公爵子息に気に入られて貴族令嬢になったけど姑の嫌がらせで婚約破棄されました。傷心の私を癒してくれるのは幼馴染だけです

エルトリア

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40 再来の黒塗り事件

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 朝の陽の光が、アーカンシェルの長閑な街並を照らしている。
 街が明るくなるにつれ、早朝から働く人々の姿が疎らに見え始めるようになった。各戸に新聞を届ける新聞配達人の蒸気バイクが、商業区域の大通りを曲がっていく。いつもと変わらない朝の日常だった。だが、その日常を破る新聞配達人の悲鳴が、静かな街に響き渡った。

「あ……、あ……」

 悲鳴を聞きつけて駆けつけたエドガーらに、新聞配達人が震える手で示す。彼が指差すまでもなく、目の前に広がっている異様な光景にエドガーは目を瞠った。

「そんな、まさか……」

 リーリエの絵を守るため、夜を徹して街の巡回を行っていた――にもかかわらず、街の大通りのスプレーアートが全て真っ黒に塗り潰されていたのだ。

「……どういうことなんだ? 一体いつ……」

 集まったエドガーの仲間や、美大生らが無残に塗り潰された看板の前で険しく顔を歪めている。
 決して少なくない人数で、順路と時間を決めて行われた巡回の際にはなにも異常はなかった。だが、それでも『黒塗り事件』は起きてしまったのだ。

「巡回は完璧だったっていうのに――」

「完璧じゃないから、こうなってるんだろ」

 誰かの呟きを、別の誰かが苛立った口調で遮る。

「……誰かが巡回を怠ったか? それとも……」

 途中で切られた言葉の先には、恐らく仲間を疑う言葉が続く。それを察知した美大生の青年が芝居がかった仕草で手を広げ、肩を竦めた。

「おいおい。俺たちは仲間だぜ」

「そうだよ。なんで、そんなことをしなきゃならないんだよ」

「けど、他に出歩いてるヤツなんていなかっただろ! うちの看板が台無しにされたんだぞ!」

 年配のシモンが感情的に声を荒らげる。他の仲間とは違い、被害者でもある彼の発言に、薄笑いを浮かべていた美大生らは俯いた。
 しんと水を打ったような沈黙が流れる。高速道路を走る蒸気車両のエンジン音が過ぎ、彼らの頭上で鳥の囀りが響いた。
 いつもと変わらないアーカンシェルの朝。だが、目に入る街の景色は、陰鬱に黒く歪められてしまっている。

「……落ち着いてくれ。それこそ犯人の思惑通りになるぞ」

 沈黙を破ったのは、沈痛なまでのエドガーの静かな声だった。

「自分たちがすべきことは絵を守ることであり、そうでなければ巡回に加わることはないはずだ。少なくとも俺はそう信じてる。……怒りは尤もだ。気持ちはわかる。けど、有志が集まった仲間であるからこそ、疑念を抱くような不用意な発言は避けた方がいい」

 怒りを押し殺しながら淡々と諭すような言葉を紡ぐエドガーに、一同は静まり返り、お互いの顔を見合わすように視線を彷徨わせた。だが、それぞれの頭に浮かんだ疑念は拭うことができず、彼らは仲間の顔を直視出来ずに目を伏せた。

「……昨晩、二時に俺が見たときはなんともなかった。なにかあったのは、その後だ」

 次の沈黙を破ったのは、仲間の一人の報告だった。

「四時の巡回でも、異常はなかったぜ」

「新聞配達人が、黒塗りのスプレーアートに気づいたのは、今朝――六時……」

 別の仲間が報告に加わり、犯行時間の分析が始まる。エドガーは顎に手を当てて呻くように呟き、仲間たちの肩越しに黒塗りにされた看板を見渡した。

「……つまり、犯行は巡回の間ってことだな」

 約二時間の空白の時間。それだけの時間があれば、これだけの犯行は可能だろう。

「……なあ、巡回時間とルートを知っている人間の犯行ってことにはならないか?」

「なにが言いたいんだよ、シモン」

 シモンの発言に、彼の隣にいた青年が訝しく声を上げる。

「可能性は否定できない。だが、巡回を始めてもう二週間だ。ルートや時間の規則性なんてもんは、注意してればすぐにわかる」

 代わりに答えたのはエドガーだった。

「……あの……」

 その言葉に触発されたように重い空気の中で、まだあどけない少年の面影の残る顔の美大生が手を上げる。

「関係あるかどうかはわからないんですが、昨日は貴族を普段よりも多く見かけました」

「同じ街に住んでるんだ。そんなの証拠にもなんねぇよ」

 誰ともなく苛立った声が上がり、最年少美大生は怯えたように視線を足許に落とした。

「いえ、犯人がどうとか、そういうことを言いたいのではなくて……」

「続けてくれ」

 消え入りそうな声を支えるように、エドガーが声をかける。目を合わせ、その先を促された美大生は、首を巡らせ、大通りから伸びる細い路地の方を指差した。

「皆、蒸気車両で移動をしていたのです。大通りではなく、細い路地の方を」

 蒸気車両は、基本的に大通りを走る。路地の通行が許可されていないわけではないが、細い路地では歩行者と擦れ違うのも精一杯ということもあり、そこをわざわざ通行しようという者は余程の理由がない限りいない。路地に用があれば、大通りに車を停め、徒歩で向かうのだ。

「……それは、妙だな……」

 美大生の証言に、エドガーが口許に手を当てて低く呻く。美大生は頷き、自身が抱えていた疑念を更に口にした。

「関係があるかどうか、これで決めることはできないと思います。……ただ、もし僕が犯人ならば、路地に停めた蒸気車両からスプレーを出して犯行に及び、すぐに路地に戻ると思います」

 街灯がない路地は人通りも少なく、目撃されるリスクは極端に低くなる。蒸気車両が出て来たところで、乗車している人間を割り出すことも困難だろう。まして、そこに大量の塗料が積まれていたとしても。

「……可能性はあるな。わかった」

 エドガーが静かに溜息を吐き、貴族街の方を見遣る。街の西側、やや高台に続く貴族街の街並は、まだ薄暗く、朝と夜の境界にある。

「どうするんだ? まさか抗議に行くんじゃないよな?」

 沈黙に耐えかねたように、シモンが不安を口にする。エドガーはそれに穏やかに微笑むと、努めて明るい声で告げた。

「まさか。『黒塗り事件』の捜査を嘆願するだけさ」
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