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33 描きたいもの
しおりを挟むたくさんのビジョンが、光をまたたかせながら、リーリエの脳裏を去来している。
突然のニュースで乱された心は、まだ少しざわついていたが、それも美術展に出す作品を構想する時間が増えるにつれ、だんだんと落ち着きを取り戻しつつあった。
美術展の会期は、いよいよ来週に迫っている。
塗装用の従機で描くことは決めており、エドガーによる申請は既に許可されている。制作ブースの通知も届き、構想さえ固まればすぐにでも着手出来る環境が整っていた。
「もう少し。私らしいなにか……」
描くこと――それ自体には、それほど時間は要しない。当日でも充分に間に合うだけに、リーリエは構想にじっくりと時間をかけた。そうしたかった。
エドガーが期待してくれた絵、アスカが見せつけてやろうと言ってくれた絵。
街の人々の注目、母ミシェルがリーリエの成長と重ねている絵。
それらは、リーリエが自分らしく表現出来る唯一無二のもの。
それは何か――
☘
新しく塗装した橙色の屋根の上に寝転び、空に手のひらを翳しながら、リーリエは鼻先をくすぐる柔らかな風に誘われるように目を閉じた。
穏やかな微睡みに似た感覚が、浮かんでいるビジョンを鮮やかな色のなかに融かしていく。それらは優しく混じり合い、幾つもの色が浮かんでは消える。その中で、最後に残ったのは、青く澄んだ空の色だった。
「……離れていても一緒だ、空は繋がってる」
十三年前のエドガーが残して行った言葉を思い出して呟く。
泣きじゃくるリーリエとアスカに、エドガーが告げた言葉だ。リーリエは、その言葉から浮かんだビジョンを絵に残し、エドガーに『空』を描いて渡した。エドガーは驚きながらもそれを受け取り、宝物のように胸に抱いて蒸気車両に乗り込んだ。
そうして遠くの街へ、いつか帰るという約束を残して行ってしまったのだ。
「あの絵、どうなったのかな……」
思い出して空を見上げると、あの日描いた絵が鮮明に蘇った。
今、目の前にある空の色とは違う。緑がかった水を思わせるような透明度を備えた、明るく、どこまでも広がっているあの空の色。
一度として同じ色を見せない空を仰いでいたリーリエは、近づいてくる蒸気バイクの音に気づいて飛び起きた。
真っ赤な蒸気バイクが、大きな缶を運んでこちらに向かってくるのが見える。
従機用のエアスプレーにカスタマイズしたバニッシュペインターを、エドガーが愛車で運んで来たのだ。
☘
「うん、良い感じ」
下に降り、愛機フェイド・ファミニリーズのエアブラシにバニッシュペインターを取り付けたリーリエは、先日描いたアーカンシェルの街並に透明な橋をかけ、次に、それを元通りの街並に戻した。
「すっかり使いこなしてるな」
バニッシュペインターによって、色の消失と具現を瞬時に切り替えるのを目の当たりにしたエドガーも満足げに頷き、操縦席のリーリエを仰いだ。
「お代は?」
「お前が笑顔で描いてくれるなら、それで充分だ」
「……え……」
突然眩しい笑顔を向けられたリーリエは、咄嗟に反応出来ずに口ごもる。エドガーはそれに小さく笑い、前髪に手指をかけた。
「ちょっとキザ過ぎたか」
照れくさそうに前髪をいじるエドガーの仕草は、子供の頃とあまり変わっていない。泣きじゃくるリーリエとアスカに、「離れていても一緒だ、空は繋がっている」と言ったあとのエドガーが、まさしくその仕草をしていたのを思い出したリーリエは、懐かしさに微笑んだ。
「大分ね」
「ははははっ」
返答にエドガーが噴き出し、リーリエもつられて笑う。二人でひとしきり笑った後、リーリエは従機の操縦席から改めて絵を眺めた。
「……ありがとう。エドガー。幼なじみに、こんなに良くしてもらえるのは心強いわ」
「……だったら、幼なじみからもう少し俺を昇格させてくれてもいいぜ」
リーリエの言葉に、エドガーが軽口めいた言葉を返す。だが、その顔が耳まで赤くなっていることに気づき、リーリエは目を瞬いた。
「エドガー?」
「……好きだ、リーリエ」
問いかけに、リーリエに向き直ったエドガーが、声を張って告げる。その告白に、リーリエは目を瞠って彼を見つめ返した。
「……急にこんなこと言われて、お前が困るのはわかってる。だから返事は急がない」
エドガーの真摯な視線がまっすぐにリーリエを見つめている。リーリエも瞬きさえ出来ずに、その視線に応えた。
「けど、俺は本気だ。どっかの誰かさんみたいに、お前を悲しませたりはしない。信じてくれ」
「信じるわ……。そう言ってくれるのはとても嬉しい。けど――」
それをどう受け止め、どう気持ちを動かせば良いのかわからずに、リーリエは言葉を切り、俯いた。
「……やっぱり待つのは苦手だ」
自嘲気味に笑ったエドガーが、従機の梯子に手をかけ、操縦席に迫る。俯いたままのリーリエはその気配に顔を上げられずに、目を伏せた。
「待つのは苦手なんだが、返事はまだいらない。だから、黙ったままでいい」
リーリエを背後から抱き締めるように腕を回したエドガーが、切なく震える声で紡ぐ。その声から彼の緊張を察したリーリエは、後方に視線を彷徨わせた。
「エドガー……」
「そこまでにしてくれ。それ以上聞いたら、急かしたくなっちまう」
赤く染まった頬が視界の端に見える。リーリエの熱くなった頬や耳朶も、恐らく彼と同じ色をしている。
抱き締められた背に、エドガーの鼓動が伝わっている。
「…………」
リーリエが、迷いながらエドガーの腕に手指を伸ばそうとしたその時。
「で、来週の美術展だが、何を描くか決まったか?」
エドガーがすんなりリーリエを腕の中から解放した。
「……それ、今聞いちゃうの?」
拍子抜けと同時に安堵の息を漏らしてエドガーを振り返る。エドガーは梯子から降り、広く設けられた窓辺へと寄った。
「俺はお前のパトロンだからな。一番に知りたい。……ダメか?」
「ううん、全然」
窓から差し込む光が、エドガーの頬を明るく照らしている。まだ赤みが残るその顔を愛おしく眺めながら、リーリエは従機から飛び降りた。
「あれにしようかなって」
窓の向こうに広がる景色を指差し、頭の中に浮かんでいるビジョンを重ねる。
「空?」
リーリエの指先を目で追ったエドガーが、目を瞬きながら問い返した。
「そう。アーカンシェルの空を描く」
「はははっ、最高だ!」
断言したリーリエに、エドガーが歓喜の声を上げながら懐を探る。
「俺も、空がいいと思ってた」
大切に折り畳まれた古い一枚の紙を取り出したエドガーが、丁寧にそれを広げていく。
窓の外の景色に重ねるようにエドガーが広げて見せたそれは、リーリエが彼に送ったあの空の絵だった。
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