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ノ16 尊い命
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彼女の眼にかつて見たことのない物体が映り込む!
黒く濃い霧のような物体は、一太郎と吟の乗った船の後方付近、海面から3mほど浮かび上がり、ウヨウヨと不規則な動きを繰り返していた。
そのおぞましい姿にお雛はゾッとして青ざめたものだったが、なんとか二人に物体の存在を知らせようと指差しの合図を繰り返す。
一太郎と吟がほぼ同時にお雛の合図に気付き後ろを振り返った。
小舟と黒い霧状の物体との距離はおよそ10m。お雛よりずっと間近で物体を目撃した二人の背筋が凍る。
吟に至っては此処まで泣かずに我慢していた心が、えも言われぬ恐怖に覆い尽くされタガが外れたように泣きじゃくった。
可愛い我が子が恐怖に怯える姿を目の当たりにした一太郎は、己の感じた恐怖心を子を守るという強い意志で吹き飛ばし、ありったけの声で「吟!もうすぐ!もういっときの我慢だ!目を閉じて伏せていろ!」と励ます!
泣きじゃくっていた吟は信頼する父親の声を聞くや直ぐに泣き止み、言われた通り目を閉じ伏せて身を守る形を取った。
そんな我が子の様子を見た一太郎はひとまず安心し、血で滲んだ擦り切れた手で小舟の櫓(ろ)を握りなおす。
とはいえ、厳しい漁師の仕事で鍛え上げられた彼の強靭な腕と手は、動かしていることが不思議なほどに疲労しボロボロの状態であった。
岸辺への距離はもう僅か、しかもこの嵐の中で愛する妻が心配して駆けつけ、自分らの帰りを待ち望んでいる...
愛娘と共に釣りをして楽しく過ごし、釣った魚を持ち帰って和やかに妻の料理を食す。ささやかな、ただそれだけの幸せな時間を過ごす一日になる筈であった...
なぜ、なぜ神は慎ましく暮らす我が家族にこのような試練を与えたもうたのか?一太郎の頭にそのような想いが一瞬よぎる。
だが、これが神の仕業かどうかなど今は関係ない。
彼は漁師にしては殊の外穏やかな性格の持ち主であり、今まで叫んだことなど皆無と云っても良いほど理性の強い人間が喉が壊れんばかりに叫んだ!
「絶対に生きて帰ってやる!!!」と...
しかし、必死な父と子の「生きたい」という願望は無惨にも砕かれてしまうこととなる...自分達をこよなく愛してくれる妻であり、母でもあるお雛の目の前で...
片や岸辺の砂浜に立つお雛は、二人を助けに行きたくてもどうすることもできない状況に、涙ぐみながら手を合わせ、「無事に帰って来て」とひたすら祈るばかり...
無情で、無慈悲な、かくも世は恐るべしかな...背後に忍び寄った奇怪な黒い霧は、小舟に乗った二人の尊い命を、一瞬にして最も容易く奪い去ったのであった...
黒く濃い霧のような物体は、一太郎と吟の乗った船の後方付近、海面から3mほど浮かび上がり、ウヨウヨと不規則な動きを繰り返していた。
そのおぞましい姿にお雛はゾッとして青ざめたものだったが、なんとか二人に物体の存在を知らせようと指差しの合図を繰り返す。
一太郎と吟がほぼ同時にお雛の合図に気付き後ろを振り返った。
小舟と黒い霧状の物体との距離はおよそ10m。お雛よりずっと間近で物体を目撃した二人の背筋が凍る。
吟に至っては此処まで泣かずに我慢していた心が、えも言われぬ恐怖に覆い尽くされタガが外れたように泣きじゃくった。
可愛い我が子が恐怖に怯える姿を目の当たりにした一太郎は、己の感じた恐怖心を子を守るという強い意志で吹き飛ばし、ありったけの声で「吟!もうすぐ!もういっときの我慢だ!目を閉じて伏せていろ!」と励ます!
泣きじゃくっていた吟は信頼する父親の声を聞くや直ぐに泣き止み、言われた通り目を閉じ伏せて身を守る形を取った。
そんな我が子の様子を見た一太郎はひとまず安心し、血で滲んだ擦り切れた手で小舟の櫓(ろ)を握りなおす。
とはいえ、厳しい漁師の仕事で鍛え上げられた彼の強靭な腕と手は、動かしていることが不思議なほどに疲労しボロボロの状態であった。
岸辺への距離はもう僅か、しかもこの嵐の中で愛する妻が心配して駆けつけ、自分らの帰りを待ち望んでいる...
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なぜ、なぜ神は慎ましく暮らす我が家族にこのような試練を与えたもうたのか?一太郎の頭にそのような想いが一瞬よぎる。
だが、これが神の仕業かどうかなど今は関係ない。
彼は漁師にしては殊の外穏やかな性格の持ち主であり、今まで叫んだことなど皆無と云っても良いほど理性の強い人間が喉が壊れんばかりに叫んだ!
「絶対に生きて帰ってやる!!!」と...
しかし、必死な父と子の「生きたい」という願望は無惨にも砕かれてしまうこととなる...自分達をこよなく愛してくれる妻であり、母でもあるお雛の目の前で...
片や岸辺の砂浜に立つお雛は、二人を助けに行きたくてもどうすることもできない状況に、涙ぐみながら手を合わせ、「無事に帰って来て」とひたすら祈るばかり...
無情で、無慈悲な、かくも世は恐るべしかな...背後に忍び寄った奇怪な黒い霧は、小舟に乗った二人の尊い命を、一瞬にして最も容易く奪い去ったのであった...
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