為にある。
◆
正気を疑う光景が、私の目の前に広がっていた。
「ぐ、ぎ、――い!」
高宮の顔が、醜く歪んでいる。
苦しそうに、涙を流しながら。
「――、おま、え」
噛んでいる。麻で編まれたロープを噛み千切ろうとしている。
意味がわからない。そもそもそんなこと、できるわけないのに。
それでも、高宮はやめない。
ぼろぼろと、血走った両眼から涙を零しながら。
鬼のような形相で首輪に食らいつき続ける。
「い、ぎ、ぎ、い、あ、ああああああああああああ!」
そしてついに、引きちぎった。
細い繊維が宙に舞い、高宮は噛んだロープの破片を地面へと吐き捨てる。
「どうすれば、いいかって? そんなの、決まってるじゃないですか」
泣きながら、高宮は笑う。
「――自分が一番、好きなことをやればいい」
茫然と、私は涙を流した。
「あるでしょ、好きなことや、楽しい事。音無さんにも」
「私、は」
「俺はね、いっぱいありますよ。……まず、ロックを聴く事! これはもう最高! 24時間聞いてても飽きない! それから歌を歌う事! 大好きな歌がね、いっぱいあるんすよ! ほんと数えきれないくらい、出会ってきたし、――これから、も」
零れてくる涙を袖で拭い、高宮は思い切り鼻をすする。
「……そんで、一番最近楽しい事は、バンドをやること。五十嵐と、響と。皆で音合わせて、合わせてない時も、いっぱい音楽の話をして。もう、それだけで、生きて来て良かったって思えるんですよ。――音無さんだって、あるでしょう? こんな紐で、首をくくるなんてことより、何百倍も好きなこと、いっぱい。そりゃ嫌いなモノよりは、少ねえのかもしれねえけど。なんかあるでしょ、絶対」
ずい、と高宮は私の近くに詰め寄ってくる。
「音無さん。何するのが好きですか。何でもいい。ひとつ言ってみてください!」
「……え? ギ、」
「ぎ!?」
「……ギター。弾くの、好きだ。音楽聞くのも、……」
勢いに圧されて、言うつもりのなかったことを口走ってしまう。
高宮は嬉しそうに笑うと、持ってきた黒いギターケースに手を伸ばす。
「……ならそれを続ける為に生きればいい! 別に自分の為だけに音楽やるの、全然悪くなんかないですよ! そんでそれに満足できなくなったら、またバンドやったり、曲作ったりしてみたらいいじゃないですか! のんびり少しずつでもいい! やりましょうよ!」
「……無理だ」
「どうして!」
「……怖いんだ」
「……怖い?」
「……私は、他人が怖い。自分が信じられないんだ。お前みたいに誰かに傷つけられて平然としてられない。誰かを傷つけてしまわないか、いつも不安になる。――臆病なんだ。平気そうな顔だけうまくなっても、ずっとこの性根が変えられない」
もう、ぼろぼろだ。これがずっと目を背けていた自分の姿。
本当に小さな、――裸の、私。
「……? や、別にいいじゃないですか臆病で。むしろ最高ですよ!」
「……は?」
「いや、だってコンプレックスとか、そんなもんロック的に最強の武器じゃないですか? そういう弱いもんを抱えた奴がステージの上でぶちかますってのが最高に熱くて燃えるんでしょ! むしろ超才能に恵まれてるじゃないですか!」
開いた口が塞がらない。
前々からアホだとは思っていた。
だけど違う。コイツ――超弩級がつくほどの大アホなんだ。
「音無さん。……音無さんが音楽やめたのは、楽しくないからじゃない。辛いことが重なって、耐えられないからやめてしまった、そうでしょ?」
「…………、」
「そりゃ辛いですよ。ライブに客来ねえとか、俺も想像するだけで胃が痛いし。……でもそれが辛いってことはですよ? 本当は、振り向かせたかったんじゃないんですか。貴方の言う、誰かを。――くそったれな、この世界を」
胸を、貫かれるような言葉だった。
(私は、……)
孤独でいいと。嫌われ者でいいと。昔そんな事を本気で思った。
だけど、嘘だった。いくら取り繕っても、本当は、私は、誰かの事を求めている。誰かに好かれたいと思っている。息苦しくて居られないこの世界の事を、――好きになりたいと。子供の頃からずっと願っている。
「だから、音無さん。やめないでください。自分の音、鳴らしてください。そんな苗字の通りに、大人しくなんかならないでください。俺、聞きたいですよ! 音無さんの作った歌!」
高宮が無理やりギターを押し付けてくる。左手でネックを握る。
だけど、指が震えて動かなかった。
「……できないよ」
「なんで!」
「歌えないんだ、私は。自分の声が、……嫌いなんだ」
ぽろぽろと、涙がこぼれる。
そして、ようやく、思い出した。なんで私が、こうなったのかを。
歌が好きだった。歌うのが、大好きだった。でも、ある時、誰かにそれを笑われた。下手なんだって、その時に気づいた。それから他人が怖くなった。大きな声を出せなくなった。自分に自信がもてなくなった。
それが、すべての始まりだった。
「なら、俺が歌います」
「……え?」
「歌えないなら、俺が代わりに歌いますよ! 俺が音無さんの声になります!」
――何を、言ってるんだ、こいつ。
「やりたい音楽があるんですよね! だったらやっぱり、一緒にバンドやりませんか! 俺、音無さんが弾いてくれるなら何だって歌いますよ! あ、いや、音無さん俺の事嫌いなのかもしんねえけど、バンドって別に、仲良しごっこじゃないでしょ!? 大事なのは作りたい音楽にどう向き合うかだ! 確かに世の中ろくでもねえかもしんねえし何か色々気に食わねえけど――だからこそでしょ! 今俺らがやらないで、他に誰がやるっていうんだ!」
さっきから論点がずれまくってるし、勢いだけで的を得てない。
だけど、気圧されてしまう。心を動かされてしまう。
言葉以上に、こいつの気持ちに。
「……なんで、おまえは、そこまで……私に」
「なんで? そんなの、決まってるじゃないですか!」
呆れた様子で、高宮は笑う。
「ヒーローだからですよ! 音無さんが、俺にとっての!」
「……ヒー、ロー?」
「そうですよ。あれですよあれ、ギターヒーローってやつ! 俺音無さんのギター初めて聞いた時、ほんっっとにカッコいいって思って、もう超絶痺れたんですよ! ガキの頃憧れたヒーローみたいに、俺もいつか、あんな風になってみたいって!」
――私なんかに、お前は。本気で憧れたっていうのか。
「それに……俺は、どっか行きたいって思っても、結局どこにも行けなかった。走り出したらすぐ転んで、立ち上がるのも精一杯で。けど、音無さんは違う。ちゃんと前に進んでたじゃないですか。今はちょっと、立ち止まってるだけなんですよ」
行きたいところがあるのに、進めない。
進んでいたのに、立ち止まる。
『――オレは姉貴と高宮先輩のことは、鏡みたいなもんだなって思ってる』
俄かに目を見開く。
響の言っていたあの言葉の意味を、私はようやく理解した。
鏡に映るモノは、同じようで同じじゃない。
逆さまなのだ。
こいつは、私で。
私は、こいつだ。
諦めたこいつが私で、
諦めなかった私が、こいつなんだ。
「……っ、ほんとに、馬鹿かよ、おまえ」
ギターヒーロー。子供の頃から、私がずっと追い続けた背中。
どうせ私は、偽物なのに。ぜんぶ馬鹿なこいつの、勘違いなのに。
なんで、涙が止まらないんだろう。
なんでこんなに、今まで頑張ってきた日の事を思い出すんだろう。
父さんの顔を、思い出すんだろう。
「音無さん。怖いんだったら俺が盾になります。言いたい事があるんだったら俺が代わりに言ってやります。俺はヘボかもしれないけど、あなたよりは絶対打たれ強いんで! 盾にすんならもってこいですよ!」
「……っやめ、ろ」
「もちろんいざとなったら見捨ててくれたって構わねえし、他のバンドから声掛かるまでの踏み台にしてくれたっていい。俺のこと嫌いだったらそれも心とか痛まねえでしょ?」
「……やめ、ろよ……」
「だから弾いてください。何でもいいから。……お願いします」
「っ、……う、っ……」
手渡されたギターを、抱きしめる。
嗚咽が止まらない。何も言葉が出てこない。
もう、完全に私の負けだった。
絶対わかりあえないだろうと思ってた奴に、泣かされて。
ずたぼろの心を、拾われて。
救われたような気になっている、自分がいる。
「……歌えよ」
「え?」
涙を拭い、鼻をすすって、
今度こそ、いつもの調子ではっきり言う。
「私のギターが欲しいんだろ? だったらちゃんと歌え。私の、代わりに」
「……はい!」
親指でベースラインを刻みながらコードを鳴らす。
音楽を好きなら、誰でも知ってるような曲だ。
こいつだって、きっと当たり前に知っている。
ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。
拙い英語で、高宮は歌いだした。渋みも何もない、真っ直ぐすぎる歌声。だけどそれで十分だった。ひどく青臭い、不完全な私達に、そんなものは似合わない。
(――ああ)
空を見上げる。もう、白んでいた。
星の光はもう薄く、消えようとしている。
結局、死ねないんだな。私は。
どんなに無様でも。惨めでも。こんな風に、生きるしかないのか。
(――父さん)
最後のコードを鳴らす。
涙を拭って立ち上がり、高宮にギターを返した。
「音無さん。……俺とバンド、一緒にやってくれますか」
「……、」
つい、と余所見をする。
「いや何スかその顔! 今更嫌だとか聞きませんよ! 俺もう決めましたから! 無理やりにでも引っ張っていきますからね!」
ポケットに引っ込めようとした私の腕を掴みながら、高宮はぶんぶん振り回す。手を差し伸べられることはあったけれど、掴まれたのは、本当に久しぶりだった。
「あ、そういや音無さんに聞いて欲しい名曲があるんですけど、最後にちょっと聞いてくれませんか! 深夜高速ってんですけど、ってあれ、どこ行くんすか!」
「いいよ。疲れたから。もう帰る」
どうせお前は、あれをやるつもりなんだろう。曲名は知らないけど。
生きててよかった、とかいう恥ずかしいやつ。
あれならもう、別に聞きたくない。
そんな夜は、もう。
私は見つけられたから。
居るはずもない人が、そこに立っていた。
ひどく暗い影を背負って、今にも消え入りそうに佇んでいる。
そして気づく。あの朝、見たモノは幻覚なんかじゃなくて。
俺はあの時、彼女に出会っていたということに。
「……音無さん? なんで、ここに。っていうか、それ、まさか」
鉄骨に吊るされた太い首輪。足場にする為の四角い箱。……違うと思いたい。
だけどそこから想起できるものは一つしかない。でも、なんで。……なんで。
「……今日は別に、死ににきたわけじゃない」
冴え渡る月明りの下、低く透き通った声が響く。
――今日は? じゃあ、前は。
「高宮太志。お前と、話をしにきた」
顔をあげて、音無楓はそう言った。
◇
揺れるロープの下、転がっていた二つのパイプ椅子を持ち寄り、向かい合って座る。ぎこちない沈黙が続いた後、やがて音無さんが静かに口火を切った。
「高宮」
「は、はい」
「お前はなんで、音楽をやるんだ?」
急な質問に、戸惑ってしまう。
「なんでか、って言われると……なんでだろ。単純に、好きだからとか。楽しいからとか。そういうのだと思いますけど」
音無さんは「そうか」と小さく呟くと、それからまた黙り込む。
幾許かの沈黙が続き、今度は俺の方から質問を投げることにした。
「……なんで、音無さんは音楽をやっていたんですか」
やめた理由は、なんとなくわかる。やらない理由を、問い詰めるつもりはない。
だけど知りたかった。かつてこの人が、音楽の事をどう感じていたのか。
「……なんで、だろうな」
遠い過去を見るように、音無さんは目を細めて苦笑する。
「たぶん、お前と一緒だよ。ただそれが、楽しくて、……好きだったんだ」
自分を嘲るような、哀しい声で音無さんはそう呟く。
「……でも、今でも普通に音楽聞いたり、ギター弾いたりするんでしょう。だったら音楽の事、……まだ好きなんじゃないんですか?」
音無さんは、答えない。下唇を噛んで、拳をぎゅっと握りこむ。
「……だったら、なんだよ」
「え?」
「……好きだったら、なんなんだよ」
弱弱しい声は、今にも泣きそうなくらいに震えていた。
「……高宮」
「は、はい」
「お前は、――嫌にならないか。この世界のことが」
「……嫌に?」
また、言葉に詰まってしまう。
「嫌に……なったことなら、何度もありますよ。それこそ、ガキの頃から。ついこないだだって、何もかも嫌になって、もう少しで全部投げ出すところだったし」
「でも、投げ出さなかったんだろ」
「はい。止めてくれる奴も居たし、どうせ今更俺に出来ることなんか、一つしかなかったから。だから多分この先も、嫌になったり、落ち込む事とかあるんでしょうけど……好きですよ俺は。この世界のこと」
「そうか。……強いんだな、おまえは」
「え。いや、全然、そんなんじゃ」
「少なくとも、私よりは強いよ。それに優しい。私には、どっちも無理だった」
「……どういう、ことですか?」
深く息を吸い込むと、音無さんは絞り出すように言った。
「私は、憎い。この世界の事がずっと憎い。私が好きなものをみんなは嫌いで、私が嫌いなものを、みんなは好きで。――息苦しくて、腹が立つ」
両手を堅く重ねながら、音無さんは言葉を続ける。
「男に媚び売る女が嫌いだ。女を下に見る男が嫌いだ。街に流れる流行りの歌も、煩いだけのCM広告も。大勢で群れて粋がってる連中や、顔の見えない偉そうな連中も――みんなみんな、大嫌いだ。この世界は、私の嫌いなものばかりで溢れてる」
一言吐く度に、息が震える。重ねた両手の爪が肌に食い込む。
まるで自分を痛めつけるかのように、彼女は醜く口元を歪ませる。
「……でも。一番嫌いなのは、私自身なんだ」
そして最後に、音無さんは泣きそうな声でそう零した。
「人を平気で見下すくせに、見下されるのは大嫌いで。嫌われることの辛さを知ってるくせに、何かを嫌うことをやめられない。――気づいたんだよ。おかしいのは世界じゃない。私の方だ。私だけが、歪んでたんだ」
「……音無、さん」
「音楽を好きになった時。初めて自分の曲を作った時。多分私は何かをしたかった。だけど、何にもならなかった。――当たり前だ。嫌われて、孤立して、何もかもがズレていて。そんな奴の作るモノが、まともなわけがないもんな?」
違う。それは違う。そんなことは、決してない。
「音楽は、誰かの為にあるべきものなのに。私は自分の為だけに作ってしまってた。苦労して生み出して、何が起きたかといえば、結局自分に傷がついただけだったんだ。――そんなことがしたかったんじゃないのに。もっと別の何かを期待したはずなのに。作れば作るほど、自分に穴が空いていくみたいだった」
俺には想像もつかない。この人が一体、どんな絶望を味わったのか。
報われない努力の果てに、自信も、楽しさも、喜びも見失って。
何もなくなるまで自分を削り続ける――そんなのはもう、創作じゃない。
ただの――自傷行為じゃないのか。
「ランディみたいになりたかった。ジェイクでも、ザックでも、イングヴェイでも、誰でもいい。私は、ずっと。私以外の、誰かになりたかった。舞子や金子たちみたいに、私も、もっと、明るくて。誰かに好きになって貰えるような曲を作れるようになりたかった」
響の語っていた言葉が脳裏に蘇る。音無楓の人物像。
欠けていたピースが埋まり、そこに何が描かれていたのかを今、思い知る。
この人は。この人の、正体は――
「……でも、なれないんだ。何回練習しても。何回曲を書いても。結局私は――誰にも好かれない、私自身でしかないんだ」
小さな女の子が、泣いていた。
憧れたものさえも、呪うように。
「こんな奴の曲を、誰が聞くんだ? 一体、誰を救えるんだ。なあ、高宮。答えてみろよ。この世界に馴染めなくて、何もかもが辛くて。……そんなやつは、どうすればいい」
そんなことは決まっている。迷いなく正解を弾き出せる。
でも、間に合わない。溢れだす彼女の憎悪を、俺は止められない。
「……死ねよって、思わないか? うだうだ文句言うくらいなら死ねって、そう思うだろ? ……普通に生きてる奴は大勢いるのに。私は普通に生きられない。そんな奴、もう――殺すしか、ないだろ」
その時、俺の中の何かがぷつんと、切れる音がした。
座っていた椅子を倒す勢いで立ちあがる。全身の血が煮え滾り、目の前の人を殴り飛ばしてしまいたいほどの衝動に駆られる。
「――、」
吐きそうになった怒りの言葉を飲み込む。噛み締めた歯が軋む。そのまま砕いてしまいそうになる。この人が、大嫌いなはずのこの俺に全てを打ち明けようとした意味。それを考えただけで狂いそうになる。
そして、抑えられなかった。開いた両目から、涙が滲んで出てきてしまう。
怒り以上に、哀しかった。――そんな風に歪んでしまったこの人のことが。
憎くてたまらなかった。――だってそれは、いつかの自分に似ていたから。
目の前の箱。その上に揺れるロープを睨みつける。
箱の上に登り、俺はそれを引き寄せる。
「――? お前、何、やって」
俺が今、ここに居る意味がようやくわかった。
孤独。苦痛。自己嫌悪。心の弱さ。殺すべき全ての喉元に、食らいつく。
吠えるしかない負け犬の顎は、いつだってその為にある。
◆
正気を疑う光景が、私の目の前に広がっていた。
「ぐ、ぎ、――い!」
高宮の顔が、醜く歪んでいる。
苦しそうに、涙を流しながら。
「――、おま、え」
噛んでいる。麻で編まれたロープを噛み千切ろうとしている。
意味がわからない。そもそもそんなこと、できるわけないのに。
それでも、高宮はやめない。
ぼろぼろと、血走った両眼から涙を零しながら。
鬼のような形相で首輪に食らいつき続ける。
「い、ぎ、ぎ、い、あ、ああああああああああああ!」
そしてついに、引きちぎった。
細い繊維が宙に舞い、高宮は噛んだロープの破片を地面へと吐き捨てる。
「どうすれば、いいかって? そんなの、決まってるじゃないですか」
泣きながら、高宮は笑う。
「――自分が一番、好きなことをやればいい」
茫然と、私は涙を流した。
「あるでしょ、好きなことや、楽しい事。音無さんにも」
「私、は」
「俺はね、いっぱいありますよ。……まず、ロックを聴く事! これはもう最高! 24時間聞いてても飽きない! それから歌を歌う事! 大好きな歌がね、いっぱいあるんすよ! ほんと数えきれないくらい、出会ってきたし、――これから、も」
零れてくる涙を袖で拭い、高宮は思い切り鼻をすする。
「……そんで、一番最近楽しい事は、バンドをやること。五十嵐と、響と。皆で音合わせて、合わせてない時も、いっぱい音楽の話をして。もう、それだけで、生きて来て良かったって思えるんですよ。――音無さんだって、あるでしょう? こんな紐で、首をくくるなんてことより、何百倍も好きなこと、いっぱい。そりゃ嫌いなモノよりは、少ねえのかもしれねえけど。なんかあるでしょ、絶対」
ずい、と高宮は私の近くに詰め寄ってくる。
「音無さん。何するのが好きですか。何でもいい。ひとつ言ってみてください!」
「……え? ギ、」
「ぎ!?」
「……ギター。弾くの、好きだ。音楽聞くのも、……」
勢いに圧されて、言うつもりのなかったことを口走ってしまう。
高宮は嬉しそうに笑うと、持ってきた黒いギターケースに手を伸ばす。
「……ならそれを続ける為に生きればいい! 別に自分の為だけに音楽やるの、全然悪くなんかないですよ! そんでそれに満足できなくなったら、またバンドやったり、曲作ったりしてみたらいいじゃないですか! のんびり少しずつでもいい! やりましょうよ!」
「……無理だ」
「どうして!」
「……怖いんだ」
「……怖い?」
「……私は、他人が怖い。自分が信じられないんだ。お前みたいに誰かに傷つけられて平然としてられない。誰かを傷つけてしまわないか、いつも不安になる。――臆病なんだ。平気そうな顔だけうまくなっても、ずっとこの性根が変えられない」
もう、ぼろぼろだ。これがずっと目を背けていた自分の姿。
本当に小さな、――裸の、私。
「……? や、別にいいじゃないですか臆病で。むしろ最高ですよ!」
「……は?」
「いや、だってコンプレックスとか、そんなもんロック的に最強の武器じゃないですか? そういう弱いもんを抱えた奴がステージの上でぶちかますってのが最高に熱くて燃えるんでしょ! むしろ超才能に恵まれてるじゃないですか!」
開いた口が塞がらない。
前々からアホだとは思っていた。
だけど違う。コイツ――超弩級がつくほどの大アホなんだ。
「音無さん。……音無さんが音楽やめたのは、楽しくないからじゃない。辛いことが重なって、耐えられないからやめてしまった、そうでしょ?」
「…………、」
「そりゃ辛いですよ。ライブに客来ねえとか、俺も想像するだけで胃が痛いし。……でもそれが辛いってことはですよ? 本当は、振り向かせたかったんじゃないんですか。貴方の言う、誰かを。――くそったれな、この世界を」
胸を、貫かれるような言葉だった。
(私は、……)
孤独でいいと。嫌われ者でいいと。昔そんな事を本気で思った。
だけど、嘘だった。いくら取り繕っても、本当は、私は、誰かの事を求めている。誰かに好かれたいと思っている。息苦しくて居られないこの世界の事を、――好きになりたいと。子供の頃からずっと願っている。
「だから、音無さん。やめないでください。自分の音、鳴らしてください。そんな苗字の通りに、大人しくなんかならないでください。俺、聞きたいですよ! 音無さんの作った歌!」
高宮が無理やりギターを押し付けてくる。左手でネックを握る。
だけど、指が震えて動かなかった。
「……できないよ」
「なんで!」
「歌えないんだ、私は。自分の声が、……嫌いなんだ」
ぽろぽろと、涙がこぼれる。
そして、ようやく、思い出した。なんで私が、こうなったのかを。
歌が好きだった。歌うのが、大好きだった。でも、ある時、誰かにそれを笑われた。下手なんだって、その時に気づいた。それから他人が怖くなった。大きな声を出せなくなった。自分に自信がもてなくなった。
それが、すべての始まりだった。
「なら、俺が歌います」
「……え?」
「歌えないなら、俺が代わりに歌いますよ! 俺が音無さんの声になります!」
――何を、言ってるんだ、こいつ。
「やりたい音楽があるんですよね! だったらやっぱり、一緒にバンドやりませんか! 俺、音無さんが弾いてくれるなら何だって歌いますよ! あ、いや、音無さん俺の事嫌いなのかもしんねえけど、バンドって別に、仲良しごっこじゃないでしょ!? 大事なのは作りたい音楽にどう向き合うかだ! 確かに世の中ろくでもねえかもしんねえし何か色々気に食わねえけど――だからこそでしょ! 今俺らがやらないで、他に誰がやるっていうんだ!」
さっきから論点がずれまくってるし、勢いだけで的を得てない。
だけど、気圧されてしまう。心を動かされてしまう。
言葉以上に、こいつの気持ちに。
「……なんで、おまえは、そこまで……私に」
「なんで? そんなの、決まってるじゃないですか!」
呆れた様子で、高宮は笑う。
「ヒーローだからですよ! 音無さんが、俺にとっての!」
「……ヒー、ロー?」
「そうですよ。あれですよあれ、ギターヒーローってやつ! 俺音無さんのギター初めて聞いた時、ほんっっとにカッコいいって思って、もう超絶痺れたんですよ! ガキの頃憧れたヒーローみたいに、俺もいつか、あんな風になってみたいって!」
――私なんかに、お前は。本気で憧れたっていうのか。
「それに……俺は、どっか行きたいって思っても、結局どこにも行けなかった。走り出したらすぐ転んで、立ち上がるのも精一杯で。けど、音無さんは違う。ちゃんと前に進んでたじゃないですか。今はちょっと、立ち止まってるだけなんですよ」
行きたいところがあるのに、進めない。
進んでいたのに、立ち止まる。
『――オレは姉貴と高宮先輩のことは、鏡みたいなもんだなって思ってる』
俄かに目を見開く。
響の言っていたあの言葉の意味を、私はようやく理解した。
鏡に映るモノは、同じようで同じじゃない。
逆さまなのだ。
こいつは、私で。
私は、こいつだ。
諦めたこいつが私で、
諦めなかった私が、こいつなんだ。
「……っ、ほんとに、馬鹿かよ、おまえ」
ギターヒーロー。子供の頃から、私がずっと追い続けた背中。
どうせ私は、偽物なのに。ぜんぶ馬鹿なこいつの、勘違いなのに。
なんで、涙が止まらないんだろう。
なんでこんなに、今まで頑張ってきた日の事を思い出すんだろう。
父さんの顔を、思い出すんだろう。
「音無さん。怖いんだったら俺が盾になります。言いたい事があるんだったら俺が代わりに言ってやります。俺はヘボかもしれないけど、あなたよりは絶対打たれ強いんで! 盾にすんならもってこいですよ!」
「……っやめ、ろ」
「もちろんいざとなったら見捨ててくれたって構わねえし、他のバンドから声掛かるまでの踏み台にしてくれたっていい。俺のこと嫌いだったらそれも心とか痛まねえでしょ?」
「……やめ、ろよ……」
「だから弾いてください。何でもいいから。……お願いします」
「っ、……う、っ……」
手渡されたギターを、抱きしめる。
嗚咽が止まらない。何も言葉が出てこない。
もう、完全に私の負けだった。
絶対わかりあえないだろうと思ってた奴に、泣かされて。
ずたぼろの心を、拾われて。
救われたような気になっている、自分がいる。
「……歌えよ」
「え?」
涙を拭い、鼻をすすって、
今度こそ、いつもの調子ではっきり言う。
「私のギターが欲しいんだろ? だったらちゃんと歌え。私の、代わりに」
「……はい!」
親指でベースラインを刻みながらコードを鳴らす。
音楽を好きなら、誰でも知ってるような曲だ。
こいつだって、きっと当たり前に知っている。
ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。
拙い英語で、高宮は歌いだした。渋みも何もない、真っ直ぐすぎる歌声。だけどそれで十分だった。ひどく青臭い、不完全な私達に、そんなものは似合わない。
(――ああ)
空を見上げる。もう、白んでいた。
星の光はもう薄く、消えようとしている。
結局、死ねないんだな。私は。
どんなに無様でも。惨めでも。こんな風に、生きるしかないのか。
(――父さん)
最後のコードを鳴らす。
涙を拭って立ち上がり、高宮にギターを返した。
「音無さん。……俺とバンド、一緒にやってくれますか」
「……、」
つい、と余所見をする。
「いや何スかその顔! 今更嫌だとか聞きませんよ! 俺もう決めましたから! 無理やりにでも引っ張っていきますからね!」
ポケットに引っ込めようとした私の腕を掴みながら、高宮はぶんぶん振り回す。手を差し伸べられることはあったけれど、掴まれたのは、本当に久しぶりだった。
「あ、そういや音無さんに聞いて欲しい名曲があるんですけど、最後にちょっと聞いてくれませんか! 深夜高速ってんですけど、ってあれ、どこ行くんすか!」
「いいよ。疲れたから。もう帰る」
どうせお前は、あれをやるつもりなんだろう。曲名は知らないけど。
生きててよかった、とかいう恥ずかしいやつ。
あれならもう、別に聞きたくない。
そんな夜は、もう。
私は見つけられたから。
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