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76.決断
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シトロンは演奏家の間ではかなりの有名人だ。演奏の腕は勿論の事、あのサンドラと長く組み、時には宥めて歌わせ、時には店側に謝り、かなり苦労していたからだ。これだけ聞けばサンドラに惚れているのでは?と思っても不思議は無いがそれは間違い。彼は自分の演奏に絶対的な自信を持っていて、その演奏に最も合う歌い手がサンドラだった。だから歌ってもらおうと必死だった。
最高の演奏をするためなら他人に何を言われ様が歯牙にも掛けない、そしてどんな努力も惜しまない。シトロンはそんな男だ。だからこそ、再びここを訪れて自分を雇って欲しいなどと突拍子もない事が言えた。
シトロンがオーナー部屋を出た後、話し合いが行われた。
結果から言うと雇用決定。
理由としては、シトロンへの例の噂の影響が予想を上回る結果となったのがひとつ。そして、先程見せた魂の叫びのような熱い想いと決死の覚悟。それほどの覚悟があるのなら雇ってみようか、という事になったのだ。
当面はお祭りのステージでソニアの伴奏者としてデビュー(?)するのが目標。それまでは伴奏の練習をしつつ各部所で研修させる。その働きぶりを見て、ステージが無い時期をどうするか決める。
シトロンをオーナー部屋へ呼び出して決定事項を告げると、涙ぐみながら深く頭を下げて何度もお礼を繰り返した。
「シトロン、雇われたからといって安心するな。これからお前が関わるここでの事を誰かに漏らしてみろ…即刻口を封じてやる。それに俺は役に立たない奴を置いておくほど甘く無い。お前の自信と覚悟がどれだけ本気か…見極めさせてもらうぞ」
レドモンドが鋭い眼光でシトロンを見据える。前ならば青くなって震えていただろう。だが今は違う。しっかりと視線を合わせて力強く頷いた。
「はい!」
◇
数日後、閉店後の店内にはレドとルーカスを始めとしたいつもの幹部メンバーが集まっていた。大分体調が戻ったシトロンの腕前を確かめる為だ。
「ここからはソニアに任せる」
「はい」
レドの言葉に答え、シトロンの方を見る。
「シトロンさん、弾いてもらいたい曲があるんですが、わたしヴァイオリンの楽譜は書けないんです」
もしもヴァイオリンの伴奏者がいたら絶対歌ってみたい曲があったから言ってみた。すると彼は何でも無い顔をして答える。
「紙はありますか?なら、ヴァイオリンのメロディを口ずさんでもらえれば大丈夫です」
「え…」
口ずさんだ音を楽譜に?・・・もしかして。
「…分かりました。いきます」
彼はメロディを一度聴いただけで即楽譜にし、そのまますぐに弾き始めた。
「・・・・・」
わたしは言葉が出なかった。美しく完璧な旋律、音はとても伸びやかで・・・まるでヴァイオリンが歌っているように聴こえた。とても今初めて弾いたとは思えない。皆も一様に驚いている。
曲が終わり、優雅に一礼するシトロン。
やっぱり・・・彼は絶対音感の持ち主だ。それもかなり精度の良い。
「歌いますから…もう一度お願いします」
「はい」
わたしはシトロンの演奏を斜め後ろに聴きながら歌い出した。
曲が終わって息を吐くと、シトロンが感激したように話す。
「素晴らしい!!あなたのような歌声は初めて聴きました!…弾いていてこんなに楽しくて気持ち良かったことは今までありませんでした」
初見でこれだけの事が出来るなんて・・・賛辞にお礼を言いながら、わたしは彼の自信が本物だと確信し始めていた。
◇
シャハールでシトロンの雇用について話し合われていた頃、王都にある小さな酒屋でひとりの男が考え込んでいた。手にはヨレヨレになった1通の書簡が握られていて、何度も繰り返し読んだであろう様子が窺えた。その時酒屋の扉を叩く音。
「ピアニー、オレだ」
中に居た男、ピアニーが立って行って扉を開ける。訪ねてきたのはエドガーだ。
「エドガーさん…」
「遅くに悪いかな、とは思ったけど…そろそろボスへ返事を出さなきゃならないんだ。決心はついた?」
聞かれた彼は少しの間俯き、再び顔を上げる。
「…決めました。シャハールに行きます」
「もう王都へは戻れないかもしれないよ?それにシャハールに行っても上手くいくとは限らない。それでも行く?」
「行きます。…ここで諦めたら両親に顔向け出来ません」
強い決意を宿した瞳を見て、エドガーも頷く。
「分かった。ボスの部下に頼み込んで待機してもらってるんだ。荷物を纏めて、出来るだけ早く発ってくれ。オレもすぐに書簡を用意する。親父さん達の事、ピアニーの事、きちんと書いておくよ」
「…ありがとうございます。よろしくお願いします」
数日後・・・王都の門には、ボスの部下と共に旅立つピアニーを見守るエドガーの姿があった。
ボスからの書簡に書かれていたのは、新メニュー決定とシャハールへの定期的なショーユの配達希望の旨だ。職人ごと越してこいなんて一言も書かれていない。
だがエドガーは移住を勧めた。それは、今のままでは酒屋が遠からず潰れてしまうのが目に見えて明らかだったから。
酒屋は昔から米酒を中心に扱っていた。米酒はビールやワインに比べて消費が少ないが、酒屋自体があまり無かったため営業出来ていた。だが、数年前にお袋さんと親父さんが立て続けに亡くなってからは苦しくなり始め、とうとう店を閉める覚悟をしなければならない段階まできてしまっていた。
エドガーは、場所を変えてでも店が潰れるのを防ぎたかった。
「親父さん…これで良かったのかな…?」
寂しそうに小さく呟いた彼は・・・何だか泣き出しそうにも見えた。
最高の演奏をするためなら他人に何を言われ様が歯牙にも掛けない、そしてどんな努力も惜しまない。シトロンはそんな男だ。だからこそ、再びここを訪れて自分を雇って欲しいなどと突拍子もない事が言えた。
シトロンがオーナー部屋を出た後、話し合いが行われた。
結果から言うと雇用決定。
理由としては、シトロンへの例の噂の影響が予想を上回る結果となったのがひとつ。そして、先程見せた魂の叫びのような熱い想いと決死の覚悟。それほどの覚悟があるのなら雇ってみようか、という事になったのだ。
当面はお祭りのステージでソニアの伴奏者としてデビュー(?)するのが目標。それまでは伴奏の練習をしつつ各部所で研修させる。その働きぶりを見て、ステージが無い時期をどうするか決める。
シトロンをオーナー部屋へ呼び出して決定事項を告げると、涙ぐみながら深く頭を下げて何度もお礼を繰り返した。
「シトロン、雇われたからといって安心するな。これからお前が関わるここでの事を誰かに漏らしてみろ…即刻口を封じてやる。それに俺は役に立たない奴を置いておくほど甘く無い。お前の自信と覚悟がどれだけ本気か…見極めさせてもらうぞ」
レドモンドが鋭い眼光でシトロンを見据える。前ならば青くなって震えていただろう。だが今は違う。しっかりと視線を合わせて力強く頷いた。
「はい!」
◇
数日後、閉店後の店内にはレドとルーカスを始めとしたいつもの幹部メンバーが集まっていた。大分体調が戻ったシトロンの腕前を確かめる為だ。
「ここからはソニアに任せる」
「はい」
レドの言葉に答え、シトロンの方を見る。
「シトロンさん、弾いてもらいたい曲があるんですが、わたしヴァイオリンの楽譜は書けないんです」
もしもヴァイオリンの伴奏者がいたら絶対歌ってみたい曲があったから言ってみた。すると彼は何でも無い顔をして答える。
「紙はありますか?なら、ヴァイオリンのメロディを口ずさんでもらえれば大丈夫です」
「え…」
口ずさんだ音を楽譜に?・・・もしかして。
「…分かりました。いきます」
彼はメロディを一度聴いただけで即楽譜にし、そのまますぐに弾き始めた。
「・・・・・」
わたしは言葉が出なかった。美しく完璧な旋律、音はとても伸びやかで・・・まるでヴァイオリンが歌っているように聴こえた。とても今初めて弾いたとは思えない。皆も一様に驚いている。
曲が終わり、優雅に一礼するシトロン。
やっぱり・・・彼は絶対音感の持ち主だ。それもかなり精度の良い。
「歌いますから…もう一度お願いします」
「はい」
わたしはシトロンの演奏を斜め後ろに聴きながら歌い出した。
曲が終わって息を吐くと、シトロンが感激したように話す。
「素晴らしい!!あなたのような歌声は初めて聴きました!…弾いていてこんなに楽しくて気持ち良かったことは今までありませんでした」
初見でこれだけの事が出来るなんて・・・賛辞にお礼を言いながら、わたしは彼の自信が本物だと確信し始めていた。
◇
シャハールでシトロンの雇用について話し合われていた頃、王都にある小さな酒屋でひとりの男が考え込んでいた。手にはヨレヨレになった1通の書簡が握られていて、何度も繰り返し読んだであろう様子が窺えた。その時酒屋の扉を叩く音。
「ピアニー、オレだ」
中に居た男、ピアニーが立って行って扉を開ける。訪ねてきたのはエドガーだ。
「エドガーさん…」
「遅くに悪いかな、とは思ったけど…そろそろボスへ返事を出さなきゃならないんだ。決心はついた?」
聞かれた彼は少しの間俯き、再び顔を上げる。
「…決めました。シャハールに行きます」
「もう王都へは戻れないかもしれないよ?それにシャハールに行っても上手くいくとは限らない。それでも行く?」
「行きます。…ここで諦めたら両親に顔向け出来ません」
強い決意を宿した瞳を見て、エドガーも頷く。
「分かった。ボスの部下に頼み込んで待機してもらってるんだ。荷物を纏めて、出来るだけ早く発ってくれ。オレもすぐに書簡を用意する。親父さん達の事、ピアニーの事、きちんと書いておくよ」
「…ありがとうございます。よろしくお願いします」
数日後・・・王都の門には、ボスの部下と共に旅立つピアニーを見守るエドガーの姿があった。
ボスからの書簡に書かれていたのは、新メニュー決定とシャハールへの定期的なショーユの配達希望の旨だ。職人ごと越してこいなんて一言も書かれていない。
だがエドガーは移住を勧めた。それは、今のままでは酒屋が遠からず潰れてしまうのが目に見えて明らかだったから。
酒屋は昔から米酒を中心に扱っていた。米酒はビールやワインに比べて消費が少ないが、酒屋自体があまり無かったため営業出来ていた。だが、数年前にお袋さんと親父さんが立て続けに亡くなってからは苦しくなり始め、とうとう店を閉める覚悟をしなければならない段階まできてしまっていた。
エドガーは、場所を変えてでも店が潰れるのを防ぎたかった。
「親父さん…これで良かったのかな…?」
寂しそうに小さく呟いた彼は・・・何だか泣き出しそうにも見えた。
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