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第一章 輪廻のアルケミスト
第11話 初めての外出
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赤ん坊の身体というものは不思議だ。昨日まで出来なかったことが突然出来るようになる。
「まあ、リーフ!」
ナタルの悲鳴のような声で目覚めると、目の前に文字盤があることに気がついた。
「……?」
重い瞼を瞬かせ、手指を伸ばす。文字盤を引き寄せながら視界の変化に気づいた僕は、やっと母の発した悲鳴の意味に気がついた。
――これが、寝返りか……。
仰向けでしか眠ることができなかったのだが、今朝はうつ伏せになっている。眠っている間か、あるいは夜中に寝ぼけて寝返りを打ったのだろう。元々の僕はうつ伏せで寝るスタイルだったこともあり、無意識のうちに寝返りをマスターしたのだろうと結論づけた。
寝返りが出来るということは、身体の制御が上手くなっている可能性も高そうだ。
「あーう」
抱き上げようとするナタルを制して、首を持ち上げてみる。ぐぐっと力が入る感覚があり、重いながらも首が持ち上がった。
「あー、あーっ」
うつ伏せで首を動かすと、視野の範囲がかなり広がった。仰向けの世界とは比べものにならない情報量に、思わず歓喜の声を上げる。
「すごいわ、リーフ。この調子だと、ハイハイももうすぐかしら」
いつもならすぐに飛んでくる父がいないところを見ると、もう仕事に出かけたらしい。母は興奮したような口調で僕の背や足を撫でたりしながら、しきりに感嘆の声を漏らしている。
――自分の身体を動かしただけで褒められることなど、この先なさそうだな。
ことあるごとに僕の成長や変化を喜ぶ両親だが、いずれはそれも当たり前のことになるだろう。そう思うと少し寂しいような気がして、ベッドに身体を預けた。
持ち上げていた頭が重いが、こうした疲労めいた感覚さえ久しぶりだ。ベッドに転がったついでに意識して足を持ち上げ、身体を捻ると、世界が反転して見慣れた天井に見下ろされた。
「寝返り返りも出来るのね。じゃあ、そろそろお医者様にも見ていただかなくちゃ」
母が手を伸ばして僕を抱き上げる。石鹸の柔らかな香りが鼻孔を刺激し、いつも感じていたミルクのような甘い匂いが少し薄くなったように感じられた。
僕を抱いた母はそのままリビングを移動し、壁の傍へと移動する。壁には見たこともない機械が取り付けられており、母は喇叭型のものを手に取ると、肩と首で挟むようにして耳に押し当てた。
「ちょっとお話するからね」
機械に取り付けられたボタンを幾つか押すと、緑の光が点灯する。聞き慣れない長音が二度鳴った後、母の耳に押し当てられた喇叭のようなものから人の声が聞こえた。
「ナタルです。出産の際にはお世話になりました。……はい。順調です。首も腰もすわったようですので、診察を――。はい、ではお伺い致しますね」
あらかじめ取り決められていたかのような、短い会話だった。
その後、母は僕にいつものようにミルクを飲ませると、籐の籠にタイヤと日除けの布が取り付けられた乳母車に乗せ、家の扉を開いた。
家の外には、煉瓦造りの家々が立ち並ぶ街が広がっていた。
初めての外は、風も穏やかで気温もあたたかい。恐らく季節は冬に差しかかったところだと思っていたが、それを感じさせない長閑な陽気だった。
初めての急な外出には、そうした気候の事情もあるのかもしれないと考えながら、乳母車に揺られる。
「ここがあなたが生まれた街、トーチ・タウンよ」
ナタルが街の話をしながら歩いて行く声が、いつにも増して心地良かった。街といっても、乳母車から見える景色は、青い空と家々の屋根が見えるぐらいだが、流れてくる風が心地良い。
穏やかに吹く風は涼しく、湿気をはらんでいる。
恐らく水辺が近いのだろう。頬を撫でていく涼やかな風を感じながら、視線を巡らせると、白い翼の水鳥が鳴きながら空を渡るのが見えた。
その景色を仰ぎ見ながら、僕は母の押す乳母車から伝わる振動に身を任せた。
住宅街と思しき通りを抜けると、少し開けた場所に出る。鐘の音や、祈りの声が聞こえるところを見ると、聖堂かなにかがあるのだろうと思われた。
広場の周りには青々とした葉を茂らせた樹が植えられており、母の行く先にも同じ樹の並木道が続いている。
葉陰が涼しいところを見るに、大きな葉が幾つも重なっているのだろう。
手のひらを翳してみると、先端の尖った円い葉の影が映るのがわかる。さらさらと流れるような音を立てて風に揺れているので、あまり厚みはなさそうだ。
「龍樹の並木道よ。ここは、黒竜教の聖堂――竜堂があるの。とても神聖な場所なのよ」
龍樹を観察している僕に気づいたのか、母が説明してくれる。
黒竜教という宗教にも、龍樹という樹の名にも覚えがあった。僕の『リーフ』という名の由来だ。
「この龍樹は、薬やポーションの材料にもなるのよ。私たちにはあなたがいるから、いつもたくさんの癒やしをもらっているけどね」
冗談なのか本気なのかわからなかったが、母が嬉しそうに笑っているので彼女に合わせて笑うことにした。龍樹の青々とした葉は、確かにルドラの瞳の色を彷彿とさせる。まだ見たことはないが、僕の瞳に似ているらしいので、僕もこんな瞳をしているのだろう。
「春になると、紅色の花が咲くの。とても綺麗だからあなたも気に入ると思うわ。それとも、その頃に売りに出される若葉を使った龍樹餅の方が好きかしらね?」
乳母車を押しながら、謡うようにナタルが教えてくれる。その間に乳母車は人通りの多い場所にさしかかり、辺りがにわかに賑やかになった。
周囲に何があるかは日除けのせいであまり見えないが、人々の声から察するに市場が開かれているようだ。露店に商人が集まっているのだろうと想像しながら、母の話に合わせて赤ん坊らしい声を上げて相槌を打った。
乳母車は人混みを避け、龍樹の並木道を通っていく。
木陰を涼しい風が抜けると、水の流れる音が聞こえたような気がした。
乳母車から伝わる振動が変わり、道が変化したことが伝わってくる。母が進行方向を左に変えると、波の音が微かに響いてくるのがわかった。
到着したのは、軍港区画と住宅街の境界にあるという病院だった。
待合室の窓からは、青々と広がる湖が見える。かなり広い湖のようだ。向こう側に、少し霞んでいるが陸のようなものが見えた。
「あっちの商業区にも、そのうち連れていってあげるわね」
僕を支えて立たせるようにしながら、母が優しい声で話しかけてくる。湖の向こうに見えるのは、どうやら商業区と呼ばれる区画らしい。
その商業区に向かう大きな船が湖を横切っていくのが見える。その甲板の上に、見たこともない四角い箱のようなものが積まれているのが気にかかった。
今の視力ではよく見えないのだが、大人が二人ほど入りそうなサイズ感だ。船舶用の輸送コンテナにしては小さく、形もやや歪なようだ。
「お船が車を運んでるわね」
「うーあ?」
危うく『くるま』とオウム返しに聞き返すところだったが、乳幼児特有の滑舌の悪さに救われた。
「そう、車よ。蒸気車両っていって、この街で物や人を運ぶのに使われているの」
僕のあの発音でよくわかるな、と感心しながら母の説明に耳を傾ける。
人や物を運び、かつ船舶で運搬されているところを見ると、陸上を動く乗り物なのだろうな。帰りに実物が見られると良いのだが。
「危ないから、車が走る道路に出る時は、ママと手を繋いでね」
「あーぅ」
歩けるようになってからの話だと思うが、一応相槌を打っておく。
「これから少しずつ、街も見て回りましょうね」
僕の返事に母は微笑み、膝の上に僕を座らせて湖の向こうを眺めた。
母によるとこのトーチ・タウンは湖を挟んで大きく東西に分かれており、僕の暮らしている家は東南側の東貴族街の軍港区画側らしい。父が軍人であることを考えると、わかりやすい立地だった。
自宅から北上すると、黒竜教の聖堂があり、別の住宅街が広がっているということになるようだ。この病院は、街の東側の住人――特に妊婦や乳幼児を専門とした病院らしい。待合室には腹の膨らんだ妊婦や、僕のような乳幼児を連れた母親の姿ばかりだった。
「リーフ・ナーガ・リュジュナさん、どうぞ」
「あなたの番よ、リーフ」
湖を見ながら自分がこれから過ごすであろう街に思いを馳せていたが、診察室からの呼び声で我に返った。
診察ということは、身体の状態などを診るということなのだろう。ここは、赤ん坊らしく振る舞わなければ……。
「まあ、リーフ!」
ナタルの悲鳴のような声で目覚めると、目の前に文字盤があることに気がついた。
「……?」
重い瞼を瞬かせ、手指を伸ばす。文字盤を引き寄せながら視界の変化に気づいた僕は、やっと母の発した悲鳴の意味に気がついた。
――これが、寝返りか……。
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寝返りが出来るということは、身体の制御が上手くなっている可能性も高そうだ。
「あーう」
抱き上げようとするナタルを制して、首を持ち上げてみる。ぐぐっと力が入る感覚があり、重いながらも首が持ち上がった。
「あー、あーっ」
うつ伏せで首を動かすと、視野の範囲がかなり広がった。仰向けの世界とは比べものにならない情報量に、思わず歓喜の声を上げる。
「すごいわ、リーフ。この調子だと、ハイハイももうすぐかしら」
いつもならすぐに飛んでくる父がいないところを見ると、もう仕事に出かけたらしい。母は興奮したような口調で僕の背や足を撫でたりしながら、しきりに感嘆の声を漏らしている。
――自分の身体を動かしただけで褒められることなど、この先なさそうだな。
ことあるごとに僕の成長や変化を喜ぶ両親だが、いずれはそれも当たり前のことになるだろう。そう思うと少し寂しいような気がして、ベッドに身体を預けた。
持ち上げていた頭が重いが、こうした疲労めいた感覚さえ久しぶりだ。ベッドに転がったついでに意識して足を持ち上げ、身体を捻ると、世界が反転して見慣れた天井に見下ろされた。
「寝返り返りも出来るのね。じゃあ、そろそろお医者様にも見ていただかなくちゃ」
母が手を伸ばして僕を抱き上げる。石鹸の柔らかな香りが鼻孔を刺激し、いつも感じていたミルクのような甘い匂いが少し薄くなったように感じられた。
僕を抱いた母はそのままリビングを移動し、壁の傍へと移動する。壁には見たこともない機械が取り付けられており、母は喇叭型のものを手に取ると、肩と首で挟むようにして耳に押し当てた。
「ちょっとお話するからね」
機械に取り付けられたボタンを幾つか押すと、緑の光が点灯する。聞き慣れない長音が二度鳴った後、母の耳に押し当てられた喇叭のようなものから人の声が聞こえた。
「ナタルです。出産の際にはお世話になりました。……はい。順調です。首も腰もすわったようですので、診察を――。はい、ではお伺い致しますね」
あらかじめ取り決められていたかのような、短い会話だった。
その後、母は僕にいつものようにミルクを飲ませると、籐の籠にタイヤと日除けの布が取り付けられた乳母車に乗せ、家の扉を開いた。
家の外には、煉瓦造りの家々が立ち並ぶ街が広がっていた。
初めての外は、風も穏やかで気温もあたたかい。恐らく季節は冬に差しかかったところだと思っていたが、それを感じさせない長閑な陽気だった。
初めての急な外出には、そうした気候の事情もあるのかもしれないと考えながら、乳母車に揺られる。
「ここがあなたが生まれた街、トーチ・タウンよ」
ナタルが街の話をしながら歩いて行く声が、いつにも増して心地良かった。街といっても、乳母車から見える景色は、青い空と家々の屋根が見えるぐらいだが、流れてくる風が心地良い。
穏やかに吹く風は涼しく、湿気をはらんでいる。
恐らく水辺が近いのだろう。頬を撫でていく涼やかな風を感じながら、視線を巡らせると、白い翼の水鳥が鳴きながら空を渡るのが見えた。
その景色を仰ぎ見ながら、僕は母の押す乳母車から伝わる振動に身を任せた。
住宅街と思しき通りを抜けると、少し開けた場所に出る。鐘の音や、祈りの声が聞こえるところを見ると、聖堂かなにかがあるのだろうと思われた。
広場の周りには青々とした葉を茂らせた樹が植えられており、母の行く先にも同じ樹の並木道が続いている。
葉陰が涼しいところを見るに、大きな葉が幾つも重なっているのだろう。
手のひらを翳してみると、先端の尖った円い葉の影が映るのがわかる。さらさらと流れるような音を立てて風に揺れているので、あまり厚みはなさそうだ。
「龍樹の並木道よ。ここは、黒竜教の聖堂――竜堂があるの。とても神聖な場所なのよ」
龍樹を観察している僕に気づいたのか、母が説明してくれる。
黒竜教という宗教にも、龍樹という樹の名にも覚えがあった。僕の『リーフ』という名の由来だ。
「この龍樹は、薬やポーションの材料にもなるのよ。私たちにはあなたがいるから、いつもたくさんの癒やしをもらっているけどね」
冗談なのか本気なのかわからなかったが、母が嬉しそうに笑っているので彼女に合わせて笑うことにした。龍樹の青々とした葉は、確かにルドラの瞳の色を彷彿とさせる。まだ見たことはないが、僕の瞳に似ているらしいので、僕もこんな瞳をしているのだろう。
「春になると、紅色の花が咲くの。とても綺麗だからあなたも気に入ると思うわ。それとも、その頃に売りに出される若葉を使った龍樹餅の方が好きかしらね?」
乳母車を押しながら、謡うようにナタルが教えてくれる。その間に乳母車は人通りの多い場所にさしかかり、辺りがにわかに賑やかになった。
周囲に何があるかは日除けのせいであまり見えないが、人々の声から察するに市場が開かれているようだ。露店に商人が集まっているのだろうと想像しながら、母の話に合わせて赤ん坊らしい声を上げて相槌を打った。
乳母車は人混みを避け、龍樹の並木道を通っていく。
木陰を涼しい風が抜けると、水の流れる音が聞こえたような気がした。
乳母車から伝わる振動が変わり、道が変化したことが伝わってくる。母が進行方向を左に変えると、波の音が微かに響いてくるのがわかった。
到着したのは、軍港区画と住宅街の境界にあるという病院だった。
待合室の窓からは、青々と広がる湖が見える。かなり広い湖のようだ。向こう側に、少し霞んでいるが陸のようなものが見えた。
「あっちの商業区にも、そのうち連れていってあげるわね」
僕を支えて立たせるようにしながら、母が優しい声で話しかけてくる。湖の向こうに見えるのは、どうやら商業区と呼ばれる区画らしい。
その商業区に向かう大きな船が湖を横切っていくのが見える。その甲板の上に、見たこともない四角い箱のようなものが積まれているのが気にかかった。
今の視力ではよく見えないのだが、大人が二人ほど入りそうなサイズ感だ。船舶用の輸送コンテナにしては小さく、形もやや歪なようだ。
「お船が車を運んでるわね」
「うーあ?」
危うく『くるま』とオウム返しに聞き返すところだったが、乳幼児特有の滑舌の悪さに救われた。
「そう、車よ。蒸気車両っていって、この街で物や人を運ぶのに使われているの」
僕のあの発音でよくわかるな、と感心しながら母の説明に耳を傾ける。
人や物を運び、かつ船舶で運搬されているところを見ると、陸上を動く乗り物なのだろうな。帰りに実物が見られると良いのだが。
「危ないから、車が走る道路に出る時は、ママと手を繋いでね」
「あーぅ」
歩けるようになってからの話だと思うが、一応相槌を打っておく。
「これから少しずつ、街も見て回りましょうね」
僕の返事に母は微笑み、膝の上に僕を座らせて湖の向こうを眺めた。
母によるとこのトーチ・タウンは湖を挟んで大きく東西に分かれており、僕の暮らしている家は東南側の東貴族街の軍港区画側らしい。父が軍人であることを考えると、わかりやすい立地だった。
自宅から北上すると、黒竜教の聖堂があり、別の住宅街が広がっているということになるようだ。この病院は、街の東側の住人――特に妊婦や乳幼児を専門とした病院らしい。待合室には腹の膨らんだ妊婦や、僕のような乳幼児を連れた母親の姿ばかりだった。
「リーフ・ナーガ・リュジュナさん、どうぞ」
「あなたの番よ、リーフ」
湖を見ながら自分がこれから過ごすであろう街に思いを馳せていたが、診察室からの呼び声で我に返った。
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